第三十章:窓辺の母娘――再び陽子の視点

ひかるちゃん」

 病院特有の消毒液臭い匂いにミルクの甘い香りの入り混じった、産科の病室の窓辺。

――ガタン、ガタン、ガタン……。

 廊下からは時折思い出したように台車の過ぎていく音が響いてくる。

 私は胸に抱いた真っ白なタオル地の肌着に包まれた温かな重みに呼び掛ける。

「おっきいねえ」

 初孫となるこの子は三四四三グラム。二八八二グラムで生まれた美生子より六百グラム近くも重い。正に二割増しの重さだ。

 かつて我が子を初めて抱いた時よりズシリと腕に来る感じはこちらが老いたせいだけではないだろう。

「僕が生まれた時は四〇〇〇グラム近くあったってお祖母ちゃんが言ってましたから似たんでしょうね」

 傍らの椅子に腰かけたハル君はどこか苦いものを潜めた笑顔で語る。

 ここでいう“お祖母ちゃん”とは生まれた赤ちゃんではなくハル君本人にとってお祖母ちゃん、私にとっては“キヨのお母さん”または“笹川さんちのおばちゃん”――もう“おばちゃん”と呼んでいたこちらも“おばあちゃん”になったわけだが――のことだ。

 今日はあいにく法事とのことだが、あちらも明日には曾孫ひまごに会いにいらっしゃるらしい。

 頭の中でそんな整理をしつつ、笑顔で今や娘婿となった相手に頷いて胸に抱いた赤子に語り掛ける。

「ちょうどパパママの真ん中だね。重さも誕生日も」

 予定日では四月二日の今日だったが、一日前倒しでこの子は生まれた。

 美生子が三月三十一日、ハル君が四月二日だからちょうどその間に生まれた格好だ。

「家族三人でお誕生日ラッシュ」

 この数日間で美生子とハル君は二十歳はたちになり、新たに光が生をけた。

 自分も来月には四十九になる。五十まですぐだろう。

 ハル君は既に働いており法律上は二人とも大人になったとはいえ、十九歳だの二十歳だの所詮子供が子供を産んだようなものだとは産むと決めた時から知っている。

 まして美生子はまだ学生だ。お腹に宿った命を絶つのが忍びなかっただけで、本音ではまだやりたいことや希望の進路もあるだろう。

 この前、新島さんの奥さんが暢哉のぶや君が付き合っている彼女と韓国に語学研修に行くと話していたし、宮澤さんとこの坊ちゃんも今は留学してニューヨークにいるそうだ。

 美生子もこうでなければ中国のどこかに行っていたかもしれない。

 昔からこの子はバレエを好きで自分から習っているかと思うと男の子みたいな格好や持ち物にしたり、上京してからも急に髪を刈り上げたように短くしたり、親の目にも妙なこだわりが強かった。

 それをハル君が近くで理解して支えてくれたのだろうが、そこは二人ともやはり若過ぎたから、こんな早い結婚と若過ぎる父母になったのだろう。

 ハル君はああいう形で育った子だし、両親共にもう亡いから、自分の家庭を早く持ちたかったのかもしれないが。

 いざとなったら赤ちゃんはこちらで引き取って、もう一度私たちで子育てしよう。

 今朝出てくる前も、夫とはそんな話をした。

 ふっと傍らで吹き出す気配がした。

「光が一番早生まれになっちゃったなあ」

 ベッドに置いたピンク色のU字型クッションに腰掛けた、水色の入院着の肩にまで伸びた髪を垂らした美生子は窓の向こうで満開を迎えたソメイヨシノの風景に見入っているようだ。

「大変なのは最初だけだよ」

 返事しつつ、そういえば、美生子が幼稚園に入ったばかりの頃は男の子の着る水色の体操着にすると騒いで大変だったと思い出す。

 あれも三歳になってすぐの入園だったから、制服でも青や水色みたいな自分の好きな色が着られると思ったんだろうな。

「俺みたいに学年で一番先に年を取る方が微妙だよ」

 今日二十歳の誕生日を迎えた、しかし、美生子より四、五歳は上に見えるハル君はこちらが胸に抱いている真っ白なタオル地の肌着に半ば埋もれた赤子を柔らかに細めた目で見やりつつ、苦いものを潜めた声で続けた。

「どうしてミオより一年遅れるんだろうってずっと思ってた」

「そうなの」

 こちらはあなたたち母子を見ながらいつも我が子があるべき段階より一年早く上に押し込まれる感じを覚えていたけれど、そこは口に出さずに話題を変える。

「おばあちゃんっていつ呼べるようになるかな」

 乳臭い中にもまだほんのり血というか羊水の匂いを残している赤子は、既に切れ込みの深い二重瞼でありながら、私や美生子のようないわゆるドングリ眼ではなく、切れの長い涼し気な目でこちらを見上げている。

「綺麗なお目目だねえ」

 これはハル君というかキヨの目だ。

 女の子だから大きくなればもっと似るだろうという予感がするし、一般には私や美生子より亡くなった彼女の方が美人と評価されるだろうからその方がこの赤ちゃんにとって幸せでもあろう。

 さっと窓の向こうから柔らかな陽が差してきた。

 そうだ、母親になったばかりの私たちが語らったあの日もこんな風だった。

 ねえ、キヨ、私たちの孫が生まれたよ。

 同じ産院で生まれた私たちの子供たちが一緒に育って、大人になって、少し早いけど結婚して、こんなに可愛い赤ちゃんが新たに生まれた。

 まだ正式に届けは出していないけど、「光」ってあの子たち夫婦で決めた名前なんだって。

 女の子にも男の子にも使える素敵な名だね。

 多分、うちの美生子がそういう名前を望んだんだろうけど、字面としてはいかにも陽希ハル君の子に相応しい。

 もし、あなたがここにいたら、この小さな命にどんな言葉をかけるのだろう。

「エハアッ、エハアッ」

 唐突に腕の中の新生児は泣き出した。

 まだ「赤ちゃん」にもなり切っていない、サイレンじみた、むしろ「鳴き声」というに相応しい泣き声だ。

「ミルクかな?」

 ベッドに置いたピンク色のU字型クッションに腰掛けていた美生子が立ち上がった。

 そうすると、ツンと乳臭い匂いがこちらにまで届く。

 こちらの産科の方針は判らないが、恐らくミルクより母乳を含ませるようにしていると知れた。

「そろそろ三時間経つから」

 産む前よりひとへら削げた風な、常の薄桃色から血の気が退いて白くなった頬にどこか疲れた笑いを浮かべてこちらに水色の入院着の腕を差し出す。

 そうだ、娘はもう母親なのだ。この光の母は美生子だ。何故か胸がどきつくのを覚えつつ赤子を手渡す。

「授乳室に行ってくるよ」

 どうしてそんな疲れた、諦めた風な目で笑うのだろう。

 こちらの思いをよそに赤ん坊の泣き声と水色の入院着の後ろ姿が遠くなっていく。

 妊娠出産を経ても美生子は自分のように肥ってはいないが、やや小柄でお尻の突き出た体つきはやはり母娘で似ていると思う。

「生きてれば、おなかくよね」

 生まれたばかりの娘に密やかに語り掛ける声には温かな響きがあったが、何故か水色の入院着もその胸に抱かれた純白の肌着も病院の廊下の暗がりに透けて消え入っていくように見えた。

――ガタン、ガタン、ガタン……。

 また姿は見えない車輪の通り過ぎる音が響いてくる。

 春の陽射しが優しく流れ込む窓辺に立っているはずの背中に一瞬、うそ寒い感じが駆け抜けた。

 ちょっと、授乳室の前まで自分がついていこうか。

 そう思って振り向いたところで、限りなく白に近いピンクの花霞の向こうに広がる窓を背にしたハル君が呟いた。

「ミオは、本当によくやってくれました」

(了)

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

The female――絆は捩れて 吾妻栄子 @gaoqiao412

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ