第2話 子ども時代

 私がだった時の事はよくわからない。


 現在の家から徒歩で二時間ほど離れた所にある、大都市の片隅の小さな住宅街の一角の、平凡な家庭の、平凡な長子として生まれた。

 変わった事と言えば、その五年後にできた下の子が双子だった事ぐらいだ。


 両親は別に、特別忙しかったわけではない。

 普通に会社に通っては帰って来る父親と、普通に私たちの面倒を見ていた母親。たまにパートに出掛けて家を空ける事はあったが、それもあくまで土日で子どもたちだけで置き残されることはほとんどない。ごくまれにあったが、それでもそこには母方の祖父母がくっついていた。ちなみにどちらも現在は他界している。

 面倒見のいい、優しい祖父母でありどことなく現在の義父母に似ている。そんな祖父母が私たちの面倒をより密接に見てくれるようになったのは、私が小学四年生の頃からだ。




 私が小学四年生だった頃だから、弟と妹は五歳である。

 私だって十二分に子どもだったが、それ以上に子どもな存在。そんな弟と妹の面倒を見るのは、私の役目だったはずだ。

「おねえちゃーん」

 その合唱に応えるように、私はふらふらと二人の方へと向かった。母は父と共に買い物に出かけ、家にいるのは私と弟と妹だけ。火は絶対に使わないように言われている。

 なんて事のない土曜日の昼下がり、平凡な日。と思っているのは私だけらしい。

 そろそろ飽きて来た子ども向けのお人形劇を、弟と妹と一緒に見る。

 実はこの頃、そのお人形劇のキャラクターが変わる直前だったそうだ。もしその日が新しいキャラクターが出た時期だったなら、同じ事は起きなかったのだろうか。


「おねえちゃん!」

「ああごめんね、さいきん寝不足で」

 寝不足なんていう言葉を、さほど深い意味をもって使った訳ではない。単に見飽きていて退屈ゆえのあくびをするのをごまかしただけだ。

 本当なら戦うヒロインのお話でも見ていた方が個人的に有意義な時間の使い方だった。もちろん、それ以上に有意義なのは宿題をする事だ。でもそれは午後にやればいいと勝手に思い込んでいて、実際そのつもりだった。

「うそはダメだよ、おねえさんもいってるじゃん」

 でも子どもってのは敏感だ、自分だって子どもだったくせにそれに気が付かなかった。この安っぽいごまかしに弟はすぐさま反応し、私の方を不機嫌そうににらんだ。せっかく楽しい人形劇の時間なのになんでそんな顔になるんだろう。妹がじっと見ているのに弟だけ不公平だなとも思った。


「ああほらまたためいきをついた!」

「……………」

 次のため息は、どうして弟にだけこんな思いをさせてしまったのだと言う悔恨のため息だった。

 でも五歳児にため息の種類を見抜けと言うのはむちゃぶりだったろう。いくら心が敏感でも、直前に明らかな退屈振りを見せておいて今更手のひらを返すようなやり方が認められるわけもない。やはり、ごもっともなお話だ。

「おねえちゃんどっかいって!おねえちゃんがいるとつまんなくなるよ!」

 弟のもっともな怒りに反省した私は、気分転換のために宿題をしようとリビングから自分の部屋に戻ろうとした。

 でも、どうにも背中が重い。ここで立ち去ってはいけないような、まだここでする事があるような。そんな感触が体を覆っていた。その感触に引きずられて私が居間に背中を向けたまま突っ立っていると、人形劇の終わりを知らせる音楽が流れた。そしてそれと同時に、悲鳴が家の中に響き渡った。


「おねえちゃーん!」


 妹の服の湿度が、急激に上がった。楽しみなお人形劇を前にして、忘れ去っていた尿意が復活したのだ。

 それに気が付いてあわてて立ち上がり助けを呼んだのだろうが、間に合わなかった。ソファーはかろうじて無傷だったが、フローリングは大打撃を受けた。


「あーあやっちゃったね。とりあえずお風呂場に行こうか」

「うん……」

 妹はがっくりとうなだれながら、私の手を握りしめてとぼとぼと付いて来た。気持ち悪い服を一刻も早く脱ぎたいのだろう、私を引きずりながら家の中をすたすた歩く。

「ちょっとこれどうするんだよ」

「そっちはいったんお風呂場まで連れて行ってから」

「きたねーよ」

 弟のせいにする訳ではないが、確かにフローリングを放っておくわけにも行かない。とりあえず妹を風呂場に起き残し、適当な雑巾とバケツを持ち出してフローリングに押し付けた。


「あーあ、テレビがみられねえじゃねえかよ」

「がまんしてね」

 その時、少しあわてていたのでテレビの前にしゃがみ込む事になってしまった。当然、弟の視界を塞ぐ事になる。でも、だからと言って今更立ち位置を変える事もできないし、妹を待たせる訳にも行かない。

 そしてこんな時に限って、テレビから流れたのは弟のお気に入りの曲だった。さらに不満を募らせる弟だったが、それでも無視はできない。二枚の雑巾で妹のおしっこを吸い取った頃には、曲は半分ほど終わっていた。

「おねえちゃんったら…!」

「ごめんねごめんね」

 ごめんねと連呼しながら、私は妹の着替えを取り出した。

 弟の事はまるで目に入っていない行いであり、弟が気分を害したのもむべなるかなである。それでも私が目先の気持ちに駆られて着替えをお風呂場に持ち込み、一糸まとわぬ姿にした妹にシャワーを浴びせた。

「冷たいよ」

「大丈夫でしょ、まだ九月なんだから」

 私だって半袖ミニスカートだった時期の話だしいいかなと思いながら妹にシャワーを浴びせ、そしてタオルで拭いてやった上で着替えを着せた。

「だって冷たい物は冷たいんだもん」

「しょうがないでしょ、火を使っちゃダメってお母さん言ってたし」

 妹はブツブツ言いながらパンツに足を通し、下着と代えのワンピースを身にまとうとひどくうつむいた。


「しょうがないでしょ、よくある事なんだから」

「よくある事って」

「あなたたちが生まれる頃までは私もしょっちゅう、ね」

 その点に関しては私は劣等生だった。幼稚園に上がる二ヶ月前までは昼間でもかなり怪しく、夜のおむつが取れたのは母があとひと月で双子を生む時期だった。夜尿の後戻りとか言う現象とは幸いにして無縁だったが、それもまたのちの母にとっては悩みの種になっていたようだ。

「おまえのせいでまともにうたがみられなかったじゃねえかよ」

「そっちだっておトイレいかなくていいの!」

「ねえちゃんだってなんでテレビじゃまするんだよ」

「いや本当ごめん、本当にごめんなさい」

「ふんっ!」

 戻って来た妹に対し、弟はお前のせいで満足にテレビが見られなかったと怒り出した。妹が反論すると、今度は私に矛先を向けて来た。

 なるほど、私が場所を間違えなければある程度は見られたはずだと思い真面目に謝ると弟は首を大きく横に振ってしまった。



 帰って来た両親に対し私がありのままを話すと、母は怒るでもなく軽く笑いながら弟の方をにらんだ。

「お姉ちゃんが必死になってるのにそういう事言っちゃダメでしょ」

「むー…………」

 弟は不服そうな目で母をにらみ、そして失態のせいで小さくなっていた妹を見下ろすように頭を振った。

「お母さん、今日はいっしょにお風呂に入っていい?」 

「あなた一人で大丈夫?」

「うんっ!」


 成績も顔も特にいいわけではないその時の私の自慢は、小学二年生の時から一人で入浴できる事だった。クラスの男の子女の子の中で、そんなのは一人もいなかった。その自慢の種を、さらに育てようとした。

 その時の私はその程度の話だと思っていたし、今もその程度の問題だと思っている。

「んだよ、何だこんなションベンたれの妹と」

「あなただって同い年でしょ」

 弟はえらく不機嫌で、私の方を見ようともしなかった。それでも姉として果たすべきは果たせねばならないと思いながら弟の手をつかみ風呂場へと連れ込んだ。痛い痛いとか言っていたが、聞こえない事にした。

 それでも少し腹が立ったので、普段なら一枚一枚脱がす所をいっぺんに上下とも脱がせて靴下だけにしてやった。いくら女と男でも、十歳と五歳では力関係に差がありすぎて抵抗などできない。一応口では嫌がったり恥ずかしがったりしていたが、あっという間に私の手により無抵抗な姿にされてしまう。


「靴下ぐらい脱げるでしょ」

「はいはーい!」

 そうしておいて今度は妹である。今日二度目の着替えのせいか無言のまま私の手を受け入れた妹だったが、さすがに下着を二度も脱がせてもらうのは恥ずかしかったようで、パンツ一丁になるとさすがに後ろを向きながら自分でゴムに手をかけて引きずりおろした。

「よしよし、靴下もちゃんと脱げてえらいねー」

 弱っている妹に対して温かい言葉をかけるのは当然の行いのはずだ。そして私もお風呂に入る以上服を脱がねばならない。姉らしくいつもの倍ほど丁重にボタンを外し、きちんと折り畳んでカゴに入れ、そして下着だけになるとそれも丁重に脱いで同じようにした。そして乱暴に転がされていた弟の靴下をカゴに入れ、それからようやく浴室に入った。

「うわっちっこーい」

「ちっこいってなにがだよ」

「そ、それは…」

「お前はちっこいどころかゼロだろ!」


 浴室の中では、弟と妹がへその下を指して言い争っていた。

 ちょうど保健の教科書で習い始めた、男性器と女性器。自分と同じのを持つ妹のと、自分のと全然違う弟の。お互いにお互いの物を指差しながら口げんかをしている。親と一緒に入るにあたってそういう質問をされなかったのだろうかと考えると、急に弟と妹が不憫に思えて来た。

「あのね、二人とも何にも知らないの」

「しらない」

「じゃあ教えてあげるから」

 教えてあげると言うほどには知識もなかった。

 でも、これまで四年間の学校生活で不思議なほどその手に関しての情報は耳に残り、そしてそれをむやみやたらに口外してはいけない事もわかっていた。でもむやみやたらでなければ、つまり必要な時であれば言ってもいいとも解釈できていた。それが今だったのだと思っていた。


「まず女の子についてるのはね、そこから子どもを産むための場所なの」

「どうやって?」

「お花あるでしょ。その種を作るための場所が女の子のそれで、その種を立派に育てさせるための場所が男の子のここにあるの」

「ここかよ!」

 弟の二つの玉を指差すと、弟は両手でその部分を隠した。それでも説明のためと思って強引にその手をはぎ取り、後ろに回り込んで妹に見せた。

「そのたねをここにいれれば子どもができるの」

「絶対じゃないみたいだけどね。二人はもちろん私でもまだまだ無理なぐらいで、あと何年すればそうなるのかなー」

 妹に見せた際に、右手が男の子の部分をつかんでいた。そのせいか知らないが、この時男の子の部分が急に大きくなった。

「うわっ」

 その事に反応した弟が急に女の子のような声を上げ、それと同時にその部分の先っぽから液体を出し始めた。


「やだおしっこ!」

「だってねえちゃんが、ねえちゃんが……!」


 私の手によって刺激された結果、溜まっていた尿が出てしまったらしい。そしてそれが弟の部分に顔を近づけていた妹に当たってしまい、顔面を軽く濡らしてしまった。妹は再び泣き出し、ご機嫌斜めだった弟も泣き顔になった。

「ふたりとも落ち着いて。ほら」

 子守唄を歌いながら顔を洗ってやり、シャワーを浴びせながら頭と体をこすってやった。全身くまなく泡だらけにし、スポンジを当てて行く。そうして小さな弟と妹の面倒を見てやっていると、気持ちがどんどん満たされて行った。

 とくに大きかったのは、男の子と女の子の部分を洗ってやっている時だった。さっき自分で言い出したその事をしたらどうなるのか、そしてその結果子どもができてママになったらどうなるのか。おそらくずっとこんな事が続くのだろう、そう考えると気持ちが高揚し、自分の事置き去りでずっとやっていた。

「ゆぶねにはいろうよ」

「ああごめんごめん!」


 その結果二人を湯船に入れるまでずっと自分の事は置き去りであり、申し訳程度に体を洗って湯船に入るまで私の体は二人から流れて来た泡やお湯がかかっているだけの状態だった。でもその事を不愉快に思う節はまるでなく、弟と妹の面倒を見たという達成感でいっぱいだった。だから、二人とも私の上っ面のごめんごめんと言う言葉に耳を貸さなかったのだろう。子どもとは言え三人入るのは辛いはずの湯船なのに、二人とも寄って来なかった。


 それが、小学生だった頃の最大の思い出である。今でも、小学校時代一番鮮明に残っている記憶はそれであり、後の事はよく覚えていない。

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