贋作怪盗バニー

折原ひつじ

前編

 コツ、と真新しい靴が磨き上げられた床を叩いて軽やかなリズムを奏でる。夜の美術館にはたっぷりとした静謐が満ちていて、そのひそやかな空間は考え事をするにはうってつけだった。

 まんまるなライトの光が薄暗い展示室の中に偽物の満月を作り上げる。漫然と思考を巡らせながら廊下を歩いていれば、不意に力強い衝撃が僕の背中を襲った。


「おつかれ、月村!」

「う、わっ! も、りや先輩」


 じゃれあいのつもりなのだろうが、学生時代にテニスをしていた彼の一撃は彼本人が想像している以上に強烈なのだ。油断しきっていたこともあってずれかけていた眼鏡は抵抗することなく宙を舞って落ちる。それをぼんやりと眺めながら「美術品に当たらなくてよかったなあ」なんて内心でひとりごちた。


「げっ、悪い」

 

 流石にそこまでとは思わなかったのだろう。先輩は慌てて前に飛び出すと、素早く床をすべっていった眼鏡を拾い上げる。そしてしゃがみ込んで闇雲に探すそぶりを見せる僕に向けて申し訳なさそうに眉を寄せながら差し出したのだった。ちらりと眼鏡に視線をやる。幸いレンズに傷は走っていないようだ。


「ほら、眼鏡あったぞ」

「すみません、ありがとうございます。かけてないと何にも見えなくて……」


 お礼を言いながら眼鏡を受け取ってかけ直せば、今度は少し困ったような曖昧な笑みを浮かべる先輩が視界に映る。彼は短く揃えた髪をいじりながら言葉を探していたようだったが、おもむろにぽつぽつと語り始めたのだった。


「いやオレが悪いんだから謝んなよ。なんつうか、もう少し堂々としてもいいと思うぞ。おどおどしてると新人だってバレちまうし」

「す、すみません」


 反射的に謝罪の言葉を口にする僕に今度こそ先輩は眉を下げて笑みを作る。彼は何をいうでもなくぬっとこちらに手を伸ばすと元スポーツマンらしく厚みのある硬い手のひらで僕の跳ね気味の髪を掻き乱した。ぐしゃぐしゃと荒々しく頭を撫でたあと、先輩はそのまま僕よりも前をゆく。


「お前、美術品とか見てる時ってもっと楽しそうっていうか……目がキラキラしてるだろ? ああいう態度でいればきっと誰もお前のことを弱っちそうな警備員だなんて思わねえよ」

「そんなに僕、頼りなさそうですかね?」


 なんて口にしながらもわかっている。僕は身長はあるもののひょろっとしていてなんとなく気弱そうな見た目をしているのだ。黒縁な眼鏡も合わせて典型的な大人しい青年といったところだろうか。僕の問いかけに先輩は失言をしたと思ったのか少し気まずそうに目をそらしながらガシガシと頭をかいた。


「まあ、お互い頑張ろうぜ。オレも結構ここの美術館の展示品は好きだからさ、ちゃんと守ってやりたいんだよ」


 そんな自分と体格に恵まれた先輩との間の共通点を知って、なんとなく不思議な気持ちのまま2人きり順路を進んだ。人っ子一人いない回廊に二人分の足音だけが反響する。


「こら、背中曲がってるぞ。そんなんじゃいざって時に逃げられちまう」

「逃げられるって……」

 

 何に?と聞くのは無粋だろうか。そんな僕の迷いを見透かすように先輩は「ほら」と何でもないような顔をして告げた。


「怪盗、来るんだろ。なら盗まれねえようにしっかり見張って、盗まれたら取り返してやらなくちゃいけない。逃げ足が速いやつだって聞いてるからな」


 へえ、と漏らした声が思った以上に他人事のようになって思わず口をつぐむ。全然他人事じゃないだろ、僕。気づいているのかいないのか、先輩は気にした様子もなく自分に言い含めるみたいにゆっくりと言葉を紡いだ。


「なんでも弱っちそうな見た目をして油断を誘うらしい。そんで気を許したらパッと盗んでパッと逃げちまう。それが怪盗バニーなんだとさ」


 怪盗バニー……巷で話題の怪盗から「ロマン溢れる『微笑む黄薔薇』を頂戴致します」と書かれた予告状が贈られたのは数週間前のことだった。


 ターゲットである「微笑む黄薔薇」は地元出身の画家が友人である館長に贈った作品で、当館が誇る此処の代名詞とも呼べる名画なのだ。この絵画を見るために遠方から尋ねに来る人も多く、地元の人々からも人気は高い。この街で育った人間で存在を知らない者はいないほどらしかった。


「弱そう、なんですか? なんか気が抜けちゃいそうですね」

「大丈夫だって。お前以上に弱そうなんだ、油断しなきゃ掴まえられるだろ?」


 それは流石にちょっと、と軽く抗議の意味をこめた視線を向けるものの先輩にそれに気づいた様子はない。その表情に悪意はなく、心の底から「怖がることはない」と安心させようとしているのだと窺い知れて僕は小さく溜息を吐いた。そうやって油断しているから捕まらない、という話なのに。


「けど、それならもう少し警備員とか増やしたらいいんじゃないんでしょうか。予告の日まで一週間もないですよね?」

「……そうだな」


 怪盗のお決まりとも言える「予告状」に書かれた日付はもう目前に迫っている。僕の問いかけに先輩はほんの少し眉間に皺を寄せ、僅かに苛立ちを含んだ声色で語りながらゆっくりと歩みを止めた。


「まあ、仕方ないだろ。騒いで困るのは所有者の方なんだ。なんたって怪盗バニーが狙うのは……」


 先輩のペンライトがおぼろげな月の光に照らされた美術品を闇に浮かび上がらせる。そこに飾られていたのは今回のターゲットとして「微笑む黄薔薇」だった。重厚感のある筆致であるにも関わらず描かれている黄色い薔薇の花束はあたたかみのある表情をしており、一見名画と呼ばれるのにふさわしい佇まいをしているように見える。だが……


「揃いも揃って贋作ばかりだからな」


 怪盗バニーが狙う作品の共通点はただ一つ、「贋作」であることだった。たとえそれが嘘だとしても気に入っている絵画を贋作扱いされればあまり気分も良くないだろう。僕は先輩の御機嫌伺いをするようにそろそろと問いを投げかけた。


「……先輩は、この作品を贋作だと思ってるんですか?」


 すぐに否定が返ってくるかと思いきや、先輩はただただ曖昧な笑みを返すばかりで何も口にすることはなかった。目の前の絵画を見上げながら言葉に声を吹き込むかどうか悩んでいるようで、僕らの間に生ぬるい沈黙が横たわる。


「……分からない。けど本物ならそれでいいし、贋作なら怪盗から守ればいい。無くなったら困るんだ、どちらにせよやることは変わらないしどっちでもいいさ」


 そして数分の煩悶のあと、絞り出すような声で出した答えはあまりにもシンプルなものだった。どちらでもよくはないだろうけど、きっとどちらであっても地元の人々にとっては大事な作品であることは変わりないのだろう。

 やることは変わらないと言った先輩は横顔は凛とした決意に満ちていて黒い髪に月明かりがよく映えていた。


「すごい、先輩が頑張るなら僕も頑張らなきゃなぁ……」

「頼むぞ、月村。警察に頼るわけにはいかないからな」


 怪盗バニーが何故盗みを成功させられるのか。それは単に「所有者が予告状を受け取ったことを大事にしない」からだ。

 怪盗バニーが狙うのは「贋物」である。つまり怪盗から予告状が届いたと公にすれば、その美術品は贋作である可能性があると喧伝するのとほとんど同義なのだ。

 それが実際に贋作であるかどうかは鑑定人に任せておけばいい。問題なのは世間の目だ。一度贋作であるという疑いが出てしまえば、懐疑の目が向けられ続けることとなってしまう。噂になることを恐れた持ち主は内密にことを済ませようとし、結局のところでターゲットが奪われてしまうという悪循環に陥っているのだった。


「警察に頼れないのはちょっと不安ですよね。どうにかできればいいんですが……」

「そうだな……けどそういえば館長が言うにはもうすぐ秘密の助っ人探偵を呼ぶらしいし、大丈夫じゃないか? なんて人だったかな……?」


 対策を考える素振りを見せる僕に対し先輩は先程までの真面目な表情はどこへやら、あっけらかんとした様子で「秘密の助っ人探偵」という情報を口にする。なんというか、あまりにも素っ頓狂な響きじゃなかろうか。

 「探偵」というフレーズを不安で顔を青くしながらくり返す僕へ、先輩は彼の名前をようやく思い出したのかつとめて明るく言い放ったのだった。


「そうだ、怪盗バニーの最大のライバルであり逮捕に情熱を注ぐ私立探偵・九尾さんが今回は来てくれるらしいから大丈夫だぞ!」


 


 

 

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贋作怪盗バニー 折原ひつじ @sanonotigami

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