かみさまの風

黒澤伊織

かみさまの風

「其方が望むなら、我は戦の神にもなろうぞ」


 穏やかな少女の姿は、刹那せつな、紅蓮の炎の燃えたぎって、年郎としろうは慌てて首を振った。


 村の奥から続く石段、その上にひっそりと建つほこらには、年郎が幼い頃から変わらぬ姿、すそ端折はしょった着物に童髪わらわがみの少女がいて、目が合えば、年郎年郎と手招きし、可愛がってくれるのだった。


 無論、年郎も幼いままではない、日が経てば、背はゆうに少女を超え、声も大分低くなった、それだというのに少女は変わらず、幼子のように年郎を呼ぶ。


 この人の世に照らせば不思議なことも、しかし年郎は当たり前に受け止めていた。祠には神様がいらっしゃる──それはただ、この村の常識だったからである。


 とはいえ、時代の流れは押し寄せて、この村の誰もがそう信じるわけでなく、それは若者の中では年郎ただ一人だけというように、石段をすれ違う村人は老いた人ばかり、年郎の親世代でさえ、月に一度、埃払ほこりはらいにくれば良い方、少女が年郎を愛でるのは、あるいはそのせいなのかもしれなかった──否、年郎はそう思っていたが、少女によれば、それは年郎のせいだった。


「我は其方そちがおらねば、おらぬゆえ」


 爺さまのような口調で、少女はあどけなく笑った。そして、


「年郎には難しいか、そう、難しいだろう」


 と、足をぶらぶら遊ばせた。


 そんな少女に、年郎は言い返したことがなかった。神様に口答えするなど、恐れ多いと思っていたわけではない。少女の言葉は、確かに難しく、年郎にはよく分からなかったからだ。


「つまりな、年郎が我を認めるからこそ、我はここにいるのだな」


 もう一歩踏み込んだ言葉が聞けたのは、年郎がもう少し成長してからのことだった。


「反対に、我がおらぬと思えば、我はおらぬ。どうだ、分かるかな」


 きらきらと、黒曜石のように輝く瞳に魅入られて、年郎は頷いた。それから、はっと己を取り戻し、取り繕うようにこう尋ねた。


「それって、神様がおれの妄想だってこと?」


「否」


 間髪入れずに少女は答え、


「この村にも、し風が吹き込んでいるからな」


 と、急に大人びたようにつぶやく。それから、年郎を振り返り、


「年郎よ、己というものを信じるな。己でこの世を覆ってしまうな。宿




 年郎は、祠の少女のことを、誰にも話すことがなかった。それは秘密でも何でもなく、ただ年郎が無口で、見たもの聞いたものをぺらぺらと話すような者ではなかったからだ。


 けれど年が行き、改めて気がつけば、祠に通う若者はなく、幼馴染みたちが何を話すのかと耳傾ければ、華やかな町の話ばかり、聞いたことのない言葉と、見たことのない服と、どういうものか見当も付かないような外国と、この日の本の戦という話、いつのまにか年郎は、その輪の中で時代遅れの若年寄と馬鹿にされ、のけ者になっていたのだった。


 そこで、祠の少女がと語り出せばどうなることやら。


 それでも、かつて幼馴染みもまた祠に通い、少女を見たはずだった。しかし、いまでは記憶なく、あまつさえ祠というものがこの村にあるという事実すら、忘れてしまったようである。


 これが少女の言ったし風だろうかと、年郎は思いながらも、同い年の笑い声を聞けば、その風を欲する己を感じて煩悶はんもんした。


 小学校しか出てはいないが、年郎は己の頭脳に自信があった。ゆえに、聞いたことのない言葉も瞬く間に覚え、見たことのない服も、むずがゆさもなく着こなす自信もあった。明日からそうした己でも良い、それでも少女を忘れぬ自信もあったし、祠にも変わらず参るだろうと。


 しかし、そうして夜を過ごし、朝の清い身で石段を登るうちに、そうしようと思った物事すべては、真に些末さまつなことのように霧散むさんして、祠に辿り着くのだった。年郎、そう少女が呼んで、すると嫌な夢から覚めたように、ほっと安堵するのだった。


「村での自分が本当か、それともここでの自分が本当か、わからなくなる」


 年郎がそう漏らすと、


「それが人だ、一人では生きられぬ」


 少女は肯定するでもなく、また否定するでもなく、厳かに言うのだった。


「人は群れの生き物なのだ、仲間を作り、その中で幸福を感じる生き物なのだ」


「では、おれは幸福ではないのか」


「そうとも言おう」


 突き放されてしまったようで、年郎は憮然とした。


「神様はおれを幸福にしないのか」


「言ったろう、人を幸福にするのは、人だ。我と人、それだけでは幸福になれぬ」


「では、おれが仲間に染まり、ここへ来なくなってもいいというのか」


「それが人だと、言っておる」


 少女は頑として言い張った。


「人は群れ、流される、我の如く、時代に根を張ることはできぬ、無論、あらがう者もおろうが、相応の代償は要る、其方にその覚悟かあるなら、抗うのも良いだろうが、それが其方の幸福にはなるまい」


「人を意気地なしのように言うのだな」


「否。それは流されることを悪だと、其方そちがそう思うからだ。我は責めぬ、我は抗わぬ、ただ人が幸福より離れる姿を、哀れに思うだけよ。我は人の神だけに」


 なぜ、年郎は問おうとして、その中身を忘れて黙りこくった。むくむくと、まるで雨雲の来るが如く、疑念が胸に広がった。


 神とは何だ。人とは違うと言いながら、なぜ少女の姿で現れるのか。人の幸福は人の中にあると言いながら、なぜ年郎を呼ぶのか。


「おれは人だ」


 戒めるように口にすると、


「知らぬと思ってか?」


 やはりあどけなく、少女は笑う。


「よいよい、其方も年頃だろうて、人の幸福を見つけねばのう」


 それはどういう意味だと憮然としながら、今日の日は石段を下り、家に帰る。いつものように畑仕事に精を出し、暗くなれば藁を編み、父母兄弟の手伝いをする。そして、翌朝、祠に行く。


「神様よ」


 姿が見えず、呼びかければ、手も届かぬ祠の上に、少女はくすくすと笑っている。 何がおかしいのだと言いかけて、年郎は気配を感じ、振り返る。すると、そこには一人の娘が、驚いたように年郎を見ている。見知らぬ娘だ。しかし、どこか少女に似ている。


 と、先に娘が口を開く。


「神様とお話してらっしゃった?」


 つい、と娘の視線が祠の上に、まさかこの娘、あの少女が見えるのかと、年郎はああとも、ううともつかぬ声を出す。


「君は、誰?」


「あ」


 今度は娘が驚いた様子、


「これほど小さな村だから、噂が回るのは早いかと」


「その噂仲間に、おれは入っていないんだ」


「まあ」


 それはどういう意味だろうかと、娘は刹那せつないぶかって、それでもきちんと姿勢を正し、ウシという名を名乗る。


「町にいるのは危ないそうで、親戚の伝手を頼って、ここに」


「危ない?」


「ええ、まさか戦争の噂もご存じないわけじゃないでしょう?」


 娘は冗談のつもりで言ったことも、年郎には本当だった。悪し風、少女が言っていたのは、戦争のことだったのか?


 年郎の様子に、娘は困ったようにもじもじとして、祠の上に目をやった。足をぶらぶらと遊ばせた少女が、いとしきものを見るような目をしている、その場所を。


「君は、」


「ウシ、とそう呼んで」


 娘が口を挟み、


「ウシ、さんは」


 年郎は言葉を改める。それから、娘の視線の先を見て、


「もしかして、見えるの?」


「見えるって?」


「その──」


 娘がやってきたことも知らない、戦争の噂も知らない、そんなおかしな男が、それ以上におかしなことを聞こうとしている。


「──神様が」


 しかし、その言葉はするりと口から飛び出した。年郎は娘の反応を窺ったが、けれどそうするまでもなく、娘は手をぱちんと叩いて喜んだ。


「そうか、神様なんですね、あの白蛇は。道理で神々しいはずでした」


 そうして、うやうやしく手を合わせ、目を閉じる。


 白蛇──年郎は驚き、そこを見た。すると、確かにそこに少女はなく、鱗をきらめかせた白い蛇が、するすると柱に巻き付き、屋根裏へと消えていく姿が見えた。そうして、今度は娘を見れば、その姿はますます神様だった少女に似て、年郎が見つめるその先で、娘は顔を赤らめた。


 これは少女がくれた幸福なのだろうか。


 人知れず、ウシと会う仲になった年郎は、そう思うようになっていった。相も変わらず、祠には参っていたが、そこには同時にウシもいて、以前のように少女──いや、白蛇となった少女と話す機会は失われていたのである。


 そのため、近頃では、石段を登りきれば、真っ先に白蛇の姿を探し、それを見つけることだけが、己の信心のあかしであり、少女と過ごした時間のあかしであるように思い込んだ。しかし、それは以前の静かな時間とは真逆とも言える、焦燥感に満ちており、年郎は苦悩した。


 ウシが嫌いなわけではない。けれど、少女から離れたかったわけでもない。ならば、ウシがいて、少女もいれば満足なのかと己に問えば、それもまた違うようで、どちらも同等に大切なところに、己の気持ちだけが浮つき、焦っているようなのだった。


 そうするうちに、年郎の耳にも噂は届いた。戦争の噂、日の本に生まれた人々が、つ国で命を失い、外つ国の人々が日の本まで攻めくるのだ、と。


 本当だろうか、年郎は問い、本当よ、とウシは答えた。以前、町で知らない言葉が流行り、見たことのない服が流行ったときも、それを知らないままの年郎にとっては、何事も流行らなかったと同じだった。この度の戦争も、それと同じではないだろうか。何も知らず、何も見ないまま、さして変化もないこの村で暮らせば、戦争は流行と同じように、年郎の頭上を流れていくようなものではないか。


「それは無理よ」


「どうして」


「あなたは日本国民だもの」


「おれは」


「そして、男」


 ウシの黒い瞳は、いつか見た少女のものよりもずっと強く、年郎を溶かしてしまうようだった。土塊つちくれに水をかけ、泥にして、別の形に作り上げるように、年郎は人ではなく、日本国民の男へと変化した。


「日本の兵隊さんは強いのよ」


 仕事に慣れ、固くなったウシの手が、妖しく年郎の頬に触れた。


「とても、強いの」




 酒でも飲んだかのような陶酔が、年郎の脳髄を痺れさせた。その痺れの中で、ウシは、もうすぐ赤紙が来るだろうと、そう言った。その前に、私をもらってちょうだい。


 ウシとの話はすぐにつき、年郎はウシの夫となった。すると、それを見計らったかのように、すぐに赤い紙が来た。右臨時召集ヲ令サレル依テ──年郎は、己の名の書かれたその紙を、奇妙な気持ちでしばらく眺めた。


「いつからなのだろう、このおれが誰かのものであったとは、その誰かのために戦う人であったとは」


 その誰かがウシならば、まだ分かる。あるいは、あの少女を──祠を守るため、村を守るためならば、年郎もこれほど奇妙な気持ちにはならなかっただろう。けれど、会ったこともない誰かが、年郎の名をこの紙に記し、住所に宛てて送ってきたということを考えると、それはおかしなことだと言うほかなかった。


「まったく、不思議なことだ」


 年郎の、二度にわたるつぶやきに答える人は、しかしなかった。そのため、年郎はそのままふらりと家を出て、石段を登り、引き寄せられるように祠へ向かった。ウシとの婚姻の報告に来たきり、なんやかんやと忙しく、また昔のように一人きりでここへ来るのは、久方ぶりである。そうして祠へ着くと、いつものように白蛇の姿を探すのだった。


「年郎、年郎」


 しかし、そうする必要もなく、石段を登りきった年郎の目に映ったのは、昔のようにあどけなく、手招きをする少女だった。驚き、年郎は思わず駆けた。


「どうして」


「どうして、とは、どういうことだ」


 目を瞠る年郎に、少女はいつもの調子で言った。昨日も、一昨日も、その前も、ずっと変わらずその姿で、話していたではないかというように。


「それは其方そちが我に投じることを忘れていたからだ」


「投じる?」


 分からぬままに、年郎は繰り返す。


「己の思い描く影を、彼の娘のものにすり替えただろう」


 あっと年郎は息を飲んだ。


 あれは白蛇だとそう言ったのはウシで、その瞬間から、年郎の目に少女は白蛇となって映り込んだ。


「おれが、ウシに心奪われたから?」


 恥辱に年郎はかっとなった。己は少女とウシの間で、苦悩していたと思ったからだ。それから、かっとなった部分がひりつき、焼けただれていくのを感じた。初めて会ったとき、ウシは少女に似ていると、年郎はそう感じたからだ。


「年郎が我を認めるからこそ、我はここにいる──そう言っただろう」


 少女はあの妖しい瞳で言った。


「そして、そのとき其方は我を幻想かと、そう問うた。いまやその答えは分かるか?」 


ひりひりと、年郎の胸は焼けた。くしゃり、手に携えた赤紙がゴミのように形をなくした。


「分からない」


 そう答えたのは本心でなく、少女の口から己の本心を聞き出そうというずるい企みだった。すると、少女の姿は炎のようにわっと広がり、祠を炎上させようというように燃え上がった。めらめらと、黒い瞳に紅が踊る。


「其方が望むなら、我は戦の神にもなろうぞ。そして、其方を戦の英雄と仕立てようぞ」


「やめてくれ!」


 盛る炎に飲み込まれ、年郎は頭を抱え、懸命に首を振った。


「やめてくれ、お願いだから鎮まってくれ」


「鎮まれと、そう申すのだな?」


 くすくす、と少女は笑い、年郎の前から姿を消した。


「神様……?」


 恐る恐る、年郎が立ち上がり、辺りを見回すと、くすくす、という笑い声は、頭上の木の葉のざわめきか、こずえの先のれる音で、何ら妖しいものではないのだった。


 年郎は、握りつぶしていた赤紙を開くと、しわを取るように丁寧に広げた。そして、それを祝詞のりとのように、小さく読み上げると、深々と礼をし、村へと石段を一歩ずつ下った。


 年郎であった人は、日本国の兵隊として国のために戦い、妻であるウシの元へ帰る日を夢見ながら、戦地での日々を過ごした。そこで人の死を見た。死ばかりを見た。病や傷により、裏切りにより、少ない食糧により、死の鎖に繋がれるのを見た。


 そして、それを目の当たりにしながらも、なぜ兵隊たちが死んでいくのかと不思議に思った。国と国の戦争で死ぬ兵隊は、人と人ではなく、国と国であることが奇妙だった。


 人の幸福は群れにあるのだという、少女の言葉を思い返せば、国とは大きな群れであり、そうなればこれもまた人の幸福であろうかと、年郎は思う。ならば、兵隊たちはいま、群れのために戦う幸福を享受しているということである。


 それを年郎に感じられないのは、年郎に群れはなく、強いて言えばウシのため、たった一人のためであるからだろう。それが町とも繋がる、村の幼馴染みたちならば、村のため、町のため、そこから国のためと、滞りなく繋がりゆくのだ。


 ──ならば、我のため、と言えばどうだ?


 泥にまみれ、汗滴らせて眠る夜、不意に年郎の頭に声が聞こえる。少女の声が、いまは遠い故郷の祠より響く。


 少女のためならば、戦える。


 考えるより先に出た、己の確かな答えに、年郎はおののく。なぜおれはそんなことを考えた? 少女は群れではない、人ですらない、それは神様──否、幻想であることを自ら否定する幻想であるやも知れぬのに。




 戦地での日々は、少女の存在を希薄化し、幻想へと押しやるに好都合なものだった。なぜなら、ここに幻想はない。あるのは現実で、その最たるものが死である。つまり、ここにないものはすべて己の頭が生み出した幻想であると考えるのが、何よりも自然なことだったのだ。


 しかし、うつらうつらとするうちに、年郎はまさに現実的な答えに行き着いた。すなわち、仲間も、町も、国も、少女と同じ、幻想ではないか。町も、国も、ここにはない。あるいは、仲間さえ裏切るのだから、ここにないものだと言えよう。


 つまり、すべては幻想だ。


 年郎がウシ一人では戦えぬ、けれど少女のためには戦えると思うように、他の兵隊たちも他でもない、幻想のためならば戦えるというわけだ。だとすれば、その種類にこそ違いはあれ、根本は同じではないか。


 しかし、やがて戦争が終わったとき、年郎はそれをどう受け止めるべきか、再び考えねばならなかった。なぜなら、国が降伏したとき、兵隊たちはそれを知らず、戦場にいたからである。つまり、、それならば、幻想はその兵隊たちの中ではない、別の場所にあったということになる。


 答えも出ぬまま、年郎は復員し、ウシの元へと帰り着いた。村には帰らぬ者もおり、それが戦争の影もない、故郷の雰囲気を暗くしていた。


「仕方ないよ」


 短く、ウシは言い、背後に隠れる幼子をそっと前に押し出した。あなたの子よ、とそう言う代わりに、まるで隠していた嘘が露見したかのようにこう言う。


「何度も手紙を出したけど、届かなかったみたい」


 年郎は勧められるがままに幼子を抱き、そこに己の要素を探した。見つかると言えば見つかるし、見つからないと言えば見つからない。ウシ一人ではなく、ウシとその子のために戦えるかと、年郎は当たり前のように考える。


 戦えぬ──やはり答えは決まっているのだった。しかし、いまはその続きがあった。現実である人という存在は、現実のためには、戦えぬ。


 石段を登り、年郎は祠へ向かう。後からウシが、幼子が、手を引かれて上り来る。いまよりまみえるは、少女の幻想。祠という現実と、そこに宿る神という幻想。


 我を幻想と断じたか──それは幻想故に、年郎の脳裏に語りかける。何、いけないというわけではない。そうではないとあらがうことの、神の小ささを笑っておるのよ。


 これからおれは、この幼子を育てる──年郎も声なく語りかける。ウシを養い、子を養い、子はこれからも増えるだろう、そうしておれは働き、暮らし、ちるようになくなるだろう。死ぬとは言わぬ、あの戦場で兵隊は死んだが、その死と、ここでの死に、同じ言葉を当てることはできないだろう。おれたちはここで朽ちる、木の葉や草と同じように、そうしてこの村の土の一部となる──。


 一つの答えに辿り着き、年郎は立ち止まった。


 人が朽ち、土になるなら、この山もまた人の積み重なったもの、また死なずに朽ちれば、それは生きてここにあり、あるいは語りかけてくるのではないか。それがいつか少女の言った、己の頭だけではない、それ以外に宿るものではないだろうか。


 立ち止まったまま、振り返ると、ウシと幼子がゆっくり、ゆっくりと年郎の後をついてくる。年郎は、大分先に上ったようだ、歩幅も合わせずに、己の速度で、通い慣れたこの石段を。


「・・・代わろう」


 年郎は段を下り、ウシの代わりに、幼子の手を引いた。その小さく危うい足取りに合わせ、ゆっくりと、ゆっくりと。それを見守るようにウシは、年郎の傍らを同じ速度で上っていく、ゆっくりと、ゆっくりと。


 これが人の幸福なのかもしれない──年郎は、少女の言葉を思い返す。現実と幻想の狭間で、群れとなり、人を信じ、生きていくのが。己で世界を覆うことなく、一人で生きていないのだという幻想を、胸に抱いていることが。


 そうすれば、少女という存在も、変わらずそこにあるだろう。あるいは白蛇となり、山となり、葉擦はずれの音となり、人である年郎を見守るだろう。決して人にはなれぬ、人ではありえないものとして。


 幼子の手を引く年郎の目に、流されていく人の己と、時代に根を張るという少女の姿が、遠ざかり、消えていく様子が映し出された。時間の川は、下方にしか流れない。その川の流れの真ん中に、少女は根を張る大木で、人の生まれる源流を見守り、近づき、通り過ぎ、遠くなっていくのを見送っているのだ。限りある人の命が彼方に生まれ、反対の彼方で消えていくのを。


「なあ、ウシよ」


 年郎は、少女に似た、傍らのウシを見た。なぁに、未だ少女のような瞳で、ウシが年郎の瞳を見返す。


「あれは白蛇じゃなかった、君に似た少女だったんだ」


「神様が?」


 ウシが訊く。


「神様が」


 年郎が答える。


「かみさま」


 幼子が舌っ足らずに、二親の言葉を繰り返す。


 悪し風は止んだのか、流されゆく人には分からず、ただこの命の果てまで、見守られていることを知れば、年郎もまたその一部となり、生きていくのだと思うのだった。

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