テセウスの田中

押田桧凪

第1話

 この世には10種類の田中しかいない。いや、そうであってほしい。これ以上増えるとさすがにまずい。今、この教室にいる生徒のうち9人が完全なコピーとしての「田中」に置き換わってしまったのだから。どれがオリジナルで、元々は誰なのかを識別するものはもはや制服の胸元にある苗字の刺繍だけだ。


 遡ること十分前。俺は生徒の名前を言い間違えた。あろうことか、日本人の苗字ランキングに上位に食い込むであろう標準的な「田中」という名を。


「……であるからして、じゃあ次の問題、この活用形を答えよ。今日は12日だから、出席番号12番の田中たかな


 ふっ、と後ろの席の方で何人かの生徒が鼻で笑う声が聞こえた。その時になって、ようやく俺は言い間違えたことに気付いた。今日の朝ごはんは妻の作ってくれた高菜おにぎりだった。美味しかった。……が、今はそんなことはどうでもよかった。田中、と何事も無かったかのように俺が言い直し、名簿から顔を上げ田中の席を見やると、そこに田中は居なかった。


「おい、どうした。田中は? トイレか?」


 田中の席の周辺にいた生徒に聞いてみるが、首を少し傾げ、「さっきまではいたんですけど」とキョトンとした顔になっている。


 と、そこで俺は田中の机にスーパーに売られているような高菜漬けのパックがひと袋置かれていることに気付いた。もしや……、と俺はあらぬ方向にことが動いたことを考えた。いや、そんな事は有り得るはずが無かった。田中が、高菜になったなんて信じられるはずが……。


「田中。ちがう、それは高菜だ。高菜、こい」


 おい、お前が田中なのか? と俺は心の中で呼びかけながら、俺は一縷の望みをかけて、高菜に話しかけた。傍から見れば完全にヤバい奴だった。「物」と意思疎通できるはずなどないというのに。


「ぼくは田中じゃない」


 高菜から声が聞こえた。あー! やっぱりお前が田中だったのか! ん……? いや、待てよ。今、なんて? ぼくは田中じゃない? まるで、「ぼくはタヌキじゃない!」と言うような口ぶりで田中であることを否定したのだ。高菜が。


 教室でどよめきが起こる。どっちに対しての反応だろうか。高菜が喋ったことに対してなのか、田中が本当に居なくなったことに対してなのか。


「じゃ、じゃあ……田中は今どこに?」


「田中と高菜は交換されたんだ。だから、先生。もう一度、『高菜 田中』の順番で言えば、元に戻るよ。さっき、この物質組成変換が発動したのは田中を高菜と呼び間違えた後に田中と続けて言ったからだよ。だから、もう一度同じ順番で唱えるといいよ」


 なるほど、と俺は高菜の言うことを信じることにした。どうしてこの高菜がこの能力の性質を知っているのかは気に留めなかった。


「高菜 田中」


 俺がそう言うと、たちまちポン! と大きな音を立てて高菜が田中に生まれ変わった。


「良かったよ、田中。田中が帰って来てくれて本当に良かった。って、ん? 田中が二人?」


「先生、もしかして田中の後にまた田中と言ったから発動したんじゃ……?」


 ひとりの生徒が俺の方を不安げに見つめながら答える。なるほど、さっきのルールでいくと、田中を田中に交換することは出来なかったから、田中が増えたという訳か。……と、答え合わせしている場合では無かった。田中の右隣は……三崎? お前なのか? 制服の刺繍には「三崎」と書かれている。女装した田中がそこには居た。服まではコピーされないというのが面白いな、と俺は思った。


「はい、私は三崎です。声は田中ですが」


「じゃあ、よし。田中じゃないっと。……って、こういう時はどうやって解除するんだっけ? さっきは同じ通りに言い直せば元に戻ったってことは……」


「田中 田中」


 俺は、満を持してそう言うと。また、田中が二人増えてしまった。ポン、ポンと。ちょっと待て……、これはシステム的におかしいな。田中になった三崎を解除できなかったのか? で、田中になったのは斜め前にいる伊東とその左隣の酒井か。


「はい、俺は伊東です。声は田中ですが」

「はい、私は酒井です。声は田中ですが」


 まずいな、田中を増やしてしまった。整理しよう。さっきの「田中 田中」で、三崎の田中状態を解除するはずが、なぜか二体田中が出現した。とりあえず、元に戻すべき田中はこれで三体。だから、俺が次にするべきは田中を2×3回セットで言えば、さっきのが誤作動だったとしても、一気に3人分解除できるわけだ。よし、これでいこう。


「田中 田中」

「田中 田中」

「田中 田中」


 俺がそう言うと……、冒頭の状況に戻る。そう、田中は一気に六体増え、9人が田中になってしまったのだ。岡島、滝口、平城、森田、星元、堤……すまん。先生の読みが甘かったようだ。どうやらこのゲーム、一筋縄ではいかないようだな。


「先生、田中を田中に交換する事はもうできないのでは……? だから、一旦何か別の物を経由してそれをまた元に戻さないといけないんじゃ? さっきの高菜のように」


「なるほど名案だ! ありがとう、田中!」


「滝口です」


「よし、じゃあまず……『田中 刀』」


 すると、ポンと音を立てて田中のうちのひとりが刀に変わった……筈だった。けれど、そこには刀を持った田中がいた。


「ん? おい、どうした田中……? 授業中だぞ。とりあえず手に持っているそれを置け。どうして刀なんか持ってるんだ? いや、違う。俺が、田中を刀にしたのか。あ、そもそも田中はどの田中だ?」


「多分、オリジナルの田中だと思います」


「なに?! それはまずいぞ。じゃあ、今の刀がオリジナルの田中で、それを持っている田中は……誰だ、お前?」


 つい、生徒をお前呼びしてしまった。それぐらい、俺は動揺していた。


「ぼくは田中じゃない」


 あの時の声だった。同じ田中でも、明らかに田中ではない声だと俺ははっきり分かった。俺は、再会を喜ぶかのように嬉々とした表情をつくり、こう尋ねた。


「君は……あの時の高菜かな?」


 そうだよ、とその声の主は穏やかに返事した。


「なるほど。先生、それは田中から生まれた高菜であって、田中じゃないってことですね」


「そうか。先生が高菜から田中を呼び戻したから、これは真の高菜だ。でも、その代わり今の田中くんは容れ物の状態になってるはずだよ」


「そうだな。今、高菜だった田中が容れ物として刀になって……ってお前、誰だよ? やっぱり高菜じゃねーだろ?! 田中だろ」


 教室では、今、刀になった田中がオリジナルの田中か田中じゃないか論争が起こっている。そして、刀は一切喋らない。やはり、刀の中身は空っぽで、高菜だと自称する田中はオリジナルの田中のままなのだろうか。それとも、潜在意識の高菜から田中だと言わされているのだろうか。


 そして俺は一つの疑問を抱いた。高菜を経由して田中としての体を取り戻すも、最終的には刀になった田中は果たして、田中と言えるのだろうか、と。


「おい皆、とりあえずその『容れ物』っていう言い方やめないか?」という俺の声はすぐに掻き消された。田中たちは議論にひどく熱中していた。


 ぐぐぅぅう。俺の腹が鳴った。きっと、高菜のことを考え過ぎたせいだ。それを合図にぴたり、と喧騒は止んだ。


「この状況に至ってなお、先生は給食のことを考えてるんですか?」


 軽蔑の色を微かに浮かべながら、田中は俺を見てくる。


「待ってくれ。いや確かにそうだが、四時間目だから仕方のないことだ」


「先生も田中になればいいのに」

 ひとりの田中が投げやりにそう呟いた。


「そうだそうだ」


「田中! 田中! 田中!」


 謎の田中コールが始まる中、俺は声を張り上げて言った。


「静かにしろ。静かにしないと、お前らをひき肉にしてやるぞ」


 今度もまたクラスの声がぴたり、と止んだ。もはや、この能力を手に入れてしまったからには脅し文句の域を超えてしまったらしい。間近に迫る現実に仔羊たちは黙らざる得ないというわけか、と半ば興奮しながら、人間の村を襲いに向かう狼の感じる言い知れない高揚感はこんな感じだったのだろうかと勝手に想像した。だが、ひき肉は少し言い過ぎたか。高菜にしておけば良かったかもしれない。


「ふはははは、田中たちよ。俺を崇めるがいい」


 そう言った瞬間、カチリ、と田中ロシアンルーレットが回った音が俺の中で確かに聞こえた。


 気づけば、俺は何者かになっていた。誰かに勝手に口を開けられて、喋らされているような気がした。


「はい、俺は田中です。すみません。俺が全部やりました。俺が、田中です」


 俺は、11人目の田中になった。

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