VOID

村雨雅鬼

VOID

 人類が資源を巡って争うようになったのは、決して最近のことではない。遥か昔、人類は香辛料を巡って争ったと言われている。やがて、争点は石油に、情報に、水になった。

 皮肉なことに、テクノロジーが進歩すればするほど、我々はより生存を賭けたプリミティブな争いに回帰している。更に奇妙なことには、もはや誰も、自分たちが何を奪い合っているのか、正確には理解していない。(エネルギーというものは多かれ少なかれ、そういう悲しき宿命を背負っている。)確かなのは、我々が直面しているのはかつてないほど絶望的で、殺伐とした、コイントスのような戦争だ。そこには譲歩も、和解もない。あるのは、生か、死か。


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 私が時計を見つけたのは、十歳のときだった。幼少期の記憶などというものは、次第に薄くなっていく、色鉛筆で書かれた絵のようなものだが、廃墟の地下で見つけた、そのアナログ時計は、今でも私の頭の中の壁に掛けられ、警告するように4を指し示している。


 その日、いつものように両親が出かけてしまうと、私は暇を持て余して外に出かけた。引っ越してきたばかりの家の近くには、深い森があり、そこには廃墟と化した建造物がたくさん眠っていて、私のような、好奇心は強いが一匹狼な子どもにとっては格好の遊びの場だった。尤も、両親は、危険だから森には踏み入るなときつく私に言っていたが、そのあたりの偽装工作は私の得意とするところである。宿題を肩代わりすることで買収した学友が口裏合わせをしてくれて、私は街の公園で遊んだことになっている。

 

 とりわけ私の興味をそそったのは、緑の外壁に蔦を絡み付かせた、ドーム状の建物だった。旧世界風……と歴史の教師なら呼ぶであろう、用途のわからない曲線や凹凸で覆い尽くされた、心躍る謎めいた建築物は、恐らくは風化のためばかりではないであろう無数の傷と亀裂を負って、草木の中で息絶えていた。私は扉のガラスが割られている箇所を見つけ、怪我をしないよう細心の注意を払いながら、建築物の体内へと身を滑りこませた。懐中電灯で周囲を照らしながら、湿った影の中を進んでいくと、壁一面に貼り付けられた紙切れ「FREEDOM OF SPEECH」「ASTRONOMY CLUB」とか、ちょっとした血痕とか、まるでお絵描きみたいな記号や計算式が書かれた黒板とか、想像力を刺激する数々の仕掛けが見つかった。奥へ奥へと誘われていくうちに、いつか私は地下へと潜り込んでいた。

 その部屋は、おそらくは、一部の人間しか立ち入りを許されない場所だったのだろう。記憶が定かではないが、私は壁に開いた穴だか、通気口だかを伝って入り込んだとのだと思う。ともかく、例の時計と、曇りガラスの扉があったのはそこだった。

 異様な時計だった。そもそも、アナログ時計を拝んだのが久しぶりだったのだと思う。短針しかなく、しかもその針は、目まぐるしく動き続け、十数えるうちに一周している。時計の下には小さなディスプレイがあり、緑色の文字が表示されている。「QA435 - 1:367 - ONE WAY」

 私は腕時計を外し、床に置いた。別の地域の話だが、数年前に、子どもが金属を身につけたまま廃屋で遊んでいて、誤作動した電磁石に急激に引き寄せられ、事故死した、というニュースを思い出し、急に不安になったからだ。

 ガラス張りの扉だと思ったが、近づいて気づいた。マジックミラーになっており、中を見ることはできない。俄に恐怖を覚えたが、引き返すのも癪だった。子どもの度胸というのは大したものである。私は、思い切って扉を開けた。

 中は2メートル程度の、なんの変哲もない短い廊下で、反対側には全く同じ扉があった。廊下の壁には別の文章が表示されており、私は思わず近寄って読んだ。「CLOSE THE DOOR BEFORE OPEN ANOTHER」「ADJUSTMENT ZONE TIME VERY SLOW」「!WARNING DOOR WILL AUTOLOCK」

 背中で扉の閉まる音がした。不可解な文章に魅せられているうちに、扉を押さえていた手を離してしまったのだ。焦ったが、内側から問題なく扉は開くことがわかった。だが、AUTOLOCKとは不吉だから、気をつけた方がいいと思った。

 反対側の扉に、こう表示された。「DOOR CLOSED ADJUSTMENT COMPLETE」近づくと、がちゃりと錠が外れる音がした。私は恐る恐る取っ手に手をかけた。


 待っていたのはおとぎの国ではなく、陰気な地下室だった。壁沿いにがらくたや工具が雑然と並べられ、天井から吊るされた電球が唯一の光源だった。そして、真ん中に、同じくらいの歳の少女が座り、訝しげにこちらを見ていた。私ははたと、人間によく似た宇宙人が出てくる子ども向けの番組を思い出し、この少女が何者なのか考えた。気まずい沈黙のあと、やがて、少女が口を開いた。

「あなたは、誰?」

 私は、(聞き慣れぬ訛りが少しあったが)自分の知っている言語が発せられたことに安堵しながら、自己紹介した。名前と、住所と、趣味がサッカーであること。宝物は、引っ越してくる前に、友達にもらったゼッタイジカンの腕時計だということ。廃墟の地下室を探検していたら、見知らぬ場所に出てきてしまったこと。

 少女は疑いを捨てきれていない様子だったが、少しは警戒を解いたのか、こちらに近づいてきた。私より頭一つ背が高く、鎖骨がくっきり浮き出るほど痩せこけていて、綺麗なブロンドであっただろう髪は、鳥の巣のように櫛の目も通らず、目には子どもらしくない皮肉な光が浮かんでいた。

「嘘だわ、きっと。そんな住所知らないし、子どもが一人で外を出歩いちゃいけないのよ」

「どうして、子どもが外を出歩いてはいけないの?」

 少女はそんなことも知らないのか、と言いたげに鼻を鳴らし、

「危ないからよ」

「危ないって、どうして?」

「戦争だからよ」

 そのとき、部屋全体に重い振動が走り、天井の漆喰がばらばらと落ちてきた。揺れはすぐにおさまったが、内臓に響くような重低音に、私は生きた心地がしなかった。

「今のは何?」

「敵からの攻撃よ。卵の殻を割ろうとして、一日に何回も撃ってくるわ。もう、なれっこだけれど」

「敵は、誰なの?」

「知らない。悪い人たちよ。どこか、よその世界の」

「ここで、何してるの?」

「見りゃわかるでしょ。隠れてるの。そりゃ、シェルターにいれば快適だけど、食料も水も限られてるし、おじさんとおばさんに厄介になるのも気を遣うし……こっちの方が、楽なのよ。暇潰しもあるし」

「暇潰しって、何?」

 私は少し開けた扉から手を離さないようにしながら、聞いた。少女はぼろぼろになった一冊のノートを持ってきて、開いて見せてくれた。さっき探検の途中で見たような、謎めいた数式、そして、二つのドアと、その間に矢印の絵。

「この地下室で見つけたのよ。きっと、天才科学者がいて、全然違う場所に繋がる扉を作ろうとして、このノートにメモを取ったんだって、私、思ってた。だって、あなたが出てきた扉、今日までは、押しても引いても、ぴくりともしなかったんですもの。だけど今日、変な子どもが向こう側からやってきたわけでしょ。きっと、その科学者の実験が成功したんだわ」

 我々は興奮して話し続けた。彼女の推測(想像)は正しいもののように思われたし、もしそうなら、我々は全然違う世界に所属していることになる。奇妙なことに、我々は二人とも、その荒唐無稽なアイディアを疑いすらしなかった。彼女は私の世界について知りたがったので、私の世界ではエネルギーがキキテキジョウキョウにあって、私の両親はいつも暗い顔をしていること、それでも解決のために毎日忙しく働いていること、学校はまあまあであること、などを話した。結局、我々の世界はよく似ているようだったが、彼女は学校にはここ数年行けていなかったし、自分の世界について語りたがらなかった。

「だって、こんな戦争、勝てるわけがないじゃない。どうせあと何年かしたら、全部なくなっちゃうのよ。楽しいことなんか一つもなくて、滅びゆく世界なんて、どうだっていいわ」

 やがて彼女は、私の宝物である腕時計を見たい、と言い出した。私はそれを自分の世界に置いてきてしまったことを思い出し、取りに行くことにした。彼女は廊下をちょっと覗き込んで、少し怖気付いた様子だったので、試しに私だけが行くことにしたのだが、全然違う場所に飛ばされやしないかと、少々不安ではあった。果たして、扉の向こうは間違いなく私の世界で、私は胸を撫で下ろし、腕時計を持って少女のところに戻った。扉は完全に閉まらないように、煉瓦を挟んでおいた。

「遅いじゃない、もう半日も待ったのよ」

 私は彼女の、容赦のないユーモアのセンスが気に入った。少女は、止まってるじゃない、と文句を言いながらも、腕時計の、日時を示すデジタル盤を物珍しげに眺めていた。その小枝のような手首につけてあげると、彼女はまるでプリンセスの服装をさせてもらった幼い女の子のように喜んだ。ひび割れた壁掛け鏡に向かってさんざんポーズを決め、見栄えを楽しんだ後、私に向かって振り返り、

「あのね、あなたのおうちに遊びに行ってもいい?」

 私は答えに窮した。彼女を招くことにはやぶさかではないが、両親に説明する必要があるからだ。昔、両親の不在時に、学校の友達を家に呼んだところ、床にジュースを撒き散らしたり、壁にクレヨンで絵を描いたりして、大変な騒ぎになったのだ。それから、人を家に呼ぶのは事前許可制となっていた。

「ママとパパに聞かないといけないな。今度、聞いてくるよ」

 そういうと、彼女は渋々といった表情で承諾したが、

「この腕時計、次に会ったときに返してあげる。そうすれば、あなた、必ず来てくれるでしょう?」

 私は大笑いしながら頷いた。何とも素晴らしい提案だと思ったからだ。彼女はまるで政治の話をしているときの大人みたいな真面目くさった顔で、

「次は、いつ来てくれる?」

「来週の今日、また来るよ」

「何時に?」

「午後の三時、ちょうどに」

「約束?」

「約束する」

 私は随分と長い時間を過ごしてしまったことに気づいた。それほど、少女との会話は楽しかったのだ。そろそろ両親が帰ってくるに違いない。私は少女に別れを告げ、自分の世界に戻ってきた。時間を確認しようと思ったが、腕時計がないのでできなかった。しかし、外に出ると、まだ日は高く、私は愉快な気持ちで帰宅した。そして、再会を心待ちにしながら一週間を過ごした。

 

 ところが、一週間後は雨だった。息子の健康被害を恐れた両親は、私の外出を許さなかった。私とて、むざむざ汚染された雨に当たって病気になりたくはない。少女に悪いと思いながらも、私は、石鹸の泡だらけになった浴槽に身を沈め、居間から聞こえてくるニュースにぼんやりと耳を傾けながら、彼女と何をして遊ぶか考えた。「Xデー間近……」「世界の存亡を賭けた戦い……」「敵の反撃を回潜れるか……」次に彼女に会ったら、お詫びに、お気に入りのクッキーを持っていって、一緒に森で食べよう。想像が膨らんで弾けるのに合わせて、香りの良い泡が飛沫を立てて潰れた。


 機会はすぐに訪れた。三日後、両親が、急遽、揃って家を空けることになったのである。私は大急ぎで例の地下室に向かった。時計は相変わらず回転し続けていた。「QA435 - 1:366 - ONE WAY」

 地下室に少女はいなかった。かび臭い空気が一層濃くなっているような気がした。少女を探そうとしたところで、足元に置いてあるファイルに気がついた。ファイルにはうっすらと埃が積もっていた。開くと、古ぼけた紙が複数挟んである。


どうしてきてくれないの?きらい!


 少女の筆跡を見たことはなかったが、それが約束を破った私に対する、彼女からの抗議文であることを、私は疑わなかった。申し訳ないと思いながら、一枚めくって次を読んだ。


もういっかげつも まったのに、ぜんぜん きてくれない うそつき


 これは不可解だった。まだ、二週間も経っていないのだ。次は、もう少し整った字体で、


私を騙したあなたもきらいだし、数年前に一回会っただけの友達とまた話したくて、こうして期待してしまう自分もきらい。


 私は混乱した。次の紙には、もはや子どものものではない、綺麗な字で書かれていた。私は次々にめくって読んだ。


どうしてこんな当たり前のことに気が付かなかったのだろう。裏切られたと思っていたけれど、私が間違っていた。あなたは約束を破ってなんていなかったのね。もう一度、あなたを信じて待つことにします。


奇妙な世の中です。誰もが戦争と世界の滅亡に怯えているのに、誰も、敵が何を欲しているのかわかっていないんですもの。人に聞いたら、敵は、我々の持っている全てを奪い去ろうとしているんだって言われました。変よね、だって私にはもう、あなたがくれた腕時計しか残っていないんだもの。


この場所は安全ではないから、もうこの場所にはいられないけれど、いつか、必ず戻って来ます。誰もが箱舟に乗り込もうと必死ですが、私は乗らないつもり。だって、星の洪水から信心深い者たちを救った箱舟のお話なんて、太古の伝説、ただの物語に過ぎないもの。彼らは、我々の未来を持っていってしまいました。我々に残された技術では、船を作ったところで、逃げ場などないのはわかっています。あなたがこの扉を開けて、迎え入れてくれることだけが、私の希望かもしれません。


 紙はもう一枚あった。私は、見てはいけないものを見ているような気がして、激しく後悔したが、目は釘付けになって離せなかった。


あなたと会ってから、もう何年も過ぎ去ったけれど、推測するに、あなたの世界では、まだ一週間しか経っていないのじゃないかしら?あなたの腕時計と照合して、正しければ、今日こそがあなたにとっての一週間後、午後三時でした。私は随分待ったけれど、あなたは現れませんでした。でも、ちょうどその日、その時間に、何かの予定が入って、来られなくなるということも、あり得るわね。だから、私は命懸けでも、あなたにとっての一週間後、この場所に来ます。時間は、私の都合で悪いけれど、あなたにとっての午後七時にしましょう。もしこの手紙を見ているなら、私を救うために、必ず、来てください。そのとき、ここで会いましょう。

あなたの大事な時計をここに置いておくことも考えたけれど、やめました。だって、次に会ったときに渡すという約束だからです。大事にしていますから、ご心配なく。

あの日は、本当に楽しかった。私は変わってしまったけれど、またそちら側で色々な話をするのを、楽しみにしています。


 私はその場に座り込んだまま、暫く動けなかった。やっとのことでナップザックにファイルを詰め込み、帰宅すると、先に戻っていた両親は、私がどこにいたのか問い詰め、森にいたことを知ると、暫く黙ったのち、私を叱責した。その夜、ベッドの中から、「もしもQA??5に迷い込んだら……」「そんなことはあり得ない……」「もっと安全な場所に引っ越し……」「その前に世界が滅びてしまったら……」などと議論している両親の声が聞こえた。それ以上は聞き取れなかった。

 私はファイルをベッドの下に隠し、犯した罪の重さに震えながら、自分の中の無邪気な子どもらしさがゆっくりと死んでいくのを感じていた。取り返しのつかない過ちがあるという事実を一度知ってしまうと、二度と心の平安を取り戻すことはできない。謎は多かったが、確かなのは、彼女の身に危険が迫っていることと、私自身が、彼女を救う唯一の手段かもしれないということだ。彼女にメモを残すのを忘れたが、ファイルがなくなっている時点で、彼女は私が来たのだと知るだろう。そして、どんな手を使ってでも、「二週間後」にあの場所に来るだろう。彼女と腕時計の計算が正しいことに賭けて、なんとしてでも、無事に彼女をこちら側に連れてくるのだ。絶対に失敗してはならない。


 当日、私は緊張していた。偶然にも、両親も落ち着かない雰囲気で、家の空気が張り詰めていたことも多分に影響していた。例の友人に、休暇中の宿題を全て肩代わりすると約束し、アリバイを完璧に作ってもらったので、準備は万端だった。

 普段は仕事に出ているはずの両親は、どういうわけか揃って在宅していて、そのまま夕刻になってしまったので、私は気を揉んだ。二人とも、上の空だった。「我々は全力を尽くしたんだ、あとは成功を祈ろう・・・」「この子の未来が・・・」「人類を信じるんだ・・・」もうすぐ七時になってしまう。私は乗じて家を抜け出そうと、こっそり玄関で靴を履いた。

 そのとき、両親の端末が一斉に鳴り、リビングの大モニターが、計画成功の文字を打ち出した。両親はしばし呆然としたあと、抱きあって喜び、街の方の空では花火が上がった。私は家を飛び出し、心臓が口から飛び出そうになるのを必死で抑えながら一目散に走った。木の枝につまずいて何度も転んだが、痛みは感じなかった。緑壁の廃墟の階段を転ぶようにしながら駆け下り、あの部屋にたどり着き、立ち尽くした。

 時計は4の目盛りで止まっていた。力任せに何度押しても引いても、扉はびくともしなかった。ディスプレイだけが、不気味なまでに赤い文字を映し出していた。

「VOID - ERROR 」

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 テクノロジーは、人間に運命を変える力を与える。遺伝子工学は、ゲノムに書き込まれた死の宣告を、無意味でのどかな散文に変えてしまった。エントロピーの増大によって滅びゆく運命だった世界は、引き続き秩序と平和を享受している。では、少なくとも人間の狭窄した視野から見渡せる範囲において、変わらぬ本質は何か?物質は有限であり、我々が戦っているのはすなわち空虚なゼロサムゲームであり、人類の敵は、いつだって、人類だということだ。

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VOID 村雨雅鬼 @masaki_murasame

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