水底に棲まうもの

ごもじもじ/呉文子

水底に棲まうもの

 人魚を見たことがある、と言うと、大概の人間は怪訝な顔をする。そして俺のことを、頭のいかれた、哀れな人間だと思うらしい。だが、人魚はいる。確かにいる。その美しい姿と声で人の心を惑わし、深い深い海の底へと引きずりこんでしまう。俺の兄も、そうやって人魚に誑かされた一人だった。


 俺と兄は、山奥の生まれだ。兄は大層真面目な働き者だった。野良の仕事をしながら、まだ幼い俺や身体の悪い親父の面倒をよく見てくれていた。母は早くになくなっていたので、実際のところ俺は、兄に育てられたようなものだ。大きくなったら、兄の手伝いをして、少しでも楽にしてやりたい。その頃の俺は、いつかそんな日がくるものと思っていた。


 ある晩のこと、水路の様子を見に行った兄がなかなか帰ってこなかった。まさか水に落ちたか、と、親父と俺が気をもんでいたところ、兄は戸口から転がりこむように入ってきた。あの穏やかな兄が、血相を変えているのは初めてだった。俺は少し怯えて、親父の影に隠れて事の成り行きを見ていた。


 兄は何かを抱えていた。それはびっしょり濡れた、ひとりの女だった。一目見た時、子ども心にも、このような女がいるのか、と驚いた。ま白い肌に整った顔立ち。燃え上がるようなあでやかな緋の着物が一層その美しさを際立たせる。しかし、だらりと垂れ下がった足には、肉がえぐられた生々しい傷の痕が残っていた。


 「遊郭から逃げてきたらしい」兄が言った。ゆうかく、という響きが、当時の俺には何を指しているのか理解できなかった。

 「歩けないそうだ。しばらく家でかくまうことにする」そんな、お前、と言いかけた親父は、兄の血走った眼を見て黙り込んだ。それまで女は伏し目がちにしていたが、兄の言葉を聞くと顔を上げ、艶然とほほえんだ。その刹那、このすすけた家がぱっと明るくなるような、そんな錯覚さえ覚えた。ああ、この笑みか。この笑みで兄はおかしくなってしまったんだ。子どもの俺でも、それは理解できた。


 それから、俺たちと女との生活が始まった。兄はすっかり野良の仕事をやめてしまい、時折、ふらりといなくなっては、いくばくかの小銭や女へのなにがしかを手にして帰ってくる。家の中では衝立ついたてをめぐらせ、兄はその裏で女とひそひそと話ばかりしていた。それが何だか妙な気配に変わり始めると、俺や親父は家から出される。そんな暮らしが続いて、俺はもう本当に嫌になってしまった。女さえいなければ、と思うようになった。


 ある時、女と二人きりになった。兄がおらず、親父も遠くの医者にかかりに行っていた時の話だ。女はその長い、黒檀のような艶のある髪をくしけずっていた。兄があつらえた鏡を覗きこみながら、丁寧に丁寧にいていく。俺が見ているのに気付き、女は鏡の中からほほえんだ。そのころの俺の悪感情は隠しおおせないほどになっていた。女もとうの昔に気づいていたことだろう。しかし、それにもかかわらず、女は俺に笑ってみせた。そして、こっちへおいで。お前の髪も梳いてやろう。と柔らかな声音で言ってのけた。誰がお前なんか―――と、言ってやればよかったのかもしれない。だが、俺は唇を噛みしめながら、するすると引き寄せられるように、女の側に行ってしまった。


 そのころは、兄が俺の面倒をみることなどなくなっていたものだから、俺の髪は女のように長くなっていた。垢じみていて、虱が湧いていてもおかしくない。しかし、女はひるむことなく俺を引き寄せ、鏡の前で梳ってみせた。こうまで近づくと、女の美貌はますます際立つ。俺は鏡の中の自分ではなく、ただひたすらに女の顔ばかり見ていた。ふさふさと重たげな睫毛。切れ長で黒目がちの眼。輝くばかりに白い肌。朱に塗られた唇は形のよい笑みを浮かべていた。白粉おしろいだろうか、女からはいい匂いがただよってくる。まじまじと見つめる俺は異様だったとは思うのだが、女は気にも止めず、髪を梳いている間中、俺に話しかけていた。


 ―――くにに、あんたと同じぐらいの弟がいてねえ。あの子も、もうだいぶ大きくなったろうか。


 ―――私のくには海の側なんだ。朝な夕なに、ざああ、ざああ、と波の音が絶えることなく聞こえてくる。懐かしいなあ。


 ―――よく、貝や魚を捕りに海に潜ったもんだよ。海の中から水面みなもを見上げると、きらきらと光るんだ。そりゃあ綺麗でねえ。


 ―――帰りたい。ああ、でもこの脚では。


 緋の着物から投げ出された足には、目を背けたくなるような傷がある。くるぶしからはぎにかけて肉がえぐられ、ひきつれた痕になっている。

 脚、と俺が言うと、女は、前にも一度逃げようとした時に、見つかって折檻されてね。折檻なんて生易しいものじゃなかった。あそこは地獄だった。と、遠い目をして呟くように返した。


 さあ、できた、と女は俺の髪をき終わった。俺は女に向きなおり、海まで帰りたいのか、と聞いた。女はなんとも困った顔をしながら―――それでも女の美しさは微塵も揺るがなかった―――そうね、と答えた。女が帰ってくれるのならば、俺の利害とも一致する。じゃあ、と俺は意気込んで言った。俺が海に連れていってやる。女はやはり、困った顔をしながら、今度は少しほほえんでいた。その刹那。


 俺はものすごい力で、土壁まで吹きとばされた。何が起きたのかわからなかった。女の螺鈿らでん細工の化粧箱に、ぼたり、ぼたりと俺の鼻血が落ちる。

 痛みは熱となって、遅れて感じられた。

 何事かと見上げると、先程まで俺が座っていた場所に、兄が仁王立ちしていた。

 兄はすごい形相で、俺を睨み付けていた。その時やっと、俺は兄に殴られたのだ、と気づいた。


 女とまともに口をきいたのは、あとにも先にも、その一度きりだった。それからは、兄は本当にいかれてしまい、女の側にへばりついて離れなかった。朝も昼も夜も、女を片時もひとりにしない。それが幾日も続いたのちのことだった。ある朝起きたら、二人の寝床はもぬけの殻になっていた。


 俺と親父は、村の人間や人づてを使って兄たちの行方を聞き回った。曰く、あの賭場とばにいた。どこそこの旅籠はたごで見かけた。しかししばらくすると、兄と女のその足取りはぶつりと途切れた。あのような目立つ女を連れてのことだ。どのみち、遠くまでは逃げ延びられなかったことだろう。


 俺は時折、兄と女の行く末を思うことがある。思いつめた様子の兄が、山道をずんずんと歩いていく。緋の着物を纏った女は背負子しょいこにおぶわれ、あの傷のある脚をぶうらりぶらりと揺らしている。女の表情はその時々で違う。あの困ったような顔だったり、蠱惑的な笑みを浮かべていたりする。

 やがて二人は海に着く。波打ち際まで近づき、そしてそのまま海へと進んでいく。波が足を濡らし、腰まで水に浸かっても、兄は歩みを止めない。二人とも水の中に没してしまう。水の中では女は自在に動く。緋の着物を優雅にひるがえらせ、兄にまとわりつくように泳ぐ。そして、兄と向かい合い、にっこりと笑ってみせる。兄はそこで初めて安堵の表情を浮かべる。


 俺は、海の見えるような街、潮騒の届く範囲に寄ったことはない。兄と女が、あそこにいるように思えるからだ。しかし俺もまた、あの兄の弟だ。いずれ人魚にとらえられ、二人と同じところ―――海へと向かうのだろう。時折、夢に見ることがある。あの女が海の中から、今度は俺の方へと腕を伸ばしてくるところを。そして最近はそれが恐ろしいこととも、悲しいこととも思われなくなってきた。


 人魚はいる。確かにいるのだ。 


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