第32話「失意の中でも」

夢月むづきッ!」


 アパートの手前、千晴ちはるは光一の手から夢月を受け止め、抱きしめた。すっかり泣きはらした顔で、もう逃がすまいとするように。


 遅れて悟郎ごろうもやって来た。「夢月……」と心底安堵していた。


「心配したのよ、誘拐でもされたんじゃないかって! もう一人でどこにも行かないで。ね、お願いだから……」

「ママ、わたしずっと、いえにいたよー」

「え……?」

「夢月の言う通りですよ、千晴さん。言い訳になってしまいますが……僕がいる間、夢月は外に一歩も出ていませんでした。いつの間にか消えていたんです。ベランダから出た様子もありませんでした。……不思議なことに」


 そして悟郎は、ただうつむいている光一の手を取り、深々と頭を下げた。


「夢月を助けてくれて、ありがとうございます」

「……いえ」


 俺のせいだ、と言えたらよかった。


 けれど、言ったところでどうなる。事情を説明しても理解できるとは思えない。何より、二つの命を天秤にかけたことなど、とても口にしたくなかった。


 ずるい男だ。


 最低の男だ。


 やっと夢月から体を離し、ケガがないか体中をまさぐりながら、千晴が言った。


「ねぇ、光一。夢月はどこにいたの?」

「……駅の反対側にいたんだ」

「え? でも、そっちの方も探したわよ? 交番にだって行ったわ。公園も、デパートも、とにかく心当たりのあるところ全部……」

「まぁまぁ、千晴さん。タイミングが悪かっただけなのかもしれませんよ。とりあえず夢月にジュースでも飲ませてあげたらどうですか?」


 すっかり困惑している千晴を、落ち着かせるように悟郎が言う。すっかり取り乱していることに気づいた千晴は、「あ……」と声を落とした。


「そ、それもそうね……光一、ごめんね」

「いや、気にしなくて大丈夫だから。とにかく、夢月を」

「おなかすいたー」

「——うん、わかった、今すぐ作るからね!」


 千晴は夢月を抱きかかえ、自宅へと戻っていった。


 光一と悟郎はその場で立っていたままだった。お互いに、首を別々の方向に向けている。


 不意に、悟郎が「光一さん」と呼んできた。


「彼女は元気にしていますか?」

「彼女……?」

睦月むつきさんですよ。もう遅い時間です。今ごろ、光一さんのことを心配しているのでは?」

「……ああ、そうですね」


 これ以上、何を言えばいいかわからなかった。


 ここに留まっていることさえ、苦痛に感じられた。


「……すみません、悟郎さん。俺はこれで失礼します」

「……そう、ですか。くれぐれもお気をつけて下さいね」

「ありがとうございます。……では」


 半ば振り切るように光一は悟郎に背を向け、早歩きでその場を離れた。周囲のことなんか気にする余裕もなくて、気がついたらいつの間にか電車の中にいた。


 揺れる車内の中——光一は床の一点を、じっと見つめていた。


(選択……)


 そう、あの女パイロットは選択を突きつけてきた。四歳の夢月と、十六歳の夢月。どちらを取るかと。


 だが、その選択に意味はあったのか。


 そもそもなぜ、〈リライト〉はそんな選択を突きつけたのか。


 夢月の存在が邪魔ならば、両方とも亡き者にしてもおかしくなかったのだ。


 ポケットから〈ウォッチ〉と、古びた日記帳を取り出す。


 あの後——ヨルワタリの後部シートに、これが置かれていた。彼女がなぜそんなことをしたのかはわからない。何かしら意図があったのだろうか。


 いや、何かあるはずだ。


 まだ、終わっていないはずだ——


「そうか、あの時の私はそういう顔をしていたのだな」


 ふと、声がした。


 すぐ目の前に、サングラスをかけた老人がシートに腰かけている。誰に向けて言ったのかと思い、左右に顔を動かすと、一人も乗客がいなかった。左右の車両にもだ。


「……!?」


 ちちち、と老人はおどけるように指を左右に振った。


「この程度で驚くな。君はこれまでに散々、摩訶不思議まかふしぎなことに出会ってきたんだろ?」

「……あんたは、誰だ?」

「それは明かせない」

「〈リライト〉か?」

「違う。私は、彼らと敵対している者だよ。だからあの時、ちょっとだけ手を貸したんだ」

「あの時……?」


 はっと光一の頭に浮かんだのは、千晴たちのことだった。あの時——〈リライト〉の砲弾が迫ってきた時、助けてくれた存在がいた。


 それが、この目の前の——?


 老人はどうでもよさそうに、ひらひらと手を振った。


「まぁ、そんなことはいいんだ。私は、君と会うためにここに来たのだから」

「俺と?」

「今の君はまだ何も、失ってはいない」

「……どういう意味だ?」

「君にはまだ武器がある。その〈ウォッチ〉なんかがいい例だね」


〈ウォッチ〉のことも知っている——


 光一は慎重に訊ねた。


「もしかして、ヨルワタリのこともか?」

「ああ、もちろん。ヨルワタリのことなら、誰よりも知り尽くしているよ。そもそもヨルワタリは私たちの想像を形にしたものだろう?」


 光一の脳裏にかつての記憶が、子供の頃に想像したものが呼び覚まされる。無邪気に、好き勝手にデザインして、設定を作って、そのロボットが空を飛んだり敵と戦ったりすることに憧れを抱いていた——あの時。


 当然、機能も武装もシステムのことも、把握している。


 単機で時を越えられることも。


「あんた、まさか……!」


 その時、ドアが開いた。


 老人はスムーズな身のこなしで立ち上がり、ドアから出る。


「待ってくれ!」とすぐさま飛び出した。だが——速く歩いているわけでもないのに、まったく追いつけない。


 歩きながら、老人が言う。


「これも時の定めかもしれないね」

「な、なんの話だ?」

「私が手助けしたのも、こうして君に会いに来たのも。もしかしたらあらかじめ決まっていたことかもしれない。だが、それを考え出したらキリがないし、何より——つまらないと思わないか?」

「…………」

「どうやら、君はまだ諦めていないようだ。いいことだが、同時に危険性も孕んでいる。それを承知した上でなら、君はもう一度選択ができる。……そろそろ電車に戻った方がいいぞ。この空間だって長くは保たないし、まだ最寄り駅じゃないだろ?」


 光一は追いかけるのを止め、ただ老人の背中を見送る。


 ひとつ、聞いてみたいことがあった。


「待ってくれ。……すでに決まっている未来を、変えることはできるのか?」

「つまらない質問だな。変えられるに決まってるだろう」

「なぜ?」


 老人は肩越しに——不器用そうに、口の端をつり上げた。


「そうでなければ人の生きる意味も、意義も、価値も、何もないからだ。未来はひとつだけだと、誰が決めた? 時を司る神だとでも? だとしたら、本当につまらないぞ」

「…………」

「ほら、さっさと戻らんと」


 老人の言葉に従い、電車に入ると——タイミングよくドアが閉まり、すうっと景色が流れ始めた。プラットホームに立つ老人が、徐々に遠ざかっていく。


 ふと、周囲に雑音が戻ってきた。


 周りには乗客がいる。今の出来事を不審に思っている者など、一人もいない。


 光一は小さく吐息をついてから、古びた日記帳を開いた。未来の自分は今日この日、なんと書いたのかを確認するためだ。


 最初の一文は、こうだった。


『夢月が死んだ』


 共に空を飛び、〈リライト〉と戦い、そして選択を突きつけられたことも書かれている。


 だが、そこから先がない。後のページを見ても、白紙のままになっている。


「……未来はひとつじゃない」


 光一は誰にも聞こえない声でつぶやいた。

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