第二章――フェンリル③――

「いや、やめて、お願い」


 恐怖にかられた妻の声に、男ははっとした。

 その天の民ヴィトは、使用人にあやされながらもまだ、泣き声をあげていた末の子を取り上げて、後ろ足に元の位置に戻るところだった。

 男はたまらず声を張り上げた。


「息子をどうする気だ。汚らわしい手で触るな!」

「どうにでもできる」


 これほどはっきりした、脅し文句もなかった。

 妻が短く悲鳴をあげて震え、男の背筋をぞっと、悪寒が走った。


「この赤ん坊が使えなくなったら、次はそっちのチビどもだ。その次は大きい方。その次は女共。おっさんは……一番最後にしよう。それまで見ていられるなら」

「やめろ!」


 男は叫んだ。


「やめてくれ、頼む……子供たちには、妻には手を出さないでくれ。なんでもしよう、だから……」


 うっとうしそうな口調で天の民ヴィトは言い捨てた。


「積み荷を半分置いていくか?それで助かると、はじめに言っただろうが」

「わかった、わかったから、何もしないでくれ、息子を返してくれ……頼む……」

「じゃあさっさと積み荷を降ろせ。赤ん坊はそれからだ」


 護衛と使用人と御者、そして夫婦で、亡霊たちの監視のもと積み荷を降ろしだした。

 男は天の民ヴィトの機嫌が損なわれぬよう、なるたけ高価な品々を選んで運び出すよう護衛たちに伝えた。

 その間息子たちは、天の民ヴィトに剣を向けられていた。

 冷や冷やしながら半分の積み荷を降ろし終えると、ようやく末の子は妻の腕に返された。

 先ほどの泣き声が嘘のように、すやすやと寝入っている。


「射抜かれちゃたまらないから矢は全部もらっておく。もう用はない、行け」


 そう告げられたものの、まだ相手が抜き身の剣を構えていることには変わりなかった。

 御者は相手の気が変わらぬうちにと馬に掛け声をかけ、急いでこの場を去ろうと躍起になっていた。

 男は苦し紛れだと知りつつも、今しかないと、悪態をつかずにおれなかった。


「覚えていろ亡霊め、このままで済むと思うな。今にアマナ女神の怒りがお前たちに放たれるだろう。地下に繋がれた女神のしもべが今度こそ、お前たちを一人残らず喰いつくすだろう。その時を待っているがいい」


 すると、天の民ヴィトは一拍置いたのち失笑した。


「頭がいかれてるなおっさん。女神がいると言うなら何故、今、この時に現れない。あんたもあんたの家族も、殺されるかも知れなかったのに。女神はなにをしている?あんたを救わずに放っておくのはどういう訳だ?」


 男は言葉をつまらせた。馬車が駆けだし、再び雪が舞う中を都へと走っていく中で、男は震えて額に油汗を浮かばせた。


「ありえない――」


 はったりだ。女神を恐れない天の民ヴィトなど、ありえない。ありえてはならない。

 初めから、奴らはこちらに手を出すつもりなど無かったのだ。それを女神は察したのだ。

 だからその御手みてを示されることはなかったのだ。


「ありえない――」


 男は使用人から末の子をひったくるようにして、抱きしめた。

 息子の機嫌が良くなったのは、何の心配もいらないと小さいながらに察したからだ。女神の御手を感じたからだ。

 けして、けして、天の民ヴィトにあやされたから泣きやんだのではない。天の民ヴィトの腕が心地よかったわけではない。

 女神が現れなかったのには理由がある。

 ――きっと帝国で何かあったに違いない。

 近代の地帝に、女神の娘達にきっと、何か。

 きっとそちらにいらっしゃるのだ。だから。


「あんな奴らが、居てなるものか」


 息子は無垢な寝顔だったが、男の震えはとうとう止まらなかった。


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