2-4 信仰
火曜日。
「はい、着いたよ」
「ん、ありがとう」
あたしはパパに、かかりつけの産婦人科まで連れてきてもらった。
「じゃあ、何かあったら連絡入れて」
「お願い……ごめんね、急に」
「いいんだよ、女の子の親の務め」
パパは車からあたしを下ろすと、会社に向かっていった。多少の遅刻なら平気らしく、出勤前に送ってもらったのだ。帰りはタクシーを呼んでいいと言われている、暑いし無理せず甘えることにした。
何かあったという訳ではない、シンプルにいつもより月経痛がキツかった。普段はそれほど重い方でもないのだが、勉強に集中できないレベルを放置するのは嫌だった。
人体のシステムにどうこう言う気はない、ただ能率が落ちるときに取れる対処は逃したくない。違和感があった時点で予約を入れていた。
それに、ここのドクターとはすっかり馴染んでいる。「いつもと違ったらすぐに来て」と前から言われているので、今日もその言葉に甘えた。
受付を済ませてから、
「体調、大事にな。他に何かあったら言って」
ついでに返ってきた言葉。生理だとは言っていないが、流石に察するだろう。
「ありがと、頼りにしてるね」
そういえばここは、咲子さんが仁輔を出産した場所でもある。今は婦人科メインで分娩は扱っていないらしいが、ちょっと感慨でもあった。
読書しつつ数十分後、診察室に招かれる。
「失礼します、」
「はあい、
迎えてくれたのは、
「今日は痛みがひどいんだってね」
「そうですね、一昨日からなんですけど……」
体調についての言語化は慣れている。どんなデリケートなことでも百寧先生になら言える、そんな空気を先生は作ってくれていた。慣れない中学の頃は、「先生もそういうことあるよ」と相槌を打ったりもしてくれたものだ。
仮定の話なのであまり意味はないが。最初に出会えたのが同じ目線で診てくれる女性だったから、安心して受診できるようになった……という気もする。一時期は真剣に医師を目指しかけていたのも、百寧先生への憧れ故だったからだ。
ともあれ、診察は順調に進んだ。特に異常はなく、馴染んでいる薬を処方してもらう。合間には学校生活へのエールも送ってもらい、安心して帰ろう……としていたのだが。
「義花ちゃん、一つお知らせなんだけど」
「なんでしょう?」
「いま先生、妊娠してるの。だからしばらくしたら、仕事お休みします」
――ここでの正解はお祝いだよな、一瞬で気持ちを整理する。
「おめでとうございます!」
「うん、ありがとう……ここはお父さんに戻ってきてもらうから」
「一郎先生の復帰ですか、あたしも久しぶりですね」
「ごめんね、おじいちゃんは苦手かもだけど」
「大丈夫ですよ、丁寧な先生だって知ってるから。先生はお大事になさってください」
……と、百寧先生の前では上手く取り繕えたのだが。
診察室を後にしてから、どうも心がざわざわしていた。
単純な理由である、百寧先生に診てもらえなくなるのが嫌だ。
医師とて人間である、親になる権利はある。
女性医師であれば、出産を優先する期間だってあるのが当然である。
素直に祝福するのが筋であると、理屈では分かっているものの。
「……ずっとここにいるって、言ったじゃんか」
通い始めたときも、結婚の話を聞いたときも、百寧先生は口癖のように言っていた。
「先生はずっと、いつでもここにいます。だから安心して来てね」
医師にとってはある種の癖というか、クリシェのような台詞だったのかもしれない。「何年経ってもみんなの前で歌いたい」と語っていたバンドもアイドルもステージを去る、それに近いのだろう。
けど、やっぱり、寂しかった。
無事に子供が産まれてほしい、それは当たり前に思う。けどその先、百寧先生はこれまでのように医療にコミットしてくれるだろうか……その頃には、あたしがこの街にいるかも分からないが。
帰宅。作り置きのサンドイッチを食べてから、眠くなるまで英和辞典を読む。好きな作家が「辞書は読むもの」と語っているのを聞いて以来、寝る前のルーティンになりつつあった。
まぶたが重くなってきたので、ベッドに寝転びながら微睡む。
……こんな風に横になっていると、生理が始まった頃を思い出す。
あのときもやっぱり、そばにいてくれたのは咲子さんだった。
*
初潮は中一の頃だった。それ以前から、咲子さんとパパから話は聞いていた。咲子さんがメインで面倒を見ることは、親たちの間でも決まっていたらしい。
初めてひどい痛みが来たときは、咲子さんが仕事を休んでそばにいてくれた。
体に起きていることが怖いと、咲子さんに言った覚えがある。
咲子さんは、「私も実穂も越えてきたことだから、義花は大丈夫」と答えていた。
あの頃のあたしにとっては、母親になるイメージがつかなかった。だから咲子さんの言葉を、「大人の女性になるための通過儀礼がこの痛みなのだ」というようにも解釈していた。この痛みと付き合いながら生きていけば、咲子さんみたいに強くて優しい女性になれるのだと……理屈の上ではそうならないと分かっているのだが、あたしにとっては納得のいく解釈だったのだ。
同時に。仁輔たちにこの痛みがないのはズルい、ともあたしは言った。ズルいよね、と咲子さんも頷いていた。
「だからね。義花のぶんも頑張りたいとか、義花を助けたいって、仁は考えるんだよ。義花はそれに頼っていいんだよ、それでお互い様なんだよ」
一部のジェンダー平等論者が聞いたら怒りそうな主張なんだろうけど、咲子さんにとっては実感なのだろうと理解できた。仁輔がそういう男子であることも分かっていた。
本当は、あたしと仁輔とじゃなく、一般的な男女の話をするべきだったのだろう。咲子さんがイメージしていたのも、自衛官として体を張る岳志さんのことだったのかもしれない。
けど、あたしにとって男子と言えば仁輔だったし、仁輔の言動に納得できればそれで良かった。実際、あたしの体調に関して仁輔の察しは良い。イラついているのも疲れているのもすぐに察するし、何か頼めば引き受けてくれた。
その仁輔と結婚して、彼との子供を産めば、これまでの苦労にも意味はあったと納得できるのだろう。自分の体で育った子供が大きくなる、その幸せは咲子さんの横顔から知っている。だからやっぱり、仁輔と付き合うのは正解だったのだろう。
ただ、今こうして痛みを抱えているときに。
仁輔がそばにいたら楽だとは思うけど、癒やされるとはどうも思えない。
あいつならいくらでも優しく、その手で体を労ってくれるのだろうけど、それはあんまり欲しくない。
今ほしいのも、中一のときにねだったことと変わっていない。
「咲子さん、こっち来て」
あたしがねだると、咲子さんは微笑みながら隣に来てくれた。あたしが全身で抱きしめると、咲子さんは頭を撫でてくれた。
「大丈夫。義花は強い子だし、私もずっとついているから」
抱き合った、柔らかい温もりの奥。この人も、同じ痛みを抱えながら生きてきた、ずっと強い痛みを越えて仁輔を産んだ。
だから、この人はこんなに安らぐんだ――盛大な勘違いを、今もあたしは信じている。
今も隣に咲子さんがいる、そう描きながら体を休めていた。
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