夢限軌道限界進撃

ラーさん

夢限軌道限界進撃

 これは夢だ。

 僕の目の前では慈悲に微笑む人面魚を胸に抱く般若の形相のアヴェ・マリアが、蛍光ネオンの後光を放ちながら高層ビルのコンクリートジャングルをワイヤーアクションで縦横無尽に飛び回っている。それを称賛する大群衆の「南無大師遍照金剛なむだいしへんじょうこんごう!」のシュプレヒコールは、火花を散らして跳ね踊るネズミ花火のように振り回されるサイリウムとともに大熱狂で沸き上がっている。

 その中でぽつねんと立つ僕はこれが夢だと知っていた。

 知っていてもどうにもならない。

 僕の横に二本足で立つバーコードヘッドのオッサンの顔をしたガラパゴスゾウリクガメが、こちらの肩をトントンと叩きながら高く頭上を指さす。

 そこに見えるのは、天上を覆い尽くすポリエステル100%のタグを縫い付けられた胎蔵界曼荼羅たいぞうかいまんだらにサイケデリックに描かれた七大天使とソロモン七十二柱による荘厳なる四十八手図像である。


「お困りのようですね」


 壮大なる下世話な図像を見上げながら途方に暮れている僕の足元から声がした。視線を下げるとそこに美少年がいた。

 牛乳と蜂蜜で染めたような甘やかなクリーム色の肌をした美少年が、黒い水晶玉にも似た大きな瞳で僕を見つめている。そのあどけない顔つきは年相応の少年のように見えたが、その格好は燕尾服にシルクハットと夢の登場人物らしくエキセントリックな装いをしていた。

 困惑の視線をむける僕に美少年はにこりと人懐っこい笑顔を見せる。


「わたくし夢魔でございます」


 夢魔。人の夢に出てきて悪夢を見せる悪魔である。確かにこの奇天烈な光景は悪夢に出てきそうなものばかりであり、そこに夢魔が現れても驚くことではないように思える。


「お気づきのようにここは夢でございます。千変万化の不形不定の夢の中。あなた様のお望みになられたうつつと途切れた自由無限の夢の国でございます」


 夢魔を名乗る少年は歌うような美声でそう語りながら、細い両腕を優雅に広げダンスのような身のこなしでぐるりと身体を回転させる。するとあたりのイカレた狂騒の景観が風で吹いたように一掃され、まっさらな紙のように広大無辺の白い空間が広がった。


「夢の色は白でございます。なにものにも染まる白は自由の象徴。人の身に呪いのように付きまとう睡眠がいざなう、暗い暗いまぶたの裏の闇のとばりの中で、唯一に見られる光の光景でございます」


 そこにパチリと指の音。夢魔の鳴らしたその音は波紋のように白い世界を震わせて、そこから津波のように色を世界に溢れさせる。

 まずは緑が草原となって地面を走り、次に群青が高く飛んで空を描いた。ついで赤が飛び散り花を咲かすと、今度は黄色が砂となって砂漠を広げる。さらに茶色が隆起して木々を生やして森となり、黒い飛沫が水となって川を作り、白が湧き上がって雲を空へと吹き流す。


「ああ美しきかな、夢の世界の夢の彩り」


 次々と生まれ出る色の洪水の中で、シルクハット片手に踊る少年は燕尾服をなびかせながら華麗なステップを踏んで僕の周りをくるくると回る。


「さあ、ここはあなた様の望まれた夢の世界。この手を取って共に永劫の楽園を巡りましょう」


 そう微笑みながら僕の前で跪いた少年が、その乳蜜の甘やかな肌をした手を恭しく僕へと差し出す。


「さあ!」

「さあ!」

「さあ!」


 気づけば僕と少年を囲む大群衆が現れていた。黒い影でできた顔のない大群衆は口だけを赤い肉の色に染めて、口々に少年の手を取るよう僕に促してくる。さらに大群衆の頭上には何枚もの巨大スクリーンが広がっていき、そこに「今世紀最大の歴史的瞬間!」とワイドショーのようなテロップ表示とともに今の僕の姿を映し出す。

 僕が望んだ夢。

 そう言われて僕は腑に落ちるものを感じた。

 夢だ。

 夢。

 荒唐無稽な夢でしか見られない夢がある。

 僕は現実を忘れていた。

 どうにも思い出すことができない夢から覚めた自分の姿に、僕はきっと現実に未練のない人間なのだと思った。


「そうです。ですからわたくしがあなた様のもとに訪れたのです」


 少年の――夢魔の手が伸びる。僕は夢魔の手を取った。


「ハレルヤ!」


 メサイアが鳴り響く。空を舞う天使たちが高らかにヴァイオリンを弾き、立ち並ぶ五百羅漢がオーケストラの楽奏を始めると、黒い影の大群衆による「ハレルヤ!」の大合唱が地割りのような大音響となって沸き上がった。


“King of King and Lord of Lord!《王の中の王、主の中の主!》”


 高揚する大群衆の歌声の中、夢魔は僕の手を引いて歩きだした。夢魔と僕の歩く地面にはいつの間にかレッドカーペットが敷かれ、行く手の人垣が波のような動きで二つに割れていく。

 僕と夢魔はその間をゆっくりとした足取りで進む。


“and He shall reighn for ever and ever!《そして貴方は永遠に在り続けるでしょう!》”


 雨のように降り注ぐ讃美歌の中を進む先に見えたのは、高さ百メートルはあろうかという巨大な鏡餅の上に築かれたメトロポリタンなオフィスビル群の上にそびえ立つサクラダ・ファミリアの上に仁王立つウルトラマンの上に肩車されたバーフバリのたくましい腕に支えられたラピュタの上に建てられた五層六階の姫路城の大天守だった。


「さあ、永劫なる空中楼閣へ!」


 浮かび上がる夢魔に手を引かれて空を飛んだ僕は、ぐんぐんと高度を上げてこの珍妙奇天烈な建物の最上階に降り立った。

 そこには釈迦如来坐像が鎮座していて、その額の白毫びゃくごうの部分には「起動ボタン」とテプラの貼られた赤いボタンが取り付けられていた。その上にはゲームの表示のように「PUSH」の文字が浮かんでいる。

 僕は疑うことなくそのボタンを押した。


「おお、素晴らしき英断でございます! 無限軌道の夢の輪が無辜の民草の無上の歓喜に無道の回転をお見せしましょう!」


 夢魔が歓声を上げると同時に、姫路城の建てられたラピュタを腕で支えるバーフバリを肩車するウルトラマンが仁王立ちするサクラダ・ファミリアが聳え立つメトロポリタンなオフィスビル群が築かれている巨大な鏡餅が轟音を上げて動き出した。鏡餅は「ハレルヤ!」と合唱を続ける大群衆をはじめとする眼下の景色のなにものをも踏み潰して邁進する。

 その情景を見下ろしていると、僕の横にバーコードヘッドのオッサンの顔をしたガラパゴスゾウリクガメが現れ、


清廉せいれんに塗れた愚者の群れがアルミニウムになるために発声練習をするボーキサイトの不断なる努力を嘲うことは、デイトレードをする本日の天気が鈍行列車の縦列駐車により帰宅困難者となったミツユビナマケモノに見せる満面の憂鬱と同様のものであるということは、スチームポットにとっては一顧だの価値もないプレーンオムレツのような常識なのだよ」


 と、したり顔でうなずいていたので僕はその顔を問答無用でぶん殴った。するとどこからか集まってきたアルパカたちがガラパゴスゾウリクガメを踏みつけながら口々に叫んだ。


「我らが敬愛すべき我らが主君! 至高の御方おんかたたる王の中の王! 我々を必ずやカナンの地へと導き給え! そこは完全無欠たるパチンコが、エルドラドを語る土地。清貧なる東方の三賢者が、連日連夜ランサムウェアの送信に励む土地。間欠泉式温泉便座が、沸騰する葛藤を粛清と総括へと落とす土地。一億レンテンマルクに埋め尽くされた、4Kハイビジョンのこの世の苦海浄土! そこではプルトップを集めて作られたタイガー戦車が花畑に春の訪れを告げ、マンドラゴラを束ねて作られたUSBが処理落ちのロリータ画像に断末魔の歓呼を招来させることだろう。照覧あれ! イカ墨と練乳で描かれた太極図に磔けられたイエス・キリストの脳天に蓮華の花弁が啓くさまを! 墜落するオガサワラオオコウモリにも似た絶望的感動に打ち震える振動測定機が示す、三連プロパガンダが垂れ流した正確無比なるグラフの波のシンメトリーを! 漠然たる共感が我々の胸に波濤となって押し寄せるならば、その衝動はひとつの布団乾燥機となって、永久不滅の空中楼閣を国会議事堂の上に築くのだ!」


 そして絶叫が吐血とともに途絶したアルパカたちが「寝るパカ」と言ってばたばたと倒れると、そのまま天守閣から転げ落ちて鏡餅の上げる土煙の中に消えていった。それを見送った釈迦如来座像はおもむろに立ち上がり、白煙を上げる黒板にフェルマーの最終定理を書き始めたので僕がその式の誤りを指摘すると、釈迦如来立像は憤懣やるかたない様子で「寝ブッダ」と言って布団をかぶって涅槃ねはんしてしまった。

 こうして釈迦が入滅してしまったので僕は悟りを開き、「パタヤビーチに行かなければ」という真理に至った。これは元朝秘史に記されたヒエログリフをラマーズ法で読み解くことによって得られる事実無根の真理と同じものであり、僕は運転席に座って鏡餅をフルスロットルで爆走させた。

 全速前進で進撃する鏡餅は、その雄姿に熱狂する一億総貧民を慈悲深い蹂躙によって歓喜の悲鳴とともに救済していく。さあ、シャネルの5番にも似たかぐわしい香りが立ち昇る。皆々様よ、リバプールに火を放て。なにを躊躇う、偽善など束の間の買春だ。落下するリトルボーイに並走するシヴァ神の疾走は、寸鉄よりも鋭い爪楊枝で跳梁跋扈するモラリストの脳天にキノコの雲を燃やすのだ。ボイジャーは飛び去った。もはや不自由などありはしない。遠心力は無尽蔵。振り子の糸は振り切れた。少年たちは列をなして衆愚の街を駆け抜けよ。沈黙に饒舌な群衆の戯言ざれごとなど究極の産業廃棄物。後方斜め四十五度より訪れる鉄バットの快音による演奏で安楽の祝福を撒き散らせ。少女たちは輪をなして惰眠を尊ぶ賢者を囲め。道路工事に安眠する羊たちの寝言など極大の神経廃棄物。ロードローラーの振動が紡ぎ上げるモールス信号の福音は釈明を求めずに、懺悔する聴衆を空き缶とともに颯爽と踏み潰す。さてぞ皆ども、ここに真理は至ったぞ! とどまることを知らぬ真理の進撃! 真実の体現であるぞ、跪け!

 このように芸術とは蹂躙であり、それはチョリソー片手にダイナマイトで吹き飛んだミシェル・フーコーの遺言が「サスペンションが折れた」であったことと同様な再現率100%の典型的悲劇であったため、鏡餅を走らせる無限軌道のサスペンションがこの瞬間に折れたことは避けられない悲劇的運命であったのである。

 かくして進撃が挫折した鏡餅に慨嘆する僕に夢魔が悲しい顔で告げる。


「ああ、残念。夢は無限であるのに、人の肉体のなんとままならないことか。あなた様の身体が目覚めようとしている。夢の終わりはうつつの始まり。哀れで不自由な牢獄の朝が来る――」


 ああ、言うな。

 言わないで。

 そんなことは知っている。

 だから忘れていたいのに。

 だから未練なんてありえないのに。

 引き戻される。

 薄ぼんやりとした朝が来る。

 月曜日の朝が来る。

 だれか僕を助けてください。

 夢が夢でいられるように正気なんて帰ってこないで――。


「ああ、かわいそうなあなた様」


 だから僕は夢魔に取り縋り、助けてくださいと請い願ったんだ。


「では、この青いボタンを押してくださいませ」


 そう夢魔が指し示したのは、布団をかぶって入滅した釈迦涅槃像の頭頂の螺髪らはつにある青いボタン。

 そこにはテプラで「押すな」と貼られている。


「ええ、押してはなりません。けれど押さなければ夢から覚めてしまいます。ですからよくお考えにならなければなりませんよ?」


 夢魔は穏やかな声で言う。けれど僕は知っている。もう考えている時間なんてないことを。見渡せばあたたかい光が地平の彼方から差し込んできている。夢を溶かす光が差し込んできている。空中楼閣が光に溶ける。その前に、その前に押さなければ、押さなければ――、

 しかしだ。

 駆け出した僕はなにかに蹴躓いてしまった。

 僕が殴り倒して地面に伸びた、バーコードヘッドのオッサンの顔のガラパゴスゾウリクガメ。


「残念」


 そこに夢魔の無情な声が聞こえてくる。


「時間です」


 夢魔は転んだ僕を見下ろしながら、心底残念そうな表情で恭しく一礼をして告げた。


「またのお越しをお待ちしております――」


 光が、広がっていく――。



   *****



 厚いカーテンの隙間から差し込む光が僕の顔をまぶしく照らしている。

 ベッドに沈む身体の重さに意識がじんわりと立ち返ってくる。

 わずかに顔を横にむけると睡眠薬の空き箱が転がる床が見えた。

 もう一箱あれば。


「ああ――」


 自分の漏らした息の音を聴いた瞬間、涙がぽろぽろとこぼれてきた。

 そこにノックの音が聴こえてくる。


「もう学校に行く時間だぞ?」


 まだ残る睡眠薬の効果で虚脱に声が出せない。返事のないことを訝しんだのかドアが開かれる。

 バーコードヘッドのオッサンが光を背にして部屋に入ってきた。

 親父。

 ドアから差し込んだ光が、なんだか嫌にあたたかかった。

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