32話 なぜ通した

「あるんか――――いっっっ!」


多喜たきさんの姿がカーブの向こうに消えた瞬間、喉元で押しとどめていた言葉を田んぼに向かって吐き出した。

あー。あー。

あったわー。馬の名前。三頭とも普通にあったわー。


『4月18日はすごいすごい早い早い 一位レッドゾーン 二位オーシャンスカイ 三位ダイナサイクルだって 面白いね みんな本当に赤鉛筆使うんだね 毎度ありー』


いや、毎度ありーじゃなくてさ。

だめじゃん、あったら。

こっちはない前提で気持ち作ってたのに。

あったらもう、買ってるじゃん、馬券。

当ててるじゃん、万馬券。

やってるじゃん、競馬。


「やってもいいじゃん、合法じゃん! そんなの多喜さんの自由じゃん!」

田んぼに向かって力一杯また叫んだ。

よし、切り替えた。

両の頬をぴしゃりと叩く。

そうだよ、何がいけないんだ。するよ、競馬くらい。いいだろ、大人なんだから。イギリスだったら紳士淑女の嗜みなんだぞ。いいよ、やっても。存分にやるがいいさ。


そして、競馬をするなら見るだろう。競馬新聞も競馬サイトも予想屋の予想も。

ありとあらゆる媒体からありとあらゆる情報を仕入れるだろう。それがたまたま多喜さんの場合は予言ノートだっただけじゃないか、何が悪い。

「うん、それでいい」

例え正しくなかったとしても、もうそれでいい。僕はあの弁当を食べた瞬間から、絶対に多喜さんを否定しないと決めたんだ。

「だから、もう大丈夫なんだー!」


「あの、本当に大丈夫ですか?」 

「うわぁ、びっくりしたぁ!」

 三度田んぼに向かって叫んだら、返事が来たので腰を抜かしそうになった。

白昼野外で叫びまわるヤバい男に声をかけてくれたのは、自転車に乗った主婦風の女性。買い物帰りだろうか、前カゴにぱんぱんのエコバックが詰まっている。イヤホンを片方だけ耳から引き抜き、怪訝そうな表情で僕を見ていた。

「ねえ、大丈夫なの、君?」

「え、はい。大丈夫です。すみません、大声出して」

「いや、声くらい雀除けになるからいくらでも出したらいいんだけどさ。すごく辛そうな顔してたから。本当に大丈夫? 人呼ぼうか?」

「あ、いやいや、本当に。本当に大丈夫です。ありがとうございます、わざわざ。あの、僕そんなヤバそうな顔してました?」

「うん、してた。川にでも飛び込みそうな顔だった」

 マジですか。すみませんね、余計な心配かけちゃって。


「何があったかしんないけど元気出しなよ。ほら、飴あげる」

「あ、どうも。ありがとうございます」

「まあ、若いうちは色々悩むこともあるだろうけどさ。おばさんに言わせりゃ、恋の悩みは告るが勝ちよ」

……え、恋って?


「じゃあねー、それ食べて早く告りなよー」

「あ、あの、ちょっと!」

 行ってしまった。どこの誰かは知らないけど、いい人だな。こんな不審者に声をかけてくれて、飴までくれて。

てゆーか、なんで飴? これを食べて喉の滑りをよくしろってことだろうか。いや、告らんからね。

取りあえず、気持ちだけはありがたく頂いておこう。おばさんのエールの象徴であるフルーツ飴をポケットにしまい、


ピピピピピピ。

 

直後にスマートフォンのアラームが鳴った。


 ――しまった。


血の気が引いた。電撃が体表を走り抜ける。

僕は今何をした? 

誰を、通した?


「待って!」

弾かれたように駆け出した。

最悪だ最悪だ最悪だ最悪だ最悪だ。

最悪のミスだ。


ありえない。何をしてるんだ、僕は。何のためにここ立っていたんだ。

アラームはまだポケットの中で鳴っている。それは予言の十秒前を知らせる警告。

走りながら全力で自転車に向かって叫んだ。


「待って!」

しかし、おばさんの自転車は止まらない。

ああ、イヤホン。くそう、イヤホンが。

声が届かない。

最悪だ最悪だ最悪だ最悪だ。

何で通した。何で止めなかったんだ。

自転車はもうすぐ古びた橋に差し掛かる。

恐らく最悪のタイミングで。


くそう、何でこんなことになった。止められないなら、せめてもっと早く通り過ぎていてくれたらよかったのに。何で。 

僕と喋っていたからだ。

心配して僕に話しかけてくれたからだ。

それがなければ今頃とっくに橋を通過していたはずなのに。

くそう、間に合え。くそう、走れ。もっと早く走れ。走れ走れ走れ走れ走―――。


海堂かいどうくん!」

――ああ、違う。走っちゃ、ダメじゃん。

多喜さんの声で我に返った。

僕は完全にパニックに陥っていた。


そう気付いた瞬間にアラームが止まり、揺れがやってきた。

いつか経験したのと同じ揺れ。下からドンっと突き上げるような大きな揺れ。

足元がフラつく。

膝を突きそうになる。

でも、突かない。死に物狂いで揺れるアスファルトの上を走る。

揺れに驚いたおばさんがブレーキをかけて橋の上で止まった。その自転車を突き飛ばすように後ろから押した。前から駆け付けた多喜さんも、前カゴに手をかけて力いっぱい前に引く。二人がかりでおばさんの乗った自転車を前進させる。 


「きゃあ!」

 長くは走れなかった。

バランスを崩して僕達は田んぼの淵に転げ落ちる。

それは、生還の証だった。

直後に耳孔を引きちぎるような轟音が響き、水飛沫が舞い上がる。


振り向くと、ついさっきまで僕らが走っていた橋が、跡形もなく崩落していた。

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