29話 万馬券

「わからないですよ、森田先輩」

「俺もだよ」


 一晩経ってもまだわからなかったので素直な気持ちを伝えたら、森田先輩も同意を表明してくれた。


「わからないですか?」

「うん、わからん」

 やはりそうか。僕にも多喜たきさんの発言の意味がさっぱりわからない。


多喜さんは自分をビビりだと言った。

これはわかる。

鐘突き堂で二度程脅かしたら二度とも綺麗な絶叫が返ってきたのでこれに関して疑問はない。

だからこそ、鐘突き堂に行くのだという。

ここがわからない。

え、何で行くの? 

だめじゃん、行ったら。ビビりなら行っちゃだめじゃん、あんな暗くて怖い場所。


それとも、予言のある生活に慣れすぎて、先を見通せない生活が怖くて堪らないという意味なのだろうか。

多喜さんの自由奔放さを見る限り、それも当てはまりそうにないけれど。


「だめだ。やっぱり全然わかりませんわ」

「おお、わからんな。全然わからん」

「わからんなー」

「わからんのー」

「……ちなみに森田先輩は何がわからないんですか?」

「決まってんだろ。競馬だ、競馬!」


 森田先輩はカフェテーブルにバサリと競馬新聞を広げると、赤鉛筆のキャップで紙面を小突いた。

「今週の安田記念の予想がさっぱり立たねー。こんなにわかんねーのは初めてだ。俺のカンが全く働かねえ。どうなってんだ、全くよー」

「あの、先輩。よく知らないんですけど、今でも競馬ってそんなスタイルで予想するもんなんですか?」

赤鉛筆と競馬新聞って。今時漫画でも見ないですよ。


「G1はお祭りだからな。祭りに法被と鉢巻は必須だろうよ」

「なるほど、楽しそうでいいですね」

「で、お前はどの馬が来ると思う?」

「死ぬほどわかんないです」

「だろうな、俺もわからん。長い競馬人生の中でこのレースが一番わからん」

「そうですか」

「俺はこのレースに二十万ブチ込む気でいる」

「なんでー⁉ わかんないのになんで二十万円?」

「わかんなくても行くんだよ。俺もいよいよ負けが込んできたからな。ここいらで取り戻さねえとヤベーんだ。だからこの一発に全力ブチ込むんだよ。それが男ってもんだ。わかるだろ」

わからんわぁー。ひくわー。


「いいから素人は黙ってろ。俺は今全神経を集中させて潜ってるところだ」

潜る?

「競馬の海に潜ってるんだよ。いや、海じゃねえ。これはもう宇宙と言ってもいい」

わからんわぁぁぁ。


 わからんから言われた通り黙っていよう。

なるべく音を立てないように紙袋からマフィンを取り出した。今日の引きはトリプルベリー。隣に無糖の缶コーヒーを並べる。

久しぶりだな、この組み合わせ。

トリプルベリーマフィンはマフィン四天王の最弱キャラとされているが、それはみんなが食べ方を知らないだけだと思う。確かに単品で食べれば粘い甘味と尖った酸味が強調されるが、ここにコーヒーの苦味を流し込むことにより、極上の味の深みが―――。


「………おい、海堂。角丸かどまるはなんて言ってた」

「はい?」

 コーヒーを流し込む前に、黙れと言われた森田先輩から声をかけられた。


「えっと、角丸って、多喜さんのことですかね?」

「そうだよ。何か言っていたか、G1について?」

「G1について? いえ、何にも」

「そうか。ならいい。俺のマフィンも食え」

「はあ、ありがとうとざいます」

 ………え、何今の。

何で今多喜さんの名前が出てきたんだ。

多喜さんなんて競馬から一番遠い存在だろうに。


「当てたことあるんだよ、あいつ」

「え?」


 僕の沈黙から何かを察したのか、先輩は聞かれる前に口を開いた。

「当てたって、競馬をってことですか?」

「おう、そうだよ。確か一年前皐月賞だったわ。そん時も俺は予想が全く立たなくてよ。大教室で競馬新聞広げてうんうん唸ってたんだよ」

 わかんないの今日が初めてって言ってたのに………。


「そしたらよ、あいつがお前と同じこと言ってきやがったよ。『へー、競馬って本当に赤鉛筆使うんだね』だとよ」

「多喜さんぽいですね」

「知らねーよ。何かその後も色々言ってきたわ。『それもしかして競馬新聞ですか?』とか『どこに売ってるの』とか。めんどくせーから無視してたら、急に言うんだよ。『レッドゾーンとオーシャンスカイとダイナサイクルを買ったらどうなるの』ってさ」

「ん? え? 何を買うって言いました?」

 急に始まった呪文の詠唱のようセリフが聞き取れずに聞き返す。


「レッドゾーンとオーシャンスカイとダイナサイクルだ。ビックリするよな? 俺もたまげたよ。競馬新聞も知らないやつの口から急にスラスラと不人気馬の名前が出てきたんだからな」

「不人気馬なんですか」

「ああ、誰も見向きもしねー馬だ。さっさと追い払いたいからよ、自分で買って確かめろって言ったんだ。そしたら『競馬屋さんはどこにあるの?』なんて寝ぼけたこと言いやがんだ。これも多喜さんぽいって笑うとこか?」

「いや、わかんないですけど」


「だから、スマホの馬券の買い方を懇切丁寧に教えたやったわ。俺は優しいからよ。まー、当たるわけねーと思ったけどな。レッドはまだわかる。オーシャンとダイナはねえ。まるっきり素人の読み筋だよ」

「それが、当たったってことですか?」

「まさかの二百万馬券だ」

「二百万⁉」

 カフェテラス中の視線が集まるような大声が出た。


「たまんねーわ、素人に二百万馬券持っていかれたらよー。だから嫌いなんだ、あいつは。だいたい買い方が邪道なんだよ。なっちゃいねーわ」

「そう…………ですか」

「ま、まあ、だからあれだ。さっきは念のために聞いただけで、あいつの買い筋なんて全然当てにする気はねーけどな。見てろよ、プロの買い方ってもんを見せてやるわ」

 僕の沈黙を今度は読み違えたらしく森田先輩はモゴモゴと言い訳を漏らしたけれど、僕の耳には全く入ってこなかった。


「……二百万馬券か」


 ゴクリと缶コーヒーを飲み下す。ベリーの後味はとっくに口の中から消えていた。


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