4-11 箕輪結華梨について・後編
中二の秋頃、ダンス部の休日練の最中。学校の外れで一人で練習していた
割り切ったはずなのに。面と向かって言われると、あの頃の辛さがぶり返す。冷静に言い返すこともできず、逃げようとして触られるのも怖くて、ただ泣くまいという一点で俯いていた――泣いたところで悦ばせるだけだ、どんな表情だって見せてやるものか。
そこにやって来たのが、彼だった。
「――いた、
ジャージ姿の
「ダンス部の人が探してた。スマホ置いてったりした?」
言われるままスマホを取り出す、特に通知は来ていないが、言葉の意図は分かった。
「ほんとだ、連絡来てた……すみません、部活あるので」
仁輔は逃げるきっかけを作ってくれたのだ、頭を下げて駆け出そうとすると。
「――お!?」
先輩が結華梨へ腕を伸ばしてきたのと、仁輔が割って入ったのと、同時だった。
「お前、」
仁輔に詰め寄ろうとした男子たちが、ギョッとしたように息を呑む。
結華梨は下がりながら仁輔を見上げた。
眼光、とでも言えばいいのだろうか。睨みつける視線は、とてつもなく鋭い圧力だった。
他の男子より特に大柄というわけでもないのに。俺の方が強いぞと、その気になればすぐに倒せるんだぞと、刻みつけるような眼差しだった。
もし結華梨に向けられたなら、それでどんな抵抗も諦めてしまうくらいに。
怖くて、恐ろしくて――あまりにも、格好いい。
「人の部活の邪魔、しない方がいいと思いますけど」
文章は平和だったけど、臨戦態勢なのは明らかな声色だった。その仁輔の注意で、絡んできた男子たちは去っていった。
「……箕輪さん、大丈夫だった?」
仁輔にかけられた言葉、それ以上に。
さっきの怖さとは正反対の、優しい目とか。
女子と話すのに慣れていなさそうな、少しおどおどした空気とか。
結華梨との距離を、ちゃんと守ってくれる律儀さとか。
それらがどうしようもなく、眩しくて。
気づいたら結華梨は、仁輔に抱きついていた。
「――あの、箕輪さん?」
「あ、ごめん!」
慌てて体を離したけど、高揚は収まってくれない。
久しく感じていなかった、もう要らないと思い込んでいた、男の体への欲が。大事に守ってくれる安心感が、こんなにも。
「ごめんね、ほっとしたらつい……」
「俺はいいんだけど……汗、くさくない?」
「それはウチもだし……いや、そうじゃなくて!」
息を整えて、お辞儀。
「ありがとう、津嶋くん。本当に助かりました。そんなにひどいこと、まだされてなかったから、」
大丈夫、とは言いたくなかった。もう少し、彼の優しさから離れたくなかった。
「なら良かった……最悪だよな、ああいうの」
「うん、けど津嶋くんはどうしてこの辺に? あんまり来ないイメージだけど」
「玄関のあたりであいつら見かけてさ、なんか嫌な感じしたから追ってみたのよ」
「嫌な感じ?」
「ただのカンなんだけど。悪いこと企んでいる奴、そういう雰囲気するっていうかさ」
そのときは、野生の勘らしき才能があるんだろうとしか思っていなかったけど。
あれから三年経った今なら分かる、それは義花を悪意から守ろうとする習慣から磨かれた眼だ。
「そっか……本当にありがとう、ところでさ」
彼の優しさが沁みたから、どうしても気になってしまった、試したかった。
「去年、ウチのエロ動画が回ってたの、津嶋くん知ってる?」
仁輔の顔色が変わる。気まずいとか焦ったとかではなく、怒った顔に。
「……知ってる、マジで酷かったよなアレ」
「ちなみに、見た?」
「見せられそうだったけど断った……そいつにもっと怒って良かったなって、今になって思う」
そのやり取りで、評価が定まる。
仁輔は、結華梨を苦しめてきたような卑劣さを、本気で憎んでいる。
それに抗うために、本気になれる。
弱さの言い訳の優しさでもなく、振りかざすだけの強さでもなく。
正しさのために、強く優しく――そんな理想を、体現しようとしている。
それを理解した瞬間。
同時に、どうしようもない片想いであることを思い出した。
校舎へ戻りながら、予防線を引いておく。
「ねえ津嶋くん。今日のこと、義花には黙っててくれないかな?」
「……箕輪さんが黙っててほしいなら、そうするけど」
「うん、心配かけたくないから。それにさ、やっぱり、ウチがハグしちゃったのはマズいし」
「別に俺ら、まだ付き合ってるとかじゃないぞ」
「いつかそうなるでしょ?」
それは仁輔も否定しなかった、だから続けて問う。
「それに……津嶋くんはずっと、義花のこと好きじゃんか」
見ていて分かる。義花にとっては幼馴染のままでも、仁輔はとっくに女として意識している。しばらく黙ってから、仁輔は頷く。
「俺はね。けど、義花がそうなりたいってハッキリ聞いたことないから、一応は未定」
「ほぼ確定だと思うけどなあ」
表面上は未定というだけで実質は婚約しているようなものだ、その推測は揺らがない。
けど。ほんの少し、1%にも満たないくらいの可能性は、まだ結華梨にもある。
それなら、仁輔から離れたくなかった。
友達の友達という距離でいいから、彼との接点を守りたかった。
だから。
「じゃあ、俺こっちだから」
「うん。今日はありがとう、またね」
「……あのさ、これからも義花のこと宜しくね。あいつ、友達作りすげえ下手だから」
「お任せを、ウチも義花のこと大好きだから」
義花と友達でいてほしい、という頼みは都合よかった。
その願いが、仁輔が義花に向ける愛情の結果だったとしても。
こうして、秘密の三角関係が始まる。
仁輔に恋する女子ではなく、仁輔の柔道を応援するファンという立ち位置で、彼との接点を確保。実際にスポーツに打ち込む人は好きだし格闘技にも興味はあった、調べるうちに柔道自体を好きになったのも本当だ。恋に関係なく、頑張っている人を応援したいのも本当。
その先で。
もし、仁輔と義花が結ばれたなら。こんな幸せな男女の仲だってあるのだという証になる、その事実は結華梨の恋愛観を回復させてくれる。
もし、二人があくまで友達のままなら、あるいは恋人として続かなかったら。そのときは、仁輔を攻略するチャンスがやってくる。そのときに仁輔にとって親しい女性でいられたら、結華梨が彼女になれる勝算は決して低くない。
それでもやはり、仁輔の望みが叶うのが一番だった。
義花への愛情が報われないのは、納得いかなかった。
優しい人には優しい運命が待っていなきゃ嘘だった。
だから義花には、仁輔がどれだけ良い男なのかを説き続けた。
ようやく交際に進んだと聞いたときは、本気で安心した――その晩は泣き明かしたけど、人生最大の失恋だったけど、幸せな結末だった。
仲が危うくなったらフォローできるように、三人で遊ぶのを習慣にすることも考えた。実際に雲行きが怪しかったときは二人を誘った。やっぱり二人は真剣なんだと分かって、泣けるほど眩しかった。
それなのに。
義花はレズビアンで、仁輔と恋人を続けることはできない――なんて、あらゆる前提が狂ってしまった。
同性愛者と打ち明けることが怖いのは分かる、だから自覚に時間がかかるだろうことも察しはつく。
けど、さすがに、遅すぎた。勘弁してほしかった。
もっと早く言ってほしかった、だったら結華梨も別の動きができた。
義花と仁輔を恋人にする、そのための努力が全部裏目に出てしまった。
結華梨があれこれ世話を焼いたせいで、仁輔があんなにも傷ついてしまった。
だから、もう結華梨は逃げられない。
仁輔が応えてくれたら幸せだけど、もうそれは本題じゃない。
結華梨の恋心が犠牲になることも、もう大きな問題じゃない。
結華梨を救ってくれた彼を、今度は結華梨が救うんだ。
義花への重すぎる想いから、自由にするんだ。
――そして、今。
お互いの部活の終わりが重なった、土曜の夕方。学校の待ち合わせ場所に、仁輔がやってきた。
「お待たせ、箕輪さん」
「津嶋くんお疲れ、ありがとうね」
仁輔に想いを告げる、その時がやってくる。
近くのカラオケに向かいながら、気持ちを整える。
ボロボロでいい、泥臭くていい。
全部、ちゃんと、伝えるんだ。
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