第6話 のあさん

「分かってるし! あんたがあたしに変なことしないか気にしてるから、体が強張っているんだよ」

(あぁ……お兄様と学校でも一緒にいられて幸せすぎて涙が出ます。あ、また鼻血も出そうです。我慢しなければ……)

「誰が妹にそんなことするかよ。自意識過剰なんじゃないのか」

「は? 兄貴女の子に興味無かったりする? もしかして賢者? 童貞? うわきっも」

(お兄様に自意識過剰と悪口を言われました。なんでしょうこれ。下半身から始まって脳みそに、感情のエレベーターに乗って一気に昇ってくるこの気持ち……快感でしょうか。あたし、お兄様に悪口を言われて快感を覚えている? 前からゾクゾクすることはあったけど、今日は隔絶です。あたしもしかして、変態さんですか? はぁ……はぁ、うひひっ、下腹部じんじんしてきた。あはは、お兄様専用のサンドバッグになるのも良いですね……お兄様が理不尽さに怒って生意気に振る舞うあたしのお腹をパンチして吐かせながらとどめにうざいよお前って言ってきて、あたしをめった打ちにしてボロ雑巾みたいにするの。そして最後には汚物を見るような目で見てきて……うふふ、あはは、妄想が止まらない。あたしお兄様のサンドバッグになってみたい。どうしよう、このままじゃ本当に変態さんになってしまうかも……。うぅ、なってみたいって欲求が止まらない。人間がこんなこと考えるって、いや、あたしお兄様の所有物だから自分が人間って考えるのおかしいですよね。あたしは、お兄様の奴隷。ううん、所有物。ご主人様の道具。うひひっ、あはは、良い、それすごくいい! もう、最高! あっははははははは!!!!!)

「……酷い言われようだな」

「ふん、賢者気取ってる童貞きも兄貴なんだからこのくらい言われて当然でしょ」


 表向きこれまで通り、喧嘩に片足突っ込んだ会話劇を繰り広げるが、オレは妹がマゾに目覚めたことに内心動揺している。

 彼女は自分をオレの所有物だと定義し始め、さらに妄想の世界でオレに罵倒されて悦んでいるらしい。

 さっきまで普通に話していたはずなのに、いつの間にか彼女の瞳からは光が消え、うつろになっているように感じる。


「あぁ、こんなバカな兄貴と話してたら脳が腐っちゃう。兄貴のせいであたしまで変態だと思われちゃうじゃん。責任取ってよね。今度あたしの頭撫でたりしたら許さないから」

(はぁ……お兄様があたしに優しくしてくれればくれるほど、あたしの心は黒く染まっていきます。お兄様があたしを甘やかすから、いけないんですよ? お兄様に頭をなでられるたびに、もっとして欲しくてたまらなくなる。あ、だめ、想像しただけでまた鼻血出そう。ティッシュ、予備の分も買わなくちゃ……)

「次からは気を付けるよ」


 杏里はいつものようにオレに怒りつつ、どこかに行ってしまう。頭上の好感度は140に上がっており、気が落ち着いた時に下がる以外は全く下がる気配が無い。悪口を言ってしまっても上がるということは、おそらく下がることはまず無いことを示している。

 妹と話している間にお弁当を食べ終えたオレは、杏里のことを気にしながらも、授業に遅れてはならないと怠惰な体に言い聞かせながら教室に向かうことにした。


「英二くん、なんか変な臭いがするよ」


 教室に入るなり、たくさんの友人と話していたのあさんが彼ら彼女らとの会話を即刻打ち切り、オレのところに駆け寄ってきた。

 彼女の好感度が115に落ちるが、嫌い始めたというよりはただたんにオレからする臭いとやらを不快に思っているようだ。


(田中杏里……英二くんの妹であるあのメスの気持ち悪い臭いが彼を毒しているんだ。あの生意気な妹、英二くんを嫌っているくせに粘着質な絡み方して気持ち悪い。英二くんが迷惑しているし、早めに排除して彼をあの頭のおかしい女から救ってあげないとだね)


 その臭いの正体はのあさんの思考を覗くとすぐに判る。彼女は匂いの正体を杏里と即座に見抜くエスパー能力を発揮していた。のあさんの抱く杏里への印象は、それはもう酷いものであり、虫を見るようなものに近いと思われる。


「そんなに臭うか?」


 自分では全く分からないが、のあさんはオレに顔を近付けるたびにそれを顰めている。


「うん、ちゃんと臭いを取った方が良いよ」

(あんな女の臭いを纏っているって考えただけで耐えられない。私の成分で上書きしないと)


 のあさんは自身の鞄から香水の入った瓶を取り出し、オレに差し出してくる。瓶は女の子が好きそうなお洒落な造形をしており、中には透明感のある綺麗な液体が入っていた。


「これ、使ってみてよ。きっといい香りになると思うよ」

「……ありがとう、のあさん。使わせてもらうよ」


 オレはのあさんから受け取った香水を自分の腕に軽く吹きかける。すると、のあさんから香るのと同じ、柑橘系の爽やかな香りが周囲に漂った。


(あぁ、良い感じ……英二くんから私と同じ香りがする。うふっ、嬉しいな。同じ石鹸を使って体を洗って一緒に寝たいくらいだよ。でもダメ、私は英二くんの彼女になりたいけど、まだ計画はその段階に達していないの。今日の午前中はフライングしかけたけど、私の計画は大学を卒業してから始めるって決めているのだから)


 彼女は権力を手に入れてからじっくりと外堀を埋めてくるという、実に彼女らしい堅実な方法でオレを落としに来るつもりなようだ。彼女なら有名企業の秘書くらいには軽くなりそうだし、そうなる未来は彼女の場合に限っては現実的になるだろう。


「どう? 良い香りでしょ」

「そうだな。とてもいい匂いだと思うよ」

「良かった、気に入ってくれて嬉しいよ」

(うぅ……緊張した。こんな風に二人っきりで話す機会なんてあまりないから、ちょっとドキドキしちゃったよ。今はまだ友達だけど、いつか絶対に恋人になってみせるんだから。そのためにはまず、私が彼に告白できるような強い女性にならないと……)


 オレは彼女と友達のつもりではなかったが、彼女からするとそこまで進展しているらしい。オレが香水を返すと、のあさんは瓶をペタペタとねちっこく触った後、元々入れていた鞄に放り込んだ。


「ねぇ、今日は帰り道にどこか寄らない? この前オープンしたカフェがあるんだけどさ。お友達としていつか誘いたいと思っていたんだけど」

「ごめん、この後用事があるんだ」

「そっかぁ……残念」

(せっかく英二くんと一緒に帰ろうと思ったのに。まぁ、仕方ないか。彼にも都合があるし、それ以前に彼の言うことは神の言葉でもあるから従わなきゃだからね)


 納得の仕方がおかしいけど、とりあえずのあさんと二人きりになる状況は避けられた。

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