第12話「使命と決意」

 その日——結局、黒乃は来なかった。


 珍しいことだった。日報を見れば、彼女が来ていない日を探す方が難しい。


 夢月むづきのことも多少は収まったらしく、午後に来るのは普通にケガをしたり、具合が悪そうな生徒だったりした。夢月について多少ツッコまれたりもしたが、「可愛いですよね!」と容姿を褒めるものや、勉学や運動能力を褒めるもの程度に収まっていて——不思議なことに、悪い気分はしなかった。


 午前と比較して、午後はデスクワークがはかどった。終業時間をやや過ぎた辺りで、ぐっと背筋を伸ばす。


「そろそろ帰るか……」


 肩の凝りをほぐしながら扉を開けると——夢月が壁にもたれていた。どことなく不安げな表情が、ぱぁっと明るく切り替わった。


「おじさん、仕事終わった!?」

「……ああ、まぁ、な」


 部活動に励む生徒とは違い、普通ならとっくに帰っている時間だ。


「ここでずっと待っていたのか?」

「うん」

「保健室か、教室で待ってればいいのに」

「教室だとちょっと遠いもん。それに、保健室は休憩室じゃないって言ってたじゃん。おじさんに何かあったら嫌だし、だからここで待ってたの」


 光一はなんとも言えず、頬を掻いた。


 健気で、一途な思いがまっすぐ伝わってくるので、戸惑っている自分がいる。


 だが——そこまでする価値が自分にあるのだろうか?


 光一が立ち尽くしていると、「どうしたの?」


「一緒に帰ろうよ。ほらほら、おじさん」


 手を引っ張られ、足がもつれそうになりながらも、なんとか光一は夢月の勢いについていった。靴を履き替えている間も、彼女はふんふんと鼻歌で上機嫌だ。


 学校から出て、しばらく歩いたところで——不意に、夢月が腕を組んできた。「おい」と困惑と抗議の声を上げると、「いいじゃない」と頬を膨らませる。


「叔父と姪だよ? 恥ずかしがることないでしょ?」

「……普通、叔父と姪は腕を組んだりしない」

「そうなの? でも、わたしたちは普通じゃなかったから」

「……?」

「もうすぐわかるよ。どうしてわたしが、こんなにおじさんのことが好きなのか」


 その言葉は、痛切な響きを伴っていて——仕方なく、夢月の好きにさせた。




 その晩、二人は夕食を終えた後——光一は「コンビニ行ってくる」と言って、スマホを手にして出かけた。「アイスよろしくねー」と夢月の声に、適当に手を振って応える。


 家から出て数分の距離に、喫煙所がある。


 そこで光一はタバコに火を点け、電話をかけた。相手はすぐに出てきた。


『もしもし、光一?』

「もしもし、姉さん? 今、大丈夫かい?」

『大丈夫よ。夢月は今、テレビに夢中だから』


 四歳の夢月がテレビにがぶりついている様子を思い浮かべ、つい口角が持ち上がる。


『なんか用? ていうか、あたしの方が用あるんだけど。ちょうど今、あんたに電話しようとしていたところ』

「え? それって何?」

『昨日、あんたがいつも行ってるとこで爆発事故が起こったでしょ? 巻き込まれていないかって、悟郎ごろうが心配してた』


 千晴ちはるの夫のことだ。温和な容貌とは裏腹に、非常に記憶力と洞察力に優れている、というのが光一の印象だった。よく街に遊びに行っている、と話したのは一回きりのはずで——しかも自分自身、どのタイミングで言ったのか思い出せないほどだ。


『で、どうなの? まさか巻き込まれていたりしていないでしょうね?』

「い、いや。そんなことないって。その日はまっすぐ家に帰ったし」

『嘘ね』


 一言で切り捨てられ、ぐっと言葉とタバコの煙を呑み込み――むせてしまった。


 それが仇となった。


『やっぱり。悟郎の勘が当たったわね。今のが答えよ』

「……カマをかけたの?」

『本当のことを言っていたとしたら、すぐに否定できるはずよ。……どうなの?』

「…………」

『図星、と。あんた、まさかケガとかしてないでしょうね?』

「いや、それはないよ。……助けてくれた人がいたから」

『ふぅん』


 千晴はそれだけ言って——誰かと話しているような声が、かすかながら聞こえた。話している相手は悟郎だろうか。


『あんた、今度の日曜日空いてる?』

「え? 空いてるけど……」

『だったら家に来なさい。ご無沙汰でしょ? 夢月もあんたに会いたがってる』


 それは光一にとって、心の弾む誘いだった。


 しかし、懸念がひとつある。


 未来から来たという十六歳の夢月のことだ。もし、彼女が千晴の家に行きたい、会いたいなどと言い出したら――どのような事態になるか。


 四歳の夢月と、十六歳の夢月とが出会ったら、どうなるのだろう? まだ未来から来たなどと完全に信じたわけではないが——歳の違う同一人物が、同じ時代に存在していられるということは果たして可能なのだろうか?


『で、どうするの?』


 光一の逡巡しゅんじゅんを見て取ったように、千晴が尋ねてくる。


「あ、ああ。もちろん、行くよ」

『オッケー。じゃ、悟郎と夢月にも伝えとくから』

「手土産は何がいいかな? ケーキとか?」

『任せる。あーでも、夢月は今、イチゴにハマってるんだっけか』

「じゃあ、ショートケーキでいいかな」

『それがいいわね。……他にはなんかある?』

「いや、ないよ」

『ならいいわ。とにかく、無事でよかった。あんたに何かあったら、あの子絶対泣くから』

「…………」

『わかってると思うけど、あの子はあんたが大好きなのよ。……もうあんた一人だけの体じゃないんだから、それだけは忘れないで』

「……わかってるよ」

『体には気をつけてね。じゃ、そろそろ切るわね』

「うん。姉さんたちも気をつけて」


 通話を切り、紫煙をゆっくりと吐き出した。


 自宅に戻ると——夢月が玄関で、腕を組んで仁王立ちしていた。その顔はいつになく険しかった。光一が何かやらかした時の千晴の形相に、あまりにもそっくりだった。


 こんなところまで似なくてもいいのに、と内心で毒づく。


 鬼の形相で、夢月が言い放つ。


「遅い。あと、タバコ臭い」

「す、すまん……」

「アイスは?」

「……すまん。忘れた」

「コンビニなんて、嘘でしょ」


 こちらの動揺などお構いなしに、夢月はくるっと背中を向けた。部屋に入り、座布団に正座して、反対側をびしっと指さす。そこに直れ、ということだろう。


 おずおずと向かい合うと、「おじさん」と夢月は鋭い口調で言った。


「わたしはね、アイスを買ってこなかったことで怒ってるんじゃないの」

「……だろうな」

「おじさん、今の状況わかってる?」

「わかってる」

「本当に?」

「本当だ」

「じゃあ、今度の日曜日、わたしをお父さんとお母さんの家に連れてって」

「————」


 夢月は光一の、古びた日記を取り出す。


「おじさんは今度の日曜日、お父さんとお母さんと、それから四歳のわたしに会いに行く。これにそう書いてあるの」

「……会って、どうするんだ?」

「それは……!」


 夢月は身を乗り出しかけたが、「それは……」ともう一度つぶやくように言って、元の姿勢に戻った。


「正直、わからないの。でも、会いに行かないといけない気がする」

「……わかってるのか? 未来の君と、四歳のあの子が出会うことになるんだぞ。俺はそういう知識には疎いからわからないが、それは……よくないことなんじゃないのか?」

「…………」

「その日記、どこまで書いてあるんだ?」


 光一が手を伸ばしかけるが、奪われまいと、夢月はひしっと日記を抱きしめた。


「あまり、未来のことなんか知らない方がいいと思う」

「またそれか。まずいことでも書いてあるのか?」


 夢月は答えなかった。


 しかし彼女の反応から、ある程度の推測はつく。


「……君のお父さんとお母さんと——あの子に、何かが起こるんだな?」

「っ……!」

「〈リライト〉が攻めてくるのか?」


 確信を込めるように、そう尋ねた。


 恐怖と焦燥をあらわにした、夢月の表情が答えだった。


「なるほどな」


 夢月の手元の日記を見てから、彼女の顔に視線を移した。


「だが、君は今こうして俺の目の前にいる。ということは、少なくともあの子は無事なんだろう。となれば、お父さんとお母さんが亡くなるみたいなことが書かれてあるのか?」

「な、なんでわかるの……?」

「ただの推察だ」


 カマをかけた、ということは言わなかった。


 夢月はじっとうつむいた。


 こうしてみると、普通に学校に通っているような生徒と本当に変わらない。十代の子供に特有の、様々な思いに揺れている姿がそこにある。


「もし」と光一は指であごに軽く添えた。


「仮に、今度の日曜日に君の両親が亡くなるとする。その未来を——いや、君にとっては過去になるのか――とにかく、君はそれを知っている。それを防ぐため、行動を起こすことはできるかもしれない。しかしその場合、両親を失ったという君の中の事実……過去は消えてしまうことになる。そうなれば、今の君はどうなる?」

「……わかんない」

「わからないまま、会いに行くのか?」

「……だって、会いたいんだもん」


 うつむき、頬を膨らます。


「お父さんも、お母さんも……おじさんだって、わたしを置いて死んじゃった。わたしに残されたのはヨルワタリだけ。この時代に来なかったら、わたしはずっと一人のままだったの。おじさんに会ってどれだけ嬉しかったか、わかる? お父さんとお母さんにも会えるかもしれないなら——そりゃ、やっぱり、会いたいじゃない……」


 光一はしばらく夢月を見——「そうか」


「十二年後に俺は死ぬんだな。君を残して」

「っ……」

「色々合点がいった。両親を亡くした君はおそらく、俺が引き取ったんだろう。そうしてもおかしくないからな。そして十二年の間、俺が君を育てた。ロボットやヨルワタリについてはよくわからないが、とにかくタイムマシンを発明できたんだとしよう。それが〈リライト〉の癇に障った。そこで連中は、俺たちを始末しようとした。俺は死に、君はヨルワタリで時を越えてもう一度、俺に会いに来た――大まかにまとめると、こんなところか」

「…………」

「十二年、か。確かに長いな……俺のことを親代わりに思うのも無理ないか」


 がしがし、と後頭部を掻く。


 夢月はぶんぶんと首を横に振り、「親代わり、なんかじゃない」


「わたしにとってはおじさんも、お父さんとお母さんと同じぐらい、ほんとの親だって思ってる。優しくて、たまに厳しくて、それでもわたしが泣いていた時、いつもそばにいてくれた。不安で悲しくてたまらない時も、背中をさすって寝かせてくれた」

「…………」

「未来を変えたいの。取り戻したいの。そのためなら、なんだってする。〈リライト〉と戦うことも、時の流れを変えることも」


 夢月は顔を伏せ、つうと涙をこぼしていた。


 泣き虫だな——


 光一は感慨を込めて、内心でつぶやいた。


 四歳のあの子もそうだ。いつも元気なくせに、いざ光一が帰ろうとすると、泣いて引き留めようとする。それすらも微笑ましく感じるほど、とても愛おしい。


 この子のためなら、なんだってできる——


 それがたとえ、何もかも敵に回すことになってでも——


「わかった」


「え?」と夢月が泣き顔を上げた。


「今度の日曜日、一緒に行こう。だが、君が未来から来たってことは絶対に内緒だ。余計な混乱を招くだけだからな」

「う、うん……」


 光一は立ち上がり、ぐっと背伸びした。そしてふと気づいたように、眉を上げる。


「そういえば、ヨルワタリはどうしたんだ?」

「あ、今は〈トリカゴ〉で寝てる」

「ね……?」

「平たく言えば、整備中。AIがなんでもやってくれるから、ヨルワタリはいつでも万全の状態で出られるんだよ。これもね、おじさんのアイデア」


 誤魔化すように袖で目元を拭いながら、夢月は誇らしげに言った。

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