ほしにいきたい

石花うめ

ほしにいきたい

 今日はずっと雨だった。

 僕はベッドに寝転がって本を読みながら、一日中雨の音を聞いていた。


愛斗まなと。晩ご飯作ってきたから、一緒に食べよう」 

 寝る部屋の扉を開けながら、母ちゃんが言った。


 母ちゃんが持っているお盆には、ボクの晩ご飯がギチギチに置かれている。ホカホカのご飯と、脂の乗ったサバの塩焼き、トマトときゅうりが入った夏やさいのサラダに、とうふのみそ汁。

 ベッドの横にくっついている四角いテーブルの上に、慎重にお盆が置かれた。

 母ちゃんはテーブルの横にイスを持って来て座り、手を合わせた。

「いただきます」

 二人で声を合わせた。


 母ちゃんはボクのベッドの下からリモコンを取り出して、ボタンを押す。

 ボクの上体はベッドに起こされ、イスに座っている母ちゃんと同じ目線になった。


「何から食べたい?」

「トマト」

 母ちゃんは箸でトマトをつかんで、ボクの口に運んだ。

「おいしい」

「よかった」母ちゃんは笑顔になる。「今日、お隣の西崎さんにもらった野菜なの。今度会ったら、愛斗の分もお礼言っておくわ」

「うん」

「次は何食べる?」

 お皿の上で、箸を閉じたり開いたりを繰り返す母ちゃん。ボクに食べさせる気満々みたいだ。

 でもボクは、それがちょっと恥ずかしくて、「自分で食べるから、いいよ」と言う。

 母ちゃんは諦めたように箸を僕に渡してくれた。

 ボクは寝返りを打つみたいに体ごとテーブルの方を向いて、サバを一切れ食べた。それと一緒にご飯も。


「今日も『星の王子さま』読んでたの?」

 母ちゃんは、ボクのベッドの枕もとにある本を見て言った。

 ボクはご飯を飲み込んで「うん!」と答える。


 星の王子さまのお話は、7才のボクには難しくてよく分からない。でも、星にはお花が咲いていて、王子さまがいる。それは分かってる。

 だからいつか星に行って、星の王子さまに会ってみたい。

 1年前、母ちゃんにこの本を買ってもらってから、それがボクの夢になった。


「愛斗は本当にその本が好きだね」

 母ちゃんはちょっとだけ下を向いて、残念そうな顔をする。

 その理由は、ボクが寝たきりになったのを、母ちゃんは自分のせいだと思っているからだ。

 1年前の夏。星の王子さまの本を読んだボクは、星を追いかけて走って、川の土手を頭からすべり落ちた。そのまま救急車で運ばれたみたいで、気付いたら腰から下が動かなくなっていた。それからずっと、今の寝たきり生活が続いてる。


「今日は何の日か知ってる?」母ちゃんは顔を上げて、話を切りかえた。

「たなばた!」ボクはすぐに答える。

 母ちゃんはニコっと笑った。

「よく覚えてたね」

「だって、お星さまどうしが出会う日だもん」

「じゃあ、ご飯食べ終わったら短冊を書こう」

「かくかくー!」

 ボクは急いでご飯を食べた。


 母ちゃんは空になった食器をお盆にまとめると、寝る部屋を出ていった。


 それから少しして、二枚の短冊と色付きのペンを胸に抱えて戻ってきた。

 母ちゃんは短冊を一枚、ボクにくれた。カッコいい金色の紙。

 ボクは母ちゃんからペンをもらってすぐに「ほしにいきたい」と書いた。

 それを見た母ちゃんが「いいね」と言ってやさしく笑う。


「母ちゃんは、どんな願い事した?」

 母ちゃんは短冊を両手で持って自信満々にボクに見せながら、

「『今日、たくさんの星が見られますように』って書いたよ」

 と言った。

「母ちゃん、それはムリだよ。だって今日、ずっと雨ふってるじゃん」


 雨とか曇りの日に星が見えなくなるのは、ボクだって知ってる。

 なのに、母ちゃんはなんで叶わない願い事を書いたんだろう。


「そうだね、雨だね」母ちゃんは雨の音を聞きながら「でも、父ちゃんが帰って来る頃には私の願いが叶うと思うよ」と言った。


 父ちゃんは今日も仕事。寝る部屋のすぐ前が駐車場になっているけど、車が帰ってきた音はまだ聞こえない。いつも夜の七時くらいには帰ってくるのに。


「父ちゃん、今日は遅いね」

「外が真っ暗になったら、帰って来ると思うわ」

 母ちゃんはイスから立ち上がると、カーテンを開けて窓の外を見た。

「さてと」

 それから窓を開けてベランダに出ると、ボクから隠れるように外側からカーテンを閉めてしまった。

 ボクは起こした上体をねじりながら窓を見るけど、母ちゃんの姿はカーテンに隠されていて、ベランダで何をしているのか分からない。


 そういえば昨日、母ちゃんがベランダでせんたくものを干すときに、おりたたんだ黒くて大きな紙みたいなものを一緒に持っていってたけど、何か関係があるのかな?


 そんなことを考えていると、カーテンのすきまから母ちゃんが戻ってきた。ボクに窓を見せないように、カーテンでうまく隠しながら。

「雨ふってるのに、何やってたの?」

 母ちゃんは服と髪の毛が雨でちょっとぬれているけど、それを気にせず、

「愛斗に星を見せようと思って、魔法をかけたの」

 と答える。


 人は魔法を使えないんだよ。小学生のボクでもそれくらい分かる。

 なのに、なんで母ちゃんは魔法なんて言うのかな。


 ちょうどそのとき、父ちゃんの車のエンジン音が遠くから聞こえてきた。

 それを聞いた母ちゃんは「お!」と言って、少しソワソワし始めた。

 やっぱり今日の母ちゃんは、なんか変だ。いつもはボクになんでも話してくれるのに、今日は何かを隠してるみたい。


 父ちゃんの車がカーテンの向こうで停まる。でもエンジンはかかったままだ。

「さあ愛斗、今からたくさん星が出るよ」

「え?」

 母ちゃんがカーテンに手をかける。

 ボクはまた体をねじって、窓と母ちゃんを注意深く見る。

「よーし!」

 母ちゃんがカーテンを勢いよく開けた。


「え、なにこれ!」ボクは息を飲んだ。

 窓にはたくさんの、金色の星が輝いてる!

「すごい!」

 本で見た星空だ! 真ん中にオリオン座、左上にさそり座、右にてんびん……。たくさんあって分からないくらい! 「あ! 夏の大三角形も見える!」

 どの星座もくっきり分かりやすくて、本で見るより輝いて見える。

 それに、こんなに近くで星を見たのは初めて。


「どう? すごいでしょ?」

 母ちゃんはトランプでボクに勝ったときみたいに嬉しそうな顔をする。

「すごい! ねえ! 母ちゃんはどんな魔法使ったの?」

「秘密」

 なんだかとても楽しそうな母ちゃんの顔を見て、ボクは魔法の秘密を解き明かしたくなった。


 ベッドを抜け出して窓に近付く。

 一歩、一歩。もうちょっとで、星に手が届きそう。


 もうちょっとで、母ちゃんの魔法の秘密が分かるぞ……!

 しめしめと、母ちゃんの顔を見上げる。


 一歩、一歩。ボクが一歩踏み出す度に、母ちゃんの目が大きくなっていく。


「愛斗、歩いてる。愛斗が歩いてる!」

 あれ? ほんとだ!

「なんでだろ、母ちゃん。ボク歩いてる」


 一歩。ボクが窓に近付くと、母ちゃんも一歩踏み出して、しゃがんでボクをギュッと抱きしめた。

「愛斗、歩けるようになったのね! よかった! よかった!」

 母ちゃんの大きな声がボクの耳元でひびく。母ちゃんの涙でボクの首がぬれる。


 母ちゃんはいつもおだやかで、のんびり笑ってるような人なのに、今日はボクの知ってる母ちゃんじゃないみたい。これも、母ちゃんの魔法なのかな。それとも、魔法をかけたふくさよう?


 ボクが戸惑いながら母ちゃんに抱かれていると、後ろから父ちゃんの声がした。

 まだ車のエンジンはかかっているけど、車からおりてきたみたい。

「愛斗が歩いた!」

「ほんとか! 愛斗! よかったなあ!」父ちゃんがボクの頭をガシガシなでる。

「星も綺麗に見えてるし、今日は最高の七夕だ! 俺の願いも叶ったな!」


 母ちゃんと父ちゃんに挟まれたボクは、窓に映る星を見る。

 星のりんかくは、二人に挟まれてからぼやけて見えるようになった。だけど、もう少しで王子さまに会えそうなくらい、はっきりと、星は温かく輝いていた。


 ————


 僕はカレーに浮かぶ星型のニンジンを見ながら、昔のことを思い出していた。

「なに? 私が作ったカレーがまずいわけ?」

 固まっている僕を見ながら、冗談で高圧的な言い方をする母ちゃん。

「いや、帰省した大学生の息子に出すカレーに、星型のニンジンを入れる母親って……。ちょっとどうかと思って」

「嫌なら食べんでよろしい」

 僕は黙ってカレーを口に運ぶ。

 本当はもう少し辛口にしてほしいし、僕がいつ彼女を家に連れてくるか分からないんだから、星型のニンジンなんて入れないでほしい。でも、美味いので文句は言えない。

 ほら食べてるぞ、と意地になってスプーンを咥えながら、母ちゃんの顔を見る。

 母ちゃんは、いつぞやの魔法の時みたいに誇らしげな顔をする。

「今日は七夕だね」

「うん」

「短冊、作ってあるから。食べ終わったら書こう」

 僕が歩けるようになったあの日から、家族で短冊を書くのが七夕の恒例行事になっているのだ。


 カレーを食べ終わった僕と母ちゃんは、食器を片付けて各々短冊と向かい合う。

「母ちゃんは願い事、何にすんの?」

 僕の問いかけに、母ちゃんは書きあがった短冊を見せることで答える。

 短冊には「家族三人でハワイ旅行」と書かれている。

「オレはいいよ、ハワイなんて」

 父ちゃんも母ちゃんも、僕を大学に通わせてくれてるだけで精一杯のはず。父ちゃんは住宅ローンを返すために必死に働いているし、母ちゃんだって僕が大学に通い始めてからバイトを始めた。それなのにハワイなんて……。

 花瓶に刺さっている小さな竹の枝に短冊を括りつけながら、母ちゃんは僕を無視して「叶うといいなぁ」とつぶやく。

「愛斗の短冊は?」

「オレは……、もうちょっと考える」


 短冊を持ってリビングを抜け出し、自分の部屋に避難した。僕の部屋には介護用のリクライニングベッドが置いてある。昔は寝室に置いてあって、家族三人川の字で寝ていた。僕が中学生になってからは自分の部屋が与えられ、ベッドと一緒に移動してきたのだ。

 短冊を学習デスクに置く。椅子に座ってベッドを見ながら、昔のことを思い出す。

 あの頃はずっとベッドで寝ていたから、知らないことがたくさんあった。でも、知らないことを頭の中で補う想像力も無限にあって、広い世界を楽しんでいた。そこには夢があった。


 しかし今となっては、僕も大学生だ。世の中には夢だけじゃなくて現実もあるということを知っている。


 あの日窓に輝いた星だって、実際は母ちゃんが穴を開けた黒い厚紙を窓に貼って、その向こうから父ちゃんが車のハイビームを当ててただけなのだ。

 自動車学校で夜間運転教習をしているとき、そのからくりに気付いてしまった。


 それに僕が歩けるようになったのだって、奇跡なんかじゃなくて、僕の体がいつの間にか回復してただけだ。あの後お医者さんに診てもらったとき、そう言われた。


 昔と比べて現実を知った代わりに、想像力が乏しくなった気がする。でも実際、世界は案外狭いもので、何事にも裏があることを知っている。


 なんとなく毎年短冊を書いているけど、願っても叶わないことだってある。今の僕はそれくらい知っている。

 ……かと言って適当に願い事を書くのも、星好きな自分が許さない。

 だから、あんまり馬鹿みたいな壮大なことじゃなくて、現実的に考えて叶うか叶わないかくらいの願い事がいいと思う。

「何にしようかなぁ、願い事」


 短冊を書きあぐねていると、外で車のエンジン音がした。父ちゃんが帰ってきたみたいだ。

 僕は星を見にドライブへ行くために、父ちゃんの車を借りようと思った。短冊を書くのはとりあえず後回しだ。


 リビングに行くと、父ちゃんは煙草臭いワイシャツを脱いで部屋着に着替えていた。

「おう愛斗」

「父ちゃん、車貸して。ちょっと星見に行きたい」

「なんだよ、せっかく一緒に酒でも飲もうと思ってたのに」

 昔よりずいぶん数が増えた額のシワを寄せながら、父ちゃんはズボンのポケットから車の鍵を取り出した。

「そういえば、願い事書いたか?」

「まだ」僕は父ちゃんから鍵を受け取る。「ドライブしながら考えることにした」

「俺はもう、書くこと決めてあるぞ」

「何?」

「禁煙」

「無理でしょ」

「いやいや、俺はもう腹括ってるからな。それに、短冊に書いた願いは絶対叶うんだぞ」

 自信満々な父ちゃん。僕が冗談でワイシャツのポケットから煙草の箱を取り上げても、取り返そうとはしない。

 どうやら覚悟はあるみたいだ。果たしてそれが何日続くかは分からないけど。

 煙草の箱を返すと、父ちゃんは「あんまり遅くならないうちに帰って来いよ」と言った。

「あとお前、免許取りたてだろ。初心者マークつけろよ」

「車にあったっけ?」

「ああ、グローブボックスの中に入ってるから」


 キッチンでカレーを温め直していた母ちゃんも、リビングに出てきて僕を見送ってくれた。「運転気を付けて」

「はいはい」

 そんなに遠くへ行くわけでもないのに。大げさだな。


 煙草臭い車の運転席に乗った僕は、エンジンをかけて室内灯をつける。

「初心者マーク、初心者マーク……」

 グローブボックスを開けると、車検証などの書類に挟まっている初心者マークを見つけた。

「お、あった。……ん?」

 初心者マークを取り出すと、一枚の細い紙がひらりと助手席のシートに落ちた。

「これ、短冊?」

 裏返しになっている白い紙の裏には、かすかに文字が透けて見える。


 そういえば僕が歩いたあの日、父ちゃんは「俺の願いが叶った!」と興奮して叫んでいた。だけど、その願い事を書いた短冊をどこかに失くしてしまっていたらしい。

 父ちゃんは「願いは叶ったから」と言って探そうとしなかったけど、僕はその願いが何だったのか、毎年七夕の度に心のどこかで引っかかっていた。


 今見つかったのは、多分その短冊だ。

 父ちゃんの願い事は、果たして何だったのか。


 埃を吸ってザラっとした短冊を慎重に指でつまんでひっくり返す。

「ふっ、なんじゃそりゃ」

 そこに書いてある願い事を見た僕は、思わず吹き出してしまった。

 何の捻りもない、ありふれた願い事。

 だけど胸が少し温かくなって、父ちゃんと母ちゃんの笑顔が恋しくなる。


 ——これからも家族三人、笑顔で楽しく、幸せに暮らせますように——


 短冊にはそう書かれていた。真面目な父ちゃんらしい角ばった硬い文字で、短冊からはみ出しそうなくらい大きく。


「叶うんじゃん。願い事」


 僕は大人になって、奇跡は起こらないと知った。それに、星の王子さまだって、本当はいないのかもしれない。


 でも、願わなければ何も叶わない。行ってみないと分からない。


 何もかも分かった気になって、心からの願いを書くのが恥ずかしくなっていたのかもしれない。でも実は、僕の願い事はあの日からずっと変わっていないのだ。


 僕は「ほしにいきたい」。


 ドライブで星を見て帰ったら、短冊に願い事を書こう。


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