嫁が不倫した。

「私が浮気してるって言うの!」

 酷い剣幕で俺に詰め寄ってきたのは一月前まではこんな気持ちを抱く事の無かった最愛の人でいまは顔を見るのも苦痛に思える相手。書類上は俺の嫁、気持ちの上では既に他人。


 どうしてこういう言い争いをしているかというと一月前に遡る。

 結婚記念日を目前に控えたあの日。

 友人から届いたメッセージから全ては始まった。

 そこには『嫁と映画に行ったらお前の嫁がいた』というメッセージ。この日、俺の嫁は接待があるから遅くなると言って家を出て行った。

 在宅ワーカーの俺は疲れて帰ってくる嫁のために夕飯を作っている最中だった。

 仕事が終わった後にレイトショーを観に行ったのか、それとも……

 不穏な想像が頭をよぎる。


 つい先日、高校からの友人が旦那の浮気を理由に離婚したという話をしたばかりだった。

 その子を慰めようと集まった席でこの場にいない同級生女子が不倫をしているという話も飛び出した。学生時代は美人だけど地味という印象だった女子。

 信じ難い事にその女子は結婚前からその相手と不倫関係で男の子を出産したが旦那ではなく不倫相手との子供らしい。しかも旦那は自分の子と信じて疑っていないという酷いものだった。


 そういえばどこの国だったか忘れたが父子の間でのDNA鑑定を禁じている国があったな…… 確か一割程度の父子が不一致になるとかいう恐ろしい話。まるでカッコウの托卵。


 うちは大丈夫。

 嫁の願いは極力聞いて、外で働く彼女を労わって、優しく接しているのだから。

 そう思っていたのに、同級生女子の口から出た「優しい男より感じる男に惹かれる」という言葉が棘の様に心に刺さっていた。

 そういえばもう三ヶ月以上して無いな。

「いやいや、うちの嫁に限ってそんな事……」

 呟いた俺の声は室内に吸い込まれる様に途切れた。

 この日の嫁は俺が起きている間には帰ってこなかった。


 数日経って結婚記念日前日の金曜日・夜。

「明日、急ぎの仕事入ったから」

「えっ、だって明日は」

「仕方ないじゃない、仕事なんだし」

 テーブルの上に食器を残したまま嫁は風呂場に向かった。

 俺は仕方無いかと肩を落として予約していた店に断りの連絡を入れた。


 結婚記念日の朝、いつもと同じ時間に家を出る嫁を見送った俺。

 いつも通りに家事を済ませて、せめて夕飯ぐらいは手の込んだものを作ってあげようと家から離れたところにある品揃えの良いスーパーに向かった。


 そこで俺は信じたく無いものを見た。

 間違いようの無い今朝送り出した彼女の後ろ姿、隣の男と繋いだ手は恋人繋ぎ。我が目を疑った。彼女を疑いたく無いという気持ちが俺の足を止めた。

 その時、脳裏を掠めた「優しい男より感じる男に惹かれる」と言っていた同級生女子の姿。それは地味な同級生でも不倫をして旦那以外の男の子供を夫婦の間の子供と信じさせているという事。

 もし、目の前を歩いているのが嫁なら俺はどうすればいい……


 振り返って考えてもこのあとどう帰ったのかも思い出せない。

 買い物もせずに俺は家に帰ってきていた。

 ただ、今日見たものが間違いでないという事はスマホの写真フォルダーに残された写真が物語っていた。

 斜め後ろからのアングルになるが嫁と男がラブホテルに入って行く。その姿が切り取られていた。


 夜になって帰ってきた嫁は上機嫌で「夕飯なに〜」と聞いてきたが、直前まで呆けていた俺は冷蔵庫の中の作り置きを温めたもので誤魔化した。正直、作る気がしなかった。

 嫁は作り置きを盛りつけ直しただけの料理にも気付いてないのかいつもの調子で「おいしそ〜」と言う。込み上げてきた吐き気を堪えてトイレに駆け込んだ。

 いままでなら嫁の帰りを待って一緒に夕飯を食べていたのに今日は嫁の分だけしか出してない。気にした様子もなく夕飯を食べ始めた嫁に悲しくなった。


 先に風呂に入り、ベッドで横になっていた俺の隣に潜り込んできた嫁が「今日は生でしていいからシヨ」と言って俺の股間を弄ってきた。

 そうされると俺の男の部分は条件反射的に臨戦態勢を整えた。

 だが、いざ挿入となったところで俺はあの不倫地味女子の事を思い出した。

「あれ、どうしたの?ねぇ、調子悪い?」

 焦った様に聞いてきて、普段はしてくれない口でしごいてくれたりした嫁だったが、その日の晩俺が再び臨戦態勢になる事はなかった。


 その日から数日後。

 朝は晴れていたのに午後になって急に天気が崩れた。

「傘、持っていってないよな」

 残業になるというメッセージを受け取っていた俺は嫁の職場まで傘を届ける事にした。

 複数の会社が入っているオフィスビルの前まで来たところで仲良さげに会話をしながら出てくる男女の姿があった。直感に突き動かされて咄嗟に身を隠した俺の前を嫁と並んで男が通り過ぎて行った。二人は曲がり角を曲がると手を繋いで歩き始めた。一本の傘に隠れた二人の距離は恋人のそれ。

 俺の中で確定の鐘が鳴り響いた。


 その晩の夜中に目を覚ました俺は隣でスマホを弄りながら寝落ちしている嫁の姿に呆れた。以前なら風邪をひくといけないと掛け布団をかけたり甲斐甲斐しく世話を焼いた。それなのにいまはそんな気も起きない。

 その気すら起きなくさせたのは嫁の手に握られたスマホに表示された画面。


 月経周期管理アプリの画面。

 嫁の残業と合わせる様に性行為があった事を示すハートマークがあり、極め付けは結婚記念日と今日にもそのマークがありその二つにはコメントまである事を示す鉛筆のアイコンがあった。

 気になって嫁のスマホに手を伸ばしたところにトークアプリの通知が入る。

『ちゃんと中に出してもらえよ』

 そのコメントが目に入った瞬間、俺の脳裏に『托卵』の言葉がよぎった。


 三回目の不倫現場を押さえる前に俺はある女性と出会った。それによってこの日は決定的な現場を押さえる事はできなかった。

 その女性は嫁の不倫相手と不倫をしていたという女性。正直言って同情の余地は無いのだがその彼女は去年不倫相手の奥さんにバレて示談が成立した後も相手の事が忘れられずに半ばストーカーじみた事をしていたところに俺の嫁の存在が浮上してきた。それで今度はその事を相手の奥さんに知らせるために行動していたらしい。


 俺はその元不倫女性に不倫相手の奥さんを紹介してもらった。

 中々に混沌とした状況だが不倫中の二人のパートナーと元不倫相手というこの状況で情報共有が進む。

 奥さんに見せてもらった嫁と不倫相手のトークの履歴。

 それによると俺達の結婚記念日とその後の残業の日に不倫相手と嫁は無責任な中出し行為をしていた事がわかる内容のトークをしていた。

 ゾッとした。

 結婚記念日のあの日から俺は嫁相手に勃たなくなっていた。

 その事を「疲れている」「仕事が立て込んでいる」と言って嫁からの性行為を断っていた。その前となると暫く前になる。

 今になって考えれば『出来なくて良かった』その想いが心を占めた。それと同時に吐き気が襲ってきて俺は席を離れた。


 奥さんも浮気を繰り返す旦那とは別れる事を心に決めていた。

 元不倫相手の女性も奥さんに見せられたトークの内容を見て一気に相手への気持ちが失せたらしい。

 彼女に向けて言っていたのと同じ言葉を俺の嫁に言っているらしい。

 そんな言葉に靡いた俺の嫁に哀れさを感じた。

 三回目の逢引きの現場をおさえたら俺達は行動を起こす。そう話し合って連絡先を交換しあって別れた。


 それから数日後、俺は嫁の食事を作らなかった。

 滅茶苦茶俺の事を非難してきたけど俺は「仕事が忙しいんだよ!」と声を荒げた。嫁と付き合い出してから初めての事で驚いた表情を浮かべていた。

「私の事好き?」

 背筋に悪寒が走った。それでも離婚するまでの間は気付かれる訳にはいかないと思い直して「……好きだよ」と答えた。


 四日後、元不倫相手の女性が嫁と不倫相手がホテルに入るところをおさえた。

 送られてきた写真には相変わらず仲良さそうに恋人繋ぎをした二人がホテルに入っていく姿とホテルの前で抱き合って口づけを交わす姿が写されていた。

 その写真を目にした俺は自分でも意外な程平穏だった。

 そのすぐ後、不倫相手の奥さんから連絡が入って次の打ち合わせ日を決めた。


 打ち合わせ当日。

 俺達三人は郊外の喫茶店に集まっていた。

 奥さんの方も決意は変わらない様で離婚する事は決定事項の様だ。

 俺も嫁との関係をやり直す事はできないと考えていた。

 元不倫相手の女性もこの結末を見届ける事で区切りにしたいと俺達に話た。

 決行は次に二人が逢い引きするその日。

 奥さんは旦那のカバンに忍ばせた位置情報発信器具とトーク画面を家族共有のタブレットで見る事ができる様に設定したと言っていたから決行時には連絡が入る。


 その日は唐突にやって来た。

 午後になってから奥さんから『今日の夜、二人がホテルに行く約束をしています』淡々と告げられたそのメッセージに続いて嫁から『今日も残業(泣)、ご飯先に食べて』というメッセージが届いた。

 不思議と俺の心はなにも感じなかった。


 夕方、集合した俺達は奥さんのタブレットに表示された位置情報に向かって歩いていた。ホテルの位置で止まったソレに対して近づいて行った俺達を待ち受けていたのは不倫関係中の二人。ホテルの隣にあるパーキングで待ち構えていたようだ。

 不倫相手の男は奥さんに詰め寄って「俺が浮気してるとでも思っているのか!」と怒鳴り、俺の嫁は「私が浮気してるって言うの!」酷い剣幕でそう詰め寄って来た後「酷い!信じてくれないの……」と如何にも夫に信じてもらえない悲劇のヒロインじみた表情を俺に向けてきた。


「スマホ見せて」

 なにを言われても今の俺には響かない。

「な、どうしてよ」

「やましいところが無ければ見せられるでしょ?」

 そう返答した俺に対して躊躇している嫁に対して俺は自分のスマホに保存していた写真を見せる。

 嫁のスマホに入っていた月経周期管理アプリの画面。

 俺と性行為をしていないのに性行為をしたマークがついているソレ。

「なっ、私のスマホ見たの!」

 目をむいて俺を睨んだその醜い表情、これが彼女の本性だったのだろう。

「なんならこういうのもあるぞ」

 不倫相手とのトーク画面を写したスクリーンショットとホテルに入っていく姿、出てきて抱き合って口づけを交わすその姿。

 これだけの証拠を突き付けられて尚、嫁に反省の色は見られなかった。

「私みたいないい女と結婚できて、えっちも出来たんだから十分でしょ」

 その言葉、ソレはあくまで俺を見下した発言。

「私みたいにいい女が釣り合う男を求めるのは当然でしょ」

 開き直ったその言葉に俺は呆れ以外なんの感情も抱けなかった。


 こんな人を信じていたのか、そう思うとこれまでの二人の生活が色を失っていった。


 結果、嫁と不倫相手の男から念書を書かせ、二人には慰謝料を支払わせる事となった。

 当然、俺と嫁、不倫相手と奥さんは離婚した。

 そして元不倫相手の女性はあの決行の日、その男に蔑んだ目を向けて「学ばないクズね」と言い残して去って行った。あれから彼女達とは会っていない。

 離婚の成立だけ、最後にメッセージを送った。


『今日、諸々の手続きが済みました』

 元不倫相手の彼女からは『お疲れさま』、不倫相手の奥さんからは『私の方はまだかかりそうです』という返信があった。


◇◆◇ ◇◆◇ ◇◆◇ ◇◆◇


 その翌年。

 私的なメッセージを受ける事が無くなっていた俺のスマホが震えた。

『私の方も離婚が成立しました』

 そのメッセージはあの奥さんからだった。

『お疲れさまでした』

 俺のそのメッセージに彼女は『次はいい恋をしましょう』と返してきた。


「ははっ、女性は強いな」

 いまの俺は恋をする気持ちなんて無かった。

 いや、女性を、人を信じる事が怖くなっていた。

 結局、嫁は俺の貯金を大きく崩していた。

 そして最後に顔を合わせた時に吐き捨てる様に言われた「アンタなんてそのルックスとお金が無ければ結婚なんてしなかったわ」という言葉は俺を縛っていた。この先、きっと一人で生きていくと思っていた俺に対して少しだけ心を軟化させた。気がした。


 ほんの少し、少しだけ、人を信じてみよう。

 すぐには無理かもしれないけれど周囲に目を向けてみよう。

 俺にそう思わせてくれた彼女の対して俺も返信を返す。

『今度は浮気しない相手を見つけよう。ありがとう、さようなら』

 その後、彼女から送られてきた『さようなら』のメッセージを最後に彼女とは連絡をとってない。


◇◆◇ ◇◆◇  不倫相手達の顛末 ◇◆◇ ◇◆◇


 不倫相手の男性は不倫の事実が会社に伝わった時点で降格処分のうえ地方に転属になった。俺と奥さんに慰謝料を払ったらどれだけのお金が残るのやら、今までの様にはいかないだろう。

 自業自得だ。


 そして俺の嫁は最後に会った時には少しお腹が大きくなっていて不倫相手との間に子供ができている事は確実だった。あの時、萎えなければ俺の子と言い張ってきたんだろうと想像するとゾッとした。

 その事を知った俺は嫁の両親に彼女が不倫して離婚することになった事とお腹の中の子供が俺の子ではない事を伝えた。

 彼女の父親は顔を真っ赤にして俺にも責任があると怒った。

 それに対して俺は「彼女より高収入で、彼女がしない家事をして労わるのが俺の責任だというのならそうだろう」と言い返した。

 そして彼女が不倫を始めた頃から俺達は性行為をしていない事も告げた。

 これによって怒りの矛先は俺から彼女に向いたが、今の彼女は実家の両親を頼る以外に方法は無いと思う。

 これからどうするかは俺の預かり知らない話だ。


−了−


 ネタの提供を友人に頼んだら出てきたこんな話。


 ずっとレスだった奥さんが急に性行為を強請ってきて「避妊しなくて大丈夫な日」って言ってきた。それで萎えたって言ってたのとそのあと嫁の浮気が発覚したという話。


 流石にこれを新年最初の投稿にするのも違うなという事で年内最後の投稿です。


 皆様、良いお年を。

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NTRれた彼女が僕に未練があるはずがない。【短編集】 鷺島 馨 @melshea

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