第11話 遭遇

 登校する怜奈と途中で別れた後、僕は周囲を警戒しながら自宅マンションへ向かった。

 警戒する理由は、自宅マンションに近づくにつれ、莉愛と鉢合わせる可能性があったからだ。


 でも、その心配は杞憂に終わり、無事に自宅へ辿り着くことができた。


「それにしても……どうして、一日家を留守にしただけで、久しぶりに帰ってきた気がするんだろう」


 家の鍵をポケットから取り出し、鍵穴に差し込み、ドアノブを回した。


 中に入ると、すぐさま脱衣所に向かい、服を脱いで洗濯機の中に入れた。

 明日には、翔に借りていた服を返さないといけない。

 昨夜、「ずいぶんと可愛らしい色の下着を着ているのね」と怜奈に言われた、そら色ピンク色の下着も放り込む。


 洗濯機のスイッチを入れると、僕は全裸で廊下に出た。

 着替えは自室にあるので、部屋まで移動しないといけない。


「全裸でうろついていると、謎の解放感があるなー」


 ぽつりと呟いた、その時だった。

 ガチャリと音を立て、真後ろにある玄関のドアが開いたのは。


「なっ!?」


 誰が家に入ってきたんだ!?

 この時間、妹は学校に行っているはず……

 まさか、泥棒!? 


 パニックになった僕は慌てて身を隠そうと、すぐ隣にあった妹の部屋に入った。


 息を潜め、様子を伺う。

 玄関ドアが閉まる音がして、ひたひたと廊下を歩く音がする。


 もし、泥棒なら……


「……」


 どうすればいいんだ……? 全裸で……


 何か武器になるような物はないか? と思ったけど、女子高校生の妹の部屋に、武器になるような物なんてない。


 僕の部屋なら、中学の修学旅行で翔と一緒に買った木刀があるのに。

 ……そういえば、あの時は莉愛に呆れられたな……

 なんて、ほろ苦い思い出に浸ってる場合じゃかった。


 やがて、足音は僕がいる妹の部屋前で止まった。


 嘘だろ? もしかして、この部屋にいることに気づかれてる?

 こうなったら……不意打ちで捨て身の突進をかますしかない。


 部屋のドアが、ゆっくりと開かれると同時に、「うおおっ!」と雄叫びを上げながら、姿を現した人物に襲い掛かろうと──


「……あれ?」


 した途中で、僕は動作を止めた。


 姿を現したのが、泥棒ではなく、制服姿の見慣れた少女だったからだ。

 肩口まで伸ばした茶髪に、大人びたつくりをした顔。

 触れれば折れそうなほどに細い小柄な体躯。

 いかにも病弱そうな外見──というか実際に病弱なくせに、性格は強気で口が悪い。

 

 そんな少女は驚いた様子もなく、ただ無言で、つり目気味の瞳で僕を見ていた。

 彼女が僕の妹、旭岡美織だ。


「……」

「……」


 全裸で妹に襲い掛かろうとする兄という、地獄のような状況。

 両者の間に、なんとも言えない沈黙が流れた。


「……警察に通報しますね」


 開口一番、冷めた表情をした美織が放った言葉はそれだった。

 美織は制服のポケットからスマホを取り出すと、迷うことなくボタンを押し始める。


「ちょ、ちょっと!?」

「あ、その前に証拠を……」


 美織は何かを思いついたようで、スマホの背面を僕に向けると、カメラのシャッターを切った。


「な、何してんの!?」

「それは私のセリフです。兄さんは、私の部屋で、全裸で何をしていたんですか? というか、今、私を襲おうとしていましたよね? まさか、兄さんが妹に欲情するケダモノだとは思いませんでした」


 美織は軽蔑の眼差しを僕に向けてくる。

「穢らわしいので、近寄らないでください」と言わんばかりの、侮蔑の目だ。

 美織は我が身大事そうに、両腕で自分の体を抱き抱えた。


 まずい、このままだと……

 彼女に浮気され別れた直後に、新しい彼女を作っておいて、妹にまで手を出した男になりかねない。


「誤解なんだって! いろいろと、タイミングが悪くてさ!」


 僕は必死に弁明する。

 ここで美織に誤解されたままになると、今後、僕の旭岡家での立場がなくなってしまう。


「はあ……言い訳は後で聞きますから、とりあえず、服を着たらどうですか?」

「あっ!」

 

 僕は咄嗟に下半身を手で隠す。

 ……冷静になってみれば、なんだこの状況。

 ひとつ下の妹の部屋に全裸でいる兄って、なんなんだ。


「……着替えてくる」

「そうしてください」

「あと、絶対に通報しないでね!?」

「それは、兄さんの言い分次第です」


 澄ました顔で美織は言った。



⭐︎



 服を着た僕はリビングで、テーブルを挟んで美織と向き合っていた。


「なるほど……つまり、欲情を抑えきれず、私に手を出そうとしたわけですか」

「だから、違うって!」


 一応、何故あんなことになったのかを説明したけど、美織は全く聞く耳を持たない。

 絶対に、違うとわかっているはずなのに、美織は僕を虐めて楽しんでいる。


 ちなみに、美織は登校中に、学校をサボろうと思い立ったらしい。

 それで、美織が家に引き返してきたところに、僕は遭遇したようだ。


 学校を理由もなくサボるなと言いたいけど、僕もサボってるので強く言えない。


「それは私の捉え方次第です。兄さんがどういうつもりだったのか、もはや周囲の人間からすれば、どうでもいいんです。そう思われてもおかしくない証拠がある以上、その時に本人がどう考えていたかなんて、関係ないんです。だって、本人の真意なんて、誰にも確認しようがないんですから」


 美織はそう言って、ご丁寧に現像した先ほど撮った写真を僕に見せてきた。

 下半身は見切れているが、上半身裸の僕が美織の部屋にいる姿が映っていた。

 

「兄さん、見てください。この写真に映っている人物の、情けないお顔を。これを見て、どう思いますか?」

「映ってるの、僕なんだけど……?」

「それは失礼しました。気がつきませんでした」


 美織は口元に浮かべた微笑を上品に左手で隠す。

 ……悪魔だ。


「──もし、兄さんがお付き合いしている女性……確か、椎名さん、でしたか? 彼女に、この写真を見せたら、どういった反応をされるでしょうね? もしかしたら、別れ話を切り出されるんじゃないですか?」


 他校に通っている美織は、莉愛と面識がない。

 そして、美織が極度の人見知り……ではなく、極度の人間嫌いなので、莉愛が自宅を訪ねてきた時も──


『どうして私が、よりにもよって、兄さんの恋人と顔を合わせないといけないんですか?』


 と言って、美織が莉愛と顔を合わせることはなかった。 

 そんな調子なので、僕の友人で、美織という妹の存在は知っていても、美織本人の姿を見たことがある人はいないに等しい。

 

 それはともかく……


「ああ、椎名とは昨日別れたよ」

「……え?」


 それを聞いた美織は、一瞬キョトンとした。

 と思ったら、若干ニヤついた笑みを見せ始める。


「へ、へぇ……そうだったんですか。やっと、別れてくれましたか……」


 美織の口元が、次第に緩んでいく。

 そんなに嬉しいのか、僕が恋人と別れたのが。

 

「だから言ったんです。兄さんに恋愛は不可能だと。将来、結婚することは出来ないでしょうと。やはり、兄さんの面倒を見ることができるのは、世界でこの私だけ──」

「あ、でも、昨日から別の子と付き合い始めたんだ」

「……は?」


 美織は再びキョトンとした顔になった。

 ふふ、兄を甘く見るな、我が妹よ。

 僕にだって、恋愛はできるんだ。


 とは言っても、はじめてできた彼女には、浮気されてたんだけどね!


「驚いた?」

「……はい、驚きました。まさか、兄さんが見境なく女性に手を出す、不埒な人間だったとは」

「不埒って……」


 聞き捨てならないセリフだ。僕を何だと思っているんだ。


「だって、そうでしょう? どうして恋人と別れた日に、別の女性と付き合い始めてるんですか? おかしいですよ、そんなの」

「いろいろあったんだって」

「もしかして……友人の家に泊まるというのは、その女性の家に泊まっていたということですか?」

「そうだよ」

「ということは、妹をほったらかしにして、呑気に朝帰りというわけですか」

「まあ、そうなるね……」


 そう言われると、耳が痛い。


 莉愛と鉢合わせるのを回避する為という背景もあるけど、美織にそんな事情は関係ないだろう。あくまで、僕と莉愛の問題だからだ。


「最低ですね、兄さん。昨日は、そんな理由で、急に私を一人にしたなんて」

「いや、美織は涼子さんの家でお世話になったんでしょ? だったら、別にいいじゃん。それに、美織ももう高校生になったんだから、留守番ぐらい一人で……」

「私は、か弱い女の子なんですよ? わかっているんですか?」


 か弱い女の子は、全裸の兄を写真に収めて、さっきみたいな意地の悪いことをしない。


 とは思ったものの……


 僕は、はじめて美織と出会った日のことを思い出していた。


 僕と美織は実の兄妹じゃない。

 美織は、父の再婚相手の連れ子だ。

 

 僕が5歳の時に、美織とはじめて出会った場所は、白く狭い病室だった。

 美織は生まれつき体が弱く、入退院を繰り返しているとのことだった。


 両親が再婚し、新しい家族が増えたというのに、家にいる義母と違って美織はずっと病室にいて、妹ができたという実感が湧かなかった。


 子供心に、それは酷く悲しいことだと思った。


 家族の誰かが家にいないというのは、自分を産んでくれた母親と早くに死別した僕にとって、耐え難いものだった。


 だから、僕は毎日毎日、仕事で忙しい父に無理を言って、美織の病室へと通った。毎日毎日が積み重なり、それは何ヶ月、何年と続いた。


 やがて、美織が小学校に入学する年になった。

 でも、美織は病室から出られない。

 当然、入学式には行けず、しばらくは学校にも通えなかった。


 僕が小さい頃の、記憶の中の美織は、一人寂しそうに、病室から窓の外の景色を眺めている姿がほとんどだ。

 きっと、小学校に通い友達と遊んでいる同世代の子達と、自分とを比べていたんだろう。


 小さかった僕は、そんな美織に何もできなかった。

 ただ、顔を見せに行って、せいぜい遊び相手になるぐらいしかできなかった。


 僕は、美織を外に連れ出したかった。

 檻の中にいる小鳥を、外の世界で羽ばたかせたかった。


 でも結局、僕は何もできず、美織は周りの大人達のお陰で、外の世界へ歩いて行けるようになった。


 僕が子供ながらに無力を悟った瞬間だった。

 今になって考えなくても、たかが子供に何かできるわけじゃない。

 でも、兄として、美織に何もできなかったという感覚だけが、僕の脳裏に張り付いた。


 その感覚は、今でも別の形で、脳裏にこびりついたままだ。


 入退院を繰り返していた美織は、今ではすっかり元気になった。

 もちろん、入退院を繰り返していた当時と比べてという話で、未だに定期的な検診を受けている。


 そんな美織が、随分と逞しく成長したなと思っていた。

 

 でも、美織は僕に、か弱い少女のまま扱ってほしかったらしい。


「……そうだね。ごめん、昨日は急に一人にして」

「……わ、わかればいいんです。わかってくだされば」

「じゃあ……今日は僕も学校を休むから、暇だし……」


 僕は席を立つと、美織の隣に歩み寄る。

 僕を見上げた美織は、一瞬気まずそうに目線を逸らした。


「兄さん、今日は……」

「僕はひよりちゃんのところに、お見舞いに行ってくるよ」

「はい、わかりました……って、え?」

「先週は部活が忙しくて、一度もお見舞いに行けなかったから」


 僕はそのまま玄関へと向かう。

 

「ちょ、ちょっと待ってください? 今の流れだと、今日は私と一緒にいるっていう流れじゃないんですか?」

「え、何でそうなるの?」

「な、何でって……」


 美織は言葉を詰まらせると、俯いて、


「なんで、よりにもよって、ひよりさんのところに行くんですか……」


 小声で何かを呟いた。


「なんて?」

「何でもありません! どうせ、兄さんはロリコンなんですから!」

「どうしてそうなるの!? ていうか、なんで急に怒ってるの!?」

「もういいです! 兄さんなんて知りません!」

 

 美織はそう言うと、ぷんすかと怒りながら自室に戻っていった。


「……わけがわからない……」


 僕は唖然として、力強く閉められた部屋のドアを見つめた。

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