6話 誰のノートなのか、全く検討もつきません

……え?

 

 なんだ、これ? 

思わずノートを取り落としそうになった。


紙面に殴られたかのように視界が揺らぐ。なんなんだよ、これは。

稽古日記?


「………じゃあないよな、絶対」

そもそも文章にすらなっていない箇所がいくつもある。

とてもじゃないがまともな人間が書いたシロモノと思えないし、まともな人間に書けるシロモノだとも思えない。

まるで誰かの寝言を書き留めたような、熱に浮かされたうわ言が染みついたような、恨みつらみが文字の形をとって浮き出てきたような、不可解な文字列。


「ヤバいって……これ」

 腹の底から、それまで経験したことのないような震えが上って来た。

 見つめていると、こちらの平衡を抜き取られるような不安が掻き立てられる。

それでいてどこか誘われるような引力も感じられる。

もう一枚めくってみようかな。

めくりたくはないけれど、でも、これじゃやっぱり落とし主はわからないし。仕方ない……よな……? 

そう、もう一ページだけ………。


海堂かいどう、まだ帰らないの?」

「うわ、すみません!」

 とっさに謝罪の言葉を口走ってしまったあたり、無意識に後ろめたさは感じていたようだ。叩きつけるようにノートを閉じた。

「びっくりしたぁ。なんちゅう声出すのよ、あんた」

「あ、伊鶴いずる先輩。まだいたんですか。実は、その、忘れ物を見つけちゃって、誰のかなって――」

「ああ、多喜たきのじゃん」

 表紙を一瞥して伊鶴先輩はそう言った。


「え、多喜さん?」

「うん」

「多喜さんのなんですか、これ」

「多喜のだね」

「………本当に?」

「本当だよ。前にあの子がネット通販で同じの十冊セットで注文してたから覚えてる。なんでそんなに疑うの?」

「いや、それは……」

 中を見たからとはとても言えない。

とはいえ、多喜さんと同じ女子寮のルームメイトである伊鶴先輩がそう言うのなら、これは間違いなく多喜さんの物なのだろう。

そうか、多喜さんがあれを書いたのか。

森田先輩曰く、超ド級の不思議ちゃんである多喜さんならあんな日記を書いても納得は…………。


「……やっぱり、いかないって」

「どしたん、海堂? 何ぶつぶつ言ってんの? 早く出ないとまた保安のおっちゃんに怒られるよ」

「え? あ、はい。そうですね。もう行きます。じゃあえっと、このノート多喜さんに返しておいてもらえます?」 

「あいよ―――あ、いや、待てよ」

 受け取ろうと伸ばした手を、伊鶴先輩は直前で折り曲げた。

「やっぱり海堂から返しといて」

「なんでですか」

「多喜もう帰っちゃったし。あたしこれから直でバイトだからさ」

「はあ、バイトですか……」

帰ってから渡してくれたらいいんだけどな。同じ部屋に住んでるんだし。


「あー、それとね、あんたにさあ、頼みがあるんだよ」

 僕の顔から疑問を察したのか、伊鶴先輩は眼鏡のフレームを指で擦りながら言いにくそうに言葉を漏らした。

「あの子、多喜がさ、最近ちょっと変なんだよ」

……最近? 

……ちょっと?

「いや、言いたいことはわかるよ。いつも変だって言いたいんでしょ。でも、これはガチなやつなんだよ。ガチで危なっかしいんだよね、あの子」

「危ないってどういうことですか、それ」

「ねえ、海堂。あの子のこと、止めてくんない?」


止める。

そう口にした伊鶴先輩の目は、部員の稽古を見守る時とはまた別種の真剣さを帯びていた。 


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