トラブル・イズ・マイ・ビジネス

犬童

トラブル・イズ・マイ・ビジネス

 一




 かれがそのエレベーターに乗ると、眼前の扉がぴったりと貝のように閉まる。そして独特の浮遊感が足元から纏わりついてきた。少し待ちながら視線をやれば、エレベーターの階数表示は順調に上昇していることを示している。約束の階数を脳裏で思い出しながら、かれは安っぽいが今のじぶんに出来る一番フォーマルな服装を俯き見た。


 だらしないという印象はないが、いささかくたびれているという印象はあるように思える。なにせかれはまだ21で、仰々しい場所で立派な人間と会見するにはあまりにも若すぎた。急遽用意した服装もそんなことだから、あまり様になっているともいえない。しかしかれは実際的な人間だったし、物怖じするようなこともない性質だったからこれで怯んでしまうということはないだろう。歳に似合わない疲労した輝きの瞳を細めながら、目的の階に到着したことに気づく。高い機械音が鳴って目の前の扉が自動的に開かれた。


 それなりに格式のあるホテル。廊下や調度品も一見したかぎりでは汚れなどは見当たらない。辺りに視線を向けながらかれは廊下へと出るとかれの上司である、バドリーから教えられた部屋の番号を思い出した。絨毯が敷かれた廊下を右に進むと、固く閉じられた扉の前で立ち止まる。部屋番号は一致していた。かれは衿を整えると拳を作って扉をノックする。一回目では返事がなく、二回目を試みたときに初めて向こう側から声が返ってきた。


「ミスタ・キプリングの使いかね」


 どこか名状しがたい不快感を与える声調に、かれは少しだけ眉を顰めながら答える。


「ええ、かれの部下です。フーバーといいます」


「なるほど。今開けるよ」


 扉が開かれ、中から人影が浮かび上がる。かれの第一印象はカエルだった。妙に大きくてギョロギョロとした眼つき、腹はぷっくりとビール腹で、そしてなによりも唇が醜いぐらいに大きくて厚かった。自己主張をしすぎるそれにいささかの嫌悪を覚えながら、かれはじぶんより身長が低い男を眼下に声をかけた。


「ベイカー・オールズさんですね」


「うん、私がオールズだ。よく来てくれた、さあ入りたまえ」


 かれはいよいよカエルの鳴き声に似てきたと感じられる声でフーバーを招き入れると、堂々とした体躯のかれを見上げてにやりと笑みを漏らした。


「歳はいくつだね」


「21です」


「驚いたな。もう少し上じゃないかと思っていた。カレッジに通っている歳だよ」


「生憎のところ、行く機会には恵まれませんでしたので。すいませんが、お話を」


 笑みを湛えるかれに愛想笑いをこぼしながら、フーバーは部屋の中を観察した。一般的なホテルの一室というところだ。よくベッドメイクされたシングルベッド、中央にはテーブルと向かいあわせでソファがある。バルコニーに出るための窓の側にはカウチもあった。かれの私物といえるものはベッドの側に置かれているアタッシュケースと、テーブルに置かれているタバコの箱ぐらいのもので、不自然すぎるくらいに整理されているように思える。


 かれは勧められるがままにソファの一つへと腰を下ろすと、今まで見えなかった位置にどこか白っぽく長いものが巻かれているのが見えた。よく眼を凝らして見れば、それは丸められた絨毯だ。素人のフーバーにもどこか妖々しい印象を与える美しいもので、その視線に気づいたオールズは顔を一層笑みに歪めた。


「絨毯に興味があるようだね」


「ああ、いえ。失礼しました。話を促したのはこちらなのに」


「いやいや。気にしないで結構。それよりも美しいだろう」


 かれはそろりと絨毯に忍び寄って、その表面をゆっくりと丹念に撫でた。そんな様は愛おしいと形容されるかもしれないもので、ちょっとした怪訝さとかれのような男がもたらすグロテスクさが、奇妙に混ざり合った感覚をフーバーにもたらしていた。そのような情景はともかくとして、かれは絨毯自体は美しいと感じていて、少しだけ喉に言葉を詰まらせながらも正直に言葉を話した。


「確かに。素晴らしいものですね。どこで手に入れたのですか」


 素朴な疑問を聞くと、カエル男は妙に神秘的な輝き――それは純真さとも老獪さとも取れる不思議なもので――を瞳に映してフーバーの言葉になにやら小さな、子供っぽい笑みを。もったいぶっているのかとフーバーは少々不愉快な思いにさせられはしたが、だからといって沸点に至るほど短気ではないつもりだった。かれは答えてくれない相手に向けて肩をすくめると、仕事の話をしようと手振りで促した。


「上司から概要は伝えられています。あなたを追跡する人間をなんとかしてほしいと」


「うん、間違いないね。ただしそいつらはただ追ってくるだけじゃない。命を狙われてる」


 かれはテーブルの箱から一本のタバコを抜き出すと、懐から出したライターで火を点けた。紫煙が辺りに漂い始め、空気が仄かに緊張をはらんだようにフーバーは思った。かれは相手に聞こえない程度に唸りながらなにごとかを頭で組み立てていく。それをじっと見つめながらオールズが二本目のタバコに手を出したところで、ふとフーバーが言葉を口に出した。


「追手は殺し屋ですか」


「一回襲撃を受けたことがある。すぐに逃走したがね。なんだか動きにばらつきがあったようだった」


「というと、人数は分かりますか」


「どうだろう。仕掛けられたときは二人いてね。逃げ出したときに追加で一人を見たよ」


「となると三人は確実にいるわけだ。武器などは?」


「そこらへんはよく分からない。ただ黙って死を待つつもりはなかったよ。その内の一人がいるんだが、こいつがとろい野郎でね。奴のアジトだけは分かってる。私をこのフィリップス市まで追いかけてきたんだ。たぶん、ほかの二人もいるんじゃないかな」


「なるほどね。ではあなたの依頼はこの三人をうまい具合に片付けてほしいというわけですか」


「そうだ。だからこそキプリングさんにお願いしたんだ。本人は来れないのかな」


「重要な案件がありまして。ただじぶんでいうのもなんですが、荒事の解決に関してはかれに負けているつもりはありません。安心していただいて大丈夫です」


「君は歳相応じゃないね。身のこなしもなかなかで隙がないし、なによりもその殺伐を押し隠した眼がいい。そういうのは大好きだ。若いのにいい」


「それはどうも」


 仄かな皮肉さを込めて、フーバーはかれに礼をいう。対するカエル男はその言葉に動じた様子も見せず、ただニッコリと微笑んだ。


「ではさっそく男のアジトを教えていただけると助かります」


「やってくれるかね」


「俺はその判断をする立場にはいませんから。キプリングにやれといわれればやるまでです」


「実に頼もしいな」


 カエル男は中ほどまで来たタバコを灰皿に押し付けながら、口から紫煙を吐き出した。瞳はリラックスした感じを宿しているようにフーバーは思えた。さきほどからちらちらと絨毯のほうに視線をやっている。よほどそれが大事なのだろう。無邪気な執着というべきか、幼児がじぶんの大切なものを誰かに盗られまいとしているようなものだった。フーバーは一瞬そんな光景を脳裏に思い浮かべて、そのあまりの悪質さと不気味さに慌ててそれを振り払った。いい想像ではない。少なくとも精神衛生的に考えては、確実に。


 カエル男、オールズは懐から一つのメモ帳を取り出すと、そこにさらさらとなにごとかを書いてすぐに一枚を綺麗に破った。じぶんの眼前にまで持ってきて、ふむと首肯するとかれはその一枚のメモをフーバーのほうへ渡す。フーバーが手に取るとそこには確かに住所が流暢な筆致で記述されていた。


「ヴァニラ・ポイント、シールズ・ストリートのグレイロー・モーテル。スキンヘッドの黒人」


 カエル男が歌うようにして紙の内容を言葉に出した。フーバーが視線をやり、軽く頷く。カエル男はただ微笑みを返して対面のソファから緩慢に立ち上がった。醜い唇が今ではどこか気持ち悪くも、一抹の親しみを感じさせるようにフーバーは感じた。かれも腰を上げるとありがとうと礼をいって場を立ち去ろうとする。と、オールズが不意に握手を求めた。


「君ならやれると思うよ」


「確かな自信はありますが、慢心はしないつもりです」


 その言葉を聞くとカエル男は下品な笑い声を漏らした。フーバーはこのいくらか奇妙な依頼人をいつの間にかそれほど不快に思わなくなったじぶんに気づくと、少しだけ眉をしかめた。かれは別れを交わし、部屋から出るとエレベーターへと向かった。頭にはかれの容姿の劣悪さと比例するような絨毯の存在があった。それは雨に濡れた蜘蛛の糸のような艶やかさがイメージとして貼り付き、そしてなによりもわずかだが確かな不快感があった。




 二




 かれは自前のオンボロ車に乗り込むと、さっそく目的地へと向けてエンジンを始動させた。ホテル前のグリーン・ストリートを北上してそこから西南へと斜めに貫く五三番ハイウェイをひたすらに突き進んだ。車載ラジオからは愚にもつかないような安っぽいロックが流れ、行き交う車輌にはのんたりと進んでいるものもあれば、敵意を持っているかのように攻撃的な運転をするものもあった。


 二〇分も車を働かせるとヴァニラ・ポイントに入る。何の変哲もないストリートの風景に、ときたま褐色の肌でガラの悪そうな男たちが映った。カーザの一味かもしれないとフーバーは茫洋に考えた。最近は市に君臨するファミリーの力が衰えて、他の場所から犯罪者たちが流入してきている。かれらの中でももっとも組織立っており、なおかつ強力なのがカーザだった。かれらはファミリーの保守的な様相とは違い、目的のためならばなんでも利用して、なんでも取り入れる。柔軟だ。そのうえでかれらひどく残忍だった。かれらの報復行動は常軌を逸していて、ファミリーでさえ持て余す始末なのだ。


 フーバーは裏社会で荒事屋のような生業をしている以上、このような変化にはかなり敏感だった。かれらはファミリーとも新参のカーザとも戦争などしない。もともとの地力が違う。だからそれに乗っかる形でこの市を生きている。かれらにとって勢力圏の争いは、じぶんたちにも関係してくる出来事であり、だからこそ無関係ではいられないのだった。ヴァニラ・ポイントは治安の悪い地区ではないが、それでもカーザらしい構成員が眼に付くのは、あまり宜しくない状況ともいえた。


 フーバーは目的地のシールズ・ストリートに車を乗り入れると、視界にモーテルの看板と駐車場を認めた。奥には二階建ての平凡な建物がある。かれは車を駐車場に乗り入れると、さっそく降りてモーテルのフロントまで歩いた。扉を開けると、記帳とベルがカウンターに乗っかっているのが見える。椅子には気の弱そうな中年男性が座っていた。フーバーはカウンターの前まで歩きながらかれに声をかける。


「ちょっといいですか」


「はい?」


 中年はいささか気だるそうに、しかしそれでも愛想よく答えた。フーバーは笑みを上手く作りながらいった。


「ここにスキンヘッドの男が来ませんでしたか。黒人の」


「ええ、宿泊していらっしゃいますが。なにか」


「かれの友人でして。電話がどうも繋がらない。だから直で来たってわけなんですが。部屋の番号と、を教えていただいても?」


「いや、そりゃあ別に悪いってこともないですが。あとで色々と揉め事が……」


 フーバーは待ってましたとばかりにポケットに手を入れる。財布を取り出して中から数枚の紙幣を指に巻くと、それを中年の胸ポケットに入れた。中年男性は一瞬鳩が豆鉄砲を食ったようにぼうっとしていたが、事態を理解するとうんと一回頷いてささやくようにいった。


「一階の二三八号室です」


「車も教えてもらえるかな」


 中年は少しだけ眉をひそめると、振り切ったように車種と色をつぶやいた。


「どうもありがとう」


 フーバーはさっそくフロントを出ると目の前に横たわるL字型のモーテルへと進んでいった。慎重に、それでいて迅速に一つずつ部屋を確認していく。そしてついにモーテルの部屋も終わりに差し掛かったときに目的の部屋を見つけた。かれは一旦辺りを見渡す。すぐに視界から過ぎ去ってしまう車以外に人の気配はなかった。


 懐から布に包まれた金具を取り出す。布を取り払うとまるで手術道具のようなそれを鍵穴に突っ込み、両手を使っていじくり回した。数分したあと、やっとかちりと歯車が噛み合うような音が漏れ出る。


 かれはまた道具を布に包んで懐にしまうと、今度は腰の右側に挟んであるものを抜いた。小型のリヴォルバー。六発装填されたそれを右手に、かれは左手でそうっと扉を開けた。中は暗い。短い廊下の先にリビングがあるようだった。加味してテレビの音声も聞こえてくる。


 かれは地を這う蛇のようにするりと部屋の中に潜り込むと、静かな足取りで廊下を進んでいった。右手に持った銃を心持ち上げながら、廊下の壁に背を添わせる。そうして壁から顔を出すと突き当りにシングルベッドがあり、自身とその中間にソファがあってテレビがあるのが確認できた。テレビは昼の刑事ドラマを流している。


 ソファに誰かが腰を下ろしているような気がして、かれは数歩前へ進んだ。リヴォルバーを構えながらソファに思い切り蹴りを入れる。あっけなくソファは倒れ、そこに沈んでいたものも一緒に崩れ落ちた。それは長い枕だった。


 かれがはっと気づいた途端に、背後から荒々しい喊声が響き渡る。咄嗟に背後へと振り向くと映り込んだ何者かが黒いものを振り下ろした。悪態を付きながら思わず後ずさるが、手に持っていたリヴォルバーが弾き落とされる。


 何者か――はっきりとフーバーは視認する、黒人のスキンヘッド。筋肉に包まれた体躯を青いシャツで包んでいる――はわめき声をまき散らしながら手に持った鈍器をフーバーに投げつけると振り落とされたリヴォルバーに飛びつこうとする。フーバーは鈍器を避けると前へと走って飛びつこうとする男の身体をローキックで蹴りあげた。


 うっという短い音とともにかれは瞬時に拾い上げるのを諦め、こちらへと勢いを保ったまま突進してくる。これにフーバーは絡まれ、重力が上空から落下してくるのを感じながら、背に衝撃を感じた。かれは仰向きになって地面へと倒れこみ、上にスキンヘッドが馬乗りになる。スキンヘッドが両手を使ってかれの首に両指を食い込ませた。


 こなくそとばかりに脇腹を殴りつけるが、一瞬痛みを顔に感じさせただけでまったく動じない。フーバーは急激に酸素が遮断されるのを知覚する。かれはなんども拳を脇腹に叩きつけた。スキンヘッドは力を緩めない。顔が膨らんでくるように感じて、頭が働かなくなる。


 苦しみのあまりかれの眼は血走り、顔が紅くなっていった。かれはもう一度だけ握りこぶしを作るとそれをなんとか持ち上げる。それをスキンヘッドのこめかみに狙いをすませて、放った。予想以上の強さで頭部を殴られた男は一瞬眼を白黒とさせると両手の力を緩める。咄嗟にもう一度殴りつけると手が離れた。


 耳障りな咳をしながらフーバーはすぐに抜け出ると、今度は野獣のような獰猛さを顔に浮かべる。まだふらりとしている相手を尻目に立ち上がると、思い切り顔を蹴った。スキンヘッドがよろめく。かれの耳を掴むと近くにあった木製のチェストへ顔面を叩きつけた。一回、二回。次第にかれの面貌が歪み、顔が血まみれになる。


 それでも足りぬと両耳を掴んで膝を叩きこむと、スキンヘッドはすでに戦意喪失してうめき声をあげていた。かれは辺りを見渡して落ちていたリヴォルバーを拾い上げると、それをかれに向けて語気も鋭くいう。


「いつまでもグズグズやってんじゃねえ。ツラを見せろ」


「……クソッたれ」


「なんだって」


 容赦せずに脇腹を蹴り上げる。悲鳴をあげた男を卑しい笑みで睨めつけると、すぐにもう一度いった。


「なんだ。遊んで欲しいのか。もう一度やりましょうよ、おっさん」


「やめろ! 言うとおりにする」


 男は血まみれの顔面をフーバーに向けた。フーバーは一度大きく首肯すると問う。


「俺が見えるか。この相棒も」


 リヴォルバーとかれの顔に視線を交差させながら男が頷くと、かれは銃口を向けたままソファを元の位置に戻し、かれに座るよう促した。男は力ない足取りでよろめきながら、やっとソファへと腰を下ろす。それを見下したままでフーバーが問うた。


「うまい具合にやれたと思ったんだろ」


「いきなり来やがって。刺客なんだろ。すぐに分かったさ」


「そうさ。お前はクズのノロマだ。最低のアホさ」


「どうとでもいいやがれ! 要件はなんだよ、坊主」


「貴様はどうしてオールズを狙うんだ」


「ふん。仕事さ」


「誰から受けた」


「……カマ野郎。掘られちまえ」


 その言葉を聞くとフーバーは黙って銃床で男を殴りつけた。男が弱々しく部屋の床へと血だらけの唾を吐き捨てると、フーバーは銃口を額へと押し付ける。


「俺はぐだぐだ親切になんかしたりしねえぞ。殺るといったら殺る」


「富豪だよ! 気前が良いやつだ。なんだか知らねえが、あのカエルのオールズはとんでもねえことをやらかしたのさ」


「ふうん。で、仲間は何人いるんだ」


 途端にスキンヘッドは顔貌を上げた。その顔には不敵な笑みと反抗的な眼があった。


「おい、クソガキ。舐めんじゃねえぞ。仲間は売らねえ」


「そうかい」


 フーバーは男の懐に手を入れると、革の感触を受けて財布を取り出す。折りたたみ式のそれを二つに開くと適当にカードや免許証などを放り出し、そしてあるものを見つけた。かれの顔が邪悪なものに歪む。男は怪訝そうに見つめていたが、不意にフーバーがあるもの――女児とそれを抱きしめる母親――を取り出すと表情を一変させた。かれの顔付きが蒼くなっていくのをしっかりと視認しながらフーバーはいった。


「あんたの奥さんか。美人だね。子供も可愛いな」


「違う」


「名前はなんていうんだ。ジェシー? いや、ローリーかな」


「やめろ……」


「こういう笑顔が眩しい女の子を好きな人間もいるんだぜ。思いっきり穢してやりたいと思う下衆な人間もね。厭な世の中だよな。でも仕方ない。新しい奥さんを見つけろよ、もちろん子供もな。もう二度と会うことなんてないだろうからさ」


「やめてくれ!」


 慟哭のような悲鳴をあげた男に、フーバーは笑いかけた。写真をまた財布に戻すと死人のように蒼ざめた顔の男に視線を合わせる。その眼は俺は本気でやるぞという悪魔めいた確信を湛えていた。男は唸りながら黙ってかぶりを振ると搾り出すようにしてささやいた。


「二人」


「なんだって?」


「二人、俺も含めて三人だよ! クインとマッキネン。そしてロス」


「ロスがあんただな。クインはどういう奴だ」


「女だ。ゴツいショットガンを持ってる。あんまり喋らねえ」


「マッキネンは」


「あんた死ぬぜ」


「家族は大事じゃないんだな」


「クソッ! マッキネンはスカした野郎だよ。だがな、恐ろしい奴だ。拳銃の扱いがすげえ巧いんだ。あいつ五〇メートルの距離からマンターゲットの額にぴったりと当てやがった」


「おい、そいつについて他になにかないか」


「マッキネンか。いや……ただクインが裏の世界じゃそれなりに有名なやつだって」


「……スリーショット」


「あ?」


 途端にフーバーの表情が岩のように硬くなった。強張った顔からは並々ならぬ緊張と決意が見て取れる。かれは引き締まった唇を静かに開いて続けた。


「マッキネン・“スリーショット”。なるほどな。あんたの雇い主は本気でカエル男を殺りたいらしい」


 かれは最後に男を殴りつけると、リヴォルバーは懐に収めて男の部屋から出て行った。背後から苦しげなうめき声が聞こえてくる。扉を後手に閉めると、視線をめぐらして黒のセダンを見つければ、かれはじぶんの愛車からなにやら小さい装置のようなものを取り出して、セダンの車体の下へとくっつけた。


 かれは愛車に戻ると扉を閉めて獲物を狙う荒鷲のように男の部屋を見つめる。数分すると額から血を流した男が慌ただしく部屋を出てきてフロントへと向かう。そうやってもう一度戻ると十分もしない内にデイバッグをもった男が出てきて、かれが装置を仕掛けた黒のセダンへと向かった。


 セダンのトランクにデイバッグを放り込むと男はセダンを急発進させる。フーバーは手元の装置と連動させた携帯端末を見ながら、愛車のエンジンを始動させた。男はシールズ・ストリートを道なりに前進。モーテルから二ブロック先で右折する。フーバーもそれに一台を挟んで付いていった。


 次第に道は北西の方向へと進み、ついにはアンサス橋を越えてデューク・ヴィレッジへと進入する。途端に周囲の景色が古ぼけてきて、活気が無くなっていった。ヴィレッジに入ってからは男のセダンを二回ほど見失ったが、フーバーは端末のGPSを頼りに男を追跡し、ヴィレッジの外れに至る頃には男のセダンをはっきりと確認していた。


 そのままフーバーが追跡していると男のセダンはミラド・ストリートで速度を緩める。セダンはストリートの横道へと車を左折させると、道を進んでいった。フーバーは車をストリートの路肩に駐車させると端末を眺める。横道の先は小さな広場があって行き止まりだ。


 フーバーは車から降りると先ほどセダンが中へと入っていった横道を進む。すると周囲をコンクリートの塀で遮られた場所へとたどりついた。土が剥き出しになっている場所からは雑草が低く軒を連ねている。黒のセダンはある廃ビルの前で止まっていた。ちょうど後ろから男がデイバッグを出して、足早にビルの内部へと入るところだ。


 フーバーはそれをきっちりと確認すると、小さく首肯してストリートへと戻っていく。車に乗り込むと端末の機能を切り替えて誰かに電話をかけた。


「レイか」


「ええ、俺です。バド。追っている連中の一人から情報を聞き出したんですが、ちょいっと拙い奴が向こうにいまして」


「誰だ」


「スリーショットです。マクウェルのジェイコブ・シザーに三発ぶち込んだ奴だ」


「キザな賞金稼ぎか。お前の腕でどうにかできると思うか」


「どうでしょう、バド。スリーショットは場慣れしてますし、拳銃の腕もいい」


「だが、お前ならやれるはずだと俺は考えている。他にまずい奴はいないんだろう」


「ええ、聞き出したかぎりでは」


「ならやれ。必要なら応援を寄越してやるが、まずはお前がやってみろ。証明するんだ。お前がただの落ちぶれ野郎ではないってことをな」


「……了解です。やってみます」


「注意深くやれ。相手はプロだ」


 そういって通話を切られると、レイロッド・フーバーは掌に滲む汗を感じ取りながらも唇を強く噛んだ。かれがやらなくてはならないのは明白になっていた。生きるか死ぬかはコイントスのようなもので、用意周到な人間こそがこの勝負で勝つことができる。


 バドリーは決して甘い見通しをする人間ではないことをフーバーは知っていたし、かれがいうからには勝機が見えないということではないのだろう。かれは強い意思を示した瞳を一旦まぶたで塞ぐと、次に開いたときにはすでに車のキーを回していた。




 三




 フーバーは一度ミラーズ・アイランドにある自身のアジトへと戻るべく、車を発進させていた。ヴィレッジをひたすらに東進すると、やがて寂れた町並みは徐々に変わっていき、代わりに明るい色合いの落ち着いた建物が広がっていった。ミラーズ・アイランドに至ったかれは中心部目指して車を進行させると、そこで右折。今度は南進しシャロン・アヴェニューに入る。そうすればネイソン・ストリートの一角にかれのアジトが見えてきた。


 古ぼけながらも堅牢な造りのアパートメントだ。かれは横道に逸れると車を駐車場に停め、アパートメントの中に入っていく。まめに清掃されていると思われる階段を昇りながら、三階に到着した。廊下を少し進むと懐からキーを取り出して、眼前の扉へと差し込む。扉が開いて中から自室の安心感がかれに纏わりついてきた。


 部屋に入るとすぐに洗面所へと行き、顔を水で洗う。ふとフーバーが顔を鏡で見れば、そこにはいくらか表情を蒼くさせている男がいた。かれは荒々しく頬を叩くと気合いを入れるようにして唸り声をあげる。緊張は必要だが、臆病者にはなりたくはなかった。かれはタオルで顔を拭くとリビングを通りすぎて寝室へと向かう。


 壁に設置されたクローゼットの一つを開き、鬱蒼としたコート類を避けながら奥の取っ手に指をやった。そのまま力を入れるとクローゼットの仕切りが横にスライドする。中にはぼんやりとした人工灯に照らされたガンラックがあった。一つに手をかけて肌触りを確かめる。硬質だが手に吸い付くような感覚を覚えた。


 かれは上着を脱ぐとホルスターをリヴォルバーごと取り外す。そうした後にラックから九ミリのオート・ピストルを掴み、弾を込めたマガジンを詰めると同じくラックにあったヒップホルスターに差し込んでそれを腰に巻いた。フーバーは改めてラックを眺めたあと、ラックに架かっていた散弾銃の一つを取り出してベッドに放り、下部にあった一二ゲージバックショット弾の箱と散弾銃用の弾帯を持った。


 すでに弾が収まっている弾帯を身体に括りつけ、その上から厚手のコートを纏うとそのポケットに箱からショットシェルをありったけ押しこむ。偽装用に散弾銃を長方形のバッグに押し込んで、コートの前を閉めた。準備は出来た。スリーショットと殺り合うにはこれでも不安なくらいだったが、まさか戦争を始めるような重装備で向かうわけにもいかなかった。


「どうにでもなるさ」


 小さく呟くと皮肉げに唇を歪ませて、かれは仕切りを元に戻す。バッグを抱えて部屋から出ようとすると、コートの懐に入れた端末が無機質なバイブ音とともに唸りをあげる。誰からの電話かとバッグをベッドに置き、画面の表示を見た。途端にかれの顔が強張り、そして忌々しげに表情が変遷する。かれは毒づきながらも通話ボタンを押した。


「……なんの用だ」


「ずいぶんなご挨拶じゃないか、ええ? フーバーくん」


「金はもう支払ったはずだがな」


「そう直裁的になるなよ。世間話なんてのはどうだい。君のスウィートハートについて」


「ふざけてるのか。切るぞ」


「半分でいいから持って来い。臨時徴収だ。時間を買え」


「……今は忙しい」


「いうことを聞けよ。若造。私の機嫌は損ねないほうがいいぞ」


「クソッ。ああ、時間を買うさ」


「素晴らしい。では待っている」


 かれは端末を今しも叩きつけたいような視線で睨みつけると、すぐに懐にしまって準備を始めた。部屋の片隅にある金庫のロックを開けて札束を一〇つほど取り出すとがらんとしたスーツケースに入れる。


 かれは箱を抱え直して部屋から出た。鍵を閉めると車へと向かい、トランクに箱を放り込む。スーツケースは助手席に置くとじぶんは運転席に乗り込んでキーを回した。車を発進させる。ストリートを北進して、シルバー・ベイに向かった。丘の上にある高級住宅地だ。フーバーは苛々としながらハンドルを握っている。よほど先ほどの相手を嫌っているようだった。かれはシルバー・ベイに向かうにつれて何か大事なものを押し潰されているような心地に迫られる。


 大事なことだった。思い出しながらかれは脳裏で呟く。苛々とした思いを抱えながらも、そこには一抹の痛ましさと繊細さがあった。シルバー・ベイの中でも深奥のほうまで車を進める。辺りはまさしく屋敷と呼ぶに相応しいものばかりで、ときたまにすれ違う高級車のドライバーや歩行者からは怪訝そうな視線と軽蔑を向けられた。こんな場所をオンボロ車が走っているのだ。かれらからすれば不愉快で不思議なことだろう。


 かれはその中でも一角に目標の屋敷を見つけると愛車を滑らせて、正門の前まで来た。サングラスに黒服のいかにもな男たちが油断のない物腰のまま、こちらをじっと眺めている。かれらの内の一人が耳のインカムで誰かと通信していた。


 少しすると正門が内側に開かれる。かれは黒服たちの視線を受けながら屋敷の正面に移動すると、車寄せの一つに愛車を駐車した。スーツケースを片手に持ちながら運転席を出ると黒服の一人にボディチェックをさせられる。腰のホルスターから九ミリオートを抜き取られた。フーバーは仏頂面のままで一人に案内されて、屋敷の中へと入る。


 フーバーの拙い知識でも理解できるような素晴らしい調度品が並んでいた。かれは絨毯を踏みしめながら案内に沿って二階へと昇ると、廊下の突き当りまで歩く。案内の男がノックをして入っていいかと聞いた。打って鳴るように向こう側から声が響いてくる。


「入りたまえ」


 黒服が扉を開けた。フーバーは注意深さを保ちながら部屋の中へと足を進める。すっきりとした感じの応接室だった。おそらく高級木材で作られているだろう家具を必要最小限にまとめている。これだけ見れば成金趣味を忌避する人間にも見えないこともないが、窮極のところはそういう気質の持ち主なのだとフーバーには分かっていた。中央のソファに男が腰を下ろしている。中年だ。肩幅は広く、がっしりとしている。座高も高かった。男のかんばせには人の警戒を解かせるような笑みが浮かんではいるものの、その背後にある飢えた野心家の正体を知るものにとっては、それは悪魔の微笑みでしかなかった。男はフーバーを一瞥すると肩を竦めて、向かいのソファに座るように促した。フーバーは不機嫌そうな表情を崩さずに堂々と歩いて行くと椅子へどっしりと腰を落ち着ける。かれはいった。


「金を持ってきたぞ、ビッグ・ジョン」


「素晴らしい。いうことを聞く人間は大好きだ」


 スーツケースを長テーブルの上に置いた。男――ビッグ・ジョンは笑みを湛えたままでケースを開けると、中の札束を素早く数える。フーバーはそんな様子を無表情に睨めつけていたが、かれの計算が終わるといった。


「それで? 満足したのか」


「ああ、それなりにはね。なけなしの金をどうもありがとう」


 かれは一層笑みを深めながら机のシガーケースから一本を取り出すと、同じく付属していたシガーカッターで片方を切り落とし、マッチを擦った。ビッグ・ジョンは紫煙を愉しみながら薄く眼を細めてフーバーを見た。かれはいった。


「……会いたいだろうな?」


「俺は時間を買ったんだ。さあ、目的のものをよこせよ」


「お前は本当に面白いよ。暇つぶしには最適だ」


「趣味が悪いし、幼稚だな。子供からおもちゃを取り上げて愉悦に浸るとは」


「一つ教えておいてやろう。金持ちというのは別に精神的に優れているわけではない。ただ金の匂いを感じ取る一種の嗅覚があるだけなんだよ」


「ご高説をどうも。じゃあいいかな」


「好きにしろ。時間は――」


 かれは手首の腕時計に視線をやると、ささやくようにしていった。


「三〇分だ」


 フーバーは立ち上がると部屋の隅にある扉へと眼を向けた。そこにかれが求めるものがあるのだった。卑しく微笑むビッグ・ジョンを尻目に、かれはその扉へと進んだ。まず二回ノックしたあとで扉を開ける。儀式のようなものだった。かれの胸にわずかな郷愁の焔が灯り、更に繊細さが流れるようにして到来した。裏の世界で生きるものにとってはときに命取りになるそれを今のうちだけは留めておこうと決意しながら、フーバーは扉を開けた。さあっとひそやかな風が頬を打ったような気がした。かれは一瞬眼を瞑ると部屋に足を踏み入れ、後手でしっかりと扉を閉めた。窓が大きく開かれ、レースの白いカーテンが揺れている。その窓辺には黒く、長い髪を背に流した一人の女性がいた。蒼玉のような瞳にはどこか虚ろな輝きがあって、彼女の纏う服すらまるで死神の装束であるかのようだった。フーバーは珍しく眼を泳がせながら、数歩だけ近づいた。不意に女性がいった。


「身を投げたくなるときがあるの」


「どうして」


「囚われ人でいるということは、疲れることなのよ。レイ」


 彼女はそんなことをいって、どこか厭世的な笑みを漏らした。フーバーはそれにもごもごと口を動かすだけでどうともいえず、ただ年頃の少年に戻ったようにして視線を逸らした。かれのそんな様子を見て彼女はなにを感じたのか静かに微笑むとかれを手招きした。フーバーは小さくかぶりを振りながらも近づいていき、彼女の前で膝をついた。女性はかれの頭を強く抱きしめると胸の内にかれを沈める。風が緩やかに流れていた。どこか遠くで子どもたちのはしゃぎ声が聞こえるようにフーバーは思った。年上の少女が純朴そうな少年の手を取っている。そんな光景が脳裏に浮かび上がり、今は亡き幻影をひどく懐かしく思った。もはや過去には戻ることはできない。しかしそれでもかれは追い求めているのだった。じぶんにはそれしかないというのが薄々理解できていたのかもしれなかった。いくら肩肘を張ってタフガイを気取っても肝心の中身は薄っぺらいままなのだ。じぶんは空虚さを抱えている。ならば彼女は? フーバーは彼女の顔に視線をやった。そこには複雑な表情が入れ替わりのように蠢いていた。悲しみであり、怒りでもあった。喜びでもあり、苦しみでもあった。なによりも強かったのは虚無だった。すべてに価値がなく、それをごまかして生きることもできない不器用な顔。彼女とフーバーは間違いなく空虚さを共有していて、それは幼馴染であり、姉と弟の擬似家族関係を築いていた二人特有のものだった。彼女が抱く力を弱めた。かれがいった。


「いつかここから出られるよ、アンジェ」


「このアンジェリカ・ヴァレイが? どうでしょうね。きっと無理だわ」


「あの男は愉しみたいだけさ。なら欲を満たしてやればいい」


「そこまで単純じゃないのよ、可愛いレイロッド。ビッグ・ジョンは冷たい焔だわ」


 彼女はかれの針金のような髪を静かに撫でた。そうして言葉を続けた。


「もう諦めなさい。あなたはあなたの人生を生きるの。あなたにこんな商売は似合わないわ。私のことは一切を忘れて、そうね、恋人を作りなさい。カレッジに行くのでもいい。とにかく普通の生活をしなさい。それが私の望みよ」


「その話は聞きたくないな。それになんども繰り返してきたじゃないか。不毛だよ。何回いわれても結論は変わりはしない。この掃き溜めからあなたを解き放つ。それが唯一大切なことだと思える」


「拘泥してるだけだわ。怖いの? 逃げることだって悪いことじゃない。それで前に進めることもある。あなたはそれを理解していないだけ。ときには迂回してしまったほうがいい問題もあるの。そしてそれはあなたの責任ではないのよ、レイロッド・フーバー」


「どうだろうな」


 フーバーは片膝を立てると、彼女の顔をじっと見つめた。厭世的な、虚無感を湛えた微笑み。すべてを諦めて、一人だけ奈落の底を漂おうとでもするかのような。かれは彼女のそんなところが大嫌いだった。それは自己嫌悪にも似ていた。投げ出したくなる。すべてを。しかしそれは決して赦されてはならないことだった。かれはしっかりと理解していた。だからこそ、かれは苦しんでいるのだった。狂った野心家とネオンで腐った街。檻に閉じ込められた女ニヒリストとそれを姉に持つタフガイ気取りの若造。面白くもない。フーバーは自嘲した。かれは彼女の手を握ると、いった。


「希望は捨てないでほしい」


「持ってるわ。いまでもね」


「俺にはそうは思えない。そんなに頼りない弟だったかな」


「……いえ。あなたはとってもハンサムでとっても素敵な、とびきり自慢できる弟よ」


 彼女の顔から一切の負が剥ぎ取られ、そのときだけ昔の彼女だった。フーバーは仄かにはにかみながら彼女の手に両手を合わせた。力の無さが恨めしかった。どんなことをしてでも救いたいのに、じぶんには力がなかった。かれは境遇を恨んでいた。このようにした運命を憎悪していた。かれは小さく俯くと唇を擦りながらいう。


「なら、待っていてくれ。なんとかするから。絶対に」


「信用してるわよ、レイ。だけれど」


 彼女は微笑むと握られた手をすっと離して、フーバーの頬にやった。


「本当に信じているの?」


「……なにが」


「あなた自身がよ」


 ぴしりと胸に亀裂が入った気がしていた。フーバーは鋭い杭を金槌で叩きこまれたかのような感触を覚えて、思わずめまいがしそうになる。信じているか、だって? 野暮なことだ。そうに違いない。どうして救おうとしている人間が諦めてなんかいるのだ。そんなことはない。ありえない。惰性? もはや救えないならばと? あるはずがない。あっていいはずもない。かれは頬の手を優しく、しかし断固として振り払った。眼には仄かな怒りの色と動揺があった。アンジェリカはかれの様相を見てどこか虚無的な表情を湛えた。フーバーは思わずそれを止めろと怒鳴り散らすところで、必死にそれを押し込めた。彼女が続けた。


「信じてないのね」


「そんなはずはない」


「嘘をつくのは下手なのかしら? あなたはもうだめだと思っている。虚しいとね」


「やめるんだ」


「事実よ。受け入れるべきなのじゃないかしら」


「事実じゃない!」


 声を荒げると彼女から飛び退くようにして離れた。そんなフーバーを見て、彼女は姉が強情な弟に向けるかのような笑みを与える。彼女はいった。


「否定しなくてもいいの。私は――」


 彼女は一瞬だけ窓のほうへと視線をやると、風を頬に受けた。


「嘘で塗り固められたものに縋れるほど、鈍感ではないから」


「嘘じゃないよ」


「そうだと信じるわ、私のレイロッド」


 沈黙という客が訪れると、場は静まり返った。そわそわと運ばれてくる風がカーテンを揺らし、窓の眼下にある中庭にはポロシャツを着た護衛がサブマシンガンを肩にかけているのが見える。重く沈泥した何かが渦巻いてフーバーをひどく胸糞悪くさせていた。じぶんの心中を見透かされた気がする。かれは数歩よろめくように後退りして、壁に背を預けた。測りがたい何かがすべてを台無しにしてしまったようだった。かれは眼を瞑った。ふと彼女の声が聞こえた。


「行きなさい」


 かれは躊躇いもなく身体を翻すと扉を開けた。部屋にはもうビッグ・ジョンはおらず、代わりに黒服がいた。眉を上げるかれに帰ることを告げると、かれの案内で足早に正面の車寄せへと向かった。その間は一度たりとも背後を省みることはなく、未練がないように堂々とした足取りだった。かれはじぶんの頬がなぜか引き攣っているのに気づいた。黒服から拳銃を返してもらうとキーをポケットから出す。車に差し込んだ。運転席へと腰を下ろしてエンジンをかければ、忠実なるこの鉄塊は屋敷の門へとゆっくりに進んでいく。黒服がゲートを開放し、かれは屋敷から出た。そのまま通りを直進する。一〇分ほどして、かれは車を路肩に寄せた。そこでぼんやりと前方を見ていると何か液体がじぶんの頬を伝わるのが理解できた。かれは指で拭った。何かは分からなかったし、そうしておくべきだとも思った。かなしみという言葉はあまりにも、砂糖菓子のようで、好きではなかった。かれはアクセルを踏んだ。




 四




 かれがデューク・ヴィレッジのアジトへと車を戻すと、様子に大きな変わりはなかった。しかしもう黒のセダンはない。フーバーは路肩に車を停めるとホルスターに突っ込んだ九ミリオートを確認しながら、トランクを開ける。中からショットガンのバッグを取り出して脇に抱えると、しっかりと車に鍵をかけた後に横道へと逸れていく。前方には小さな広場、そして廃ビルがあった。かれはなるべく目立たないようにして歩くと建物の影になっている場所で膝を付き、バッグからショットガンを取り出した。コートのポケットからショットシェルを一発ずつ装弾し、限界まで押し込まれたのを確認すると、かれはフォアエンドをひいて薬室にバックショット弾を送り込んだ。かれは廃ビルの正面からするりと侵入していく。一階はロビーのようで右手に階段があった。カウンターに腰を下ろしたチンピラ風の男がこちらを見る。ドラッグでもやっているのか、薄ぼんやりとした眼を凝らすようにして向けてきた。フーバーはおもむろに微笑む。


「こんにちは」


 途端にショットガンの銃口が起き上がって火を噴いた。破裂したような音とともにチンピラは肉片をまき散らしてどさりと倒れる。今の銃声が開戦の合図だ。かれはフォアエンドをポンプすると、キックされた薬莢を尻目に階段を走った。上から慌てて一人の男が降りてくる。手にはオートマチックを持っていた。こちらを見た瞬間、表情が張り詰めて恐怖が浮かぶ。何か叫ぼうとした瞬間にフーバーがトリガーを絞って男は胸部にバックショットを喰らった。転がり落ちてくる死体を避けながら階段を昇り切る。銃声が響き渡った。すぐに腰を屈めると銃声の方向に発砲する。視線を向ければ突き出たエレベーターの影に隠れている男を見つけた。男が握ったオートから鉛弾が放たれる。やたらめっぽうに撃つ割にはまったく当たっていない。少しは場慣れしているかもしれないがこいつは素人だと判断して、フーバーは次の遮蔽物へと猛進した。男が動揺してトリガーをひく。一発が周囲を掠めたがフーバーは冷静に狙いをつけるとトリガーを絞った。途端に銃声とともに男の頭部が半分消失する。男は血飛沫と脳漿を大盤振る舞いしながら、腰が抜けたようにすとんと地面に尻をつけると、そのまま倒れて動かなくなった。かれは死体を踏み越えて階段を昇ると三階へ進む。


 仕切りが多い。オフィスが散らばっていた。かれは用心深くショットガンを腰に構えながら進む。音一つしない。辺りに視線をやっている最中、何か聞こえた気がしてフーバーは反射的にその場に倒れた。途端に銃声がして、頭上からぱらぱらと粉塵が舞い降りてくる。音色からして同じショットガンだ。しかもこちらよりも大口径。かれは匍匐前進しながらオフィスの一つへと潜り込むと、ちらりと見えた人影に対して撃った。発砲炎。人影はすぐに身を隠した。フォアエンドをポンプして薬莢を押し出す。相手がショットガンの銃口を差し出してくる。短いうめき声と呼応するように銃声が高鳴り、フーバーのすぐ近くを散弾の渦が削りとった。仕返しとばかりに撃ち返せば更に大きな銃声とともに鉛弾が仕切りを貫通して飛来する。頭を伏せながら不利な状況に追い込まれたとフーバーは確信し、場所を移動するべく匍匐したままで動き出した。相手が顔を出す前に次の仕切りに飛び込む。銃声。仕切りの一部が吹っ飛ぶ。かれは慎重に膝をつくと一度息を吐き出し、ついには仕切りの一つを乗り越えながら片手でショットガンを放った。小さい押し殺したような憎悪の声とともに人影が場にうずくまる。反動を物ともせずに次の部屋に侵入すると、すぐに場に伏せた。反撃として立て続けに散弾が撒き散らされる。上から建材だの仕切りだのの煤塵が降り掛かってきた。かれは射撃が止んだのを確認すると、僅かに顔を出す。相手は遮蔽物の影で装填をしているようだった。こちらも生憎と弾がない。フーバーはコートのポケットから残ったシェルを掴み取ると、一つずつ装弾筒に押し入れていく。最後にフォアエンドをひくと、途端に銃声がして耳元を何かがかすめた。散弾の一部だ。血液が垂れるのを感じながらかれは叫んだ。


「クインだな!」


 激しくなる鉛の嵐に慌てて撃ち返しながら、かれは返事が返ってくるのを待った。少しして、向こう側から低い、ハスキーボイスが届く。


「私がどうかしたのか」


「俺はオールズ氏の代理人だ。無駄な抵抗は止めろ」


「……お前はそれで納得するとでも?」


「するわけがないな」


 苦笑しながらもフーバーはトリガーを絞る。反動とともに銃弾が遮蔽物を抉り取った。すぐに向こうから火花が散って仕切りをボロクズにする。フーバーが続けた。


「条件次第では止めることだってあるんじゃないか」


「どうだろうな。オールズはクズだよ」


「かれはお前たちに追われているだけだ」


「本気でそう思っているのか? あのカエルが被害者だと」


「そうかもしれない」


 はっという嘲笑とともに銃声が鳴った。フーバーは何度も流れるように発砲しながら、別の遮蔽物へと移動する。顔を出した相手にトリガーを絞った。クインはすぐに顔を引っ込める。彼女は言葉を紡いだ。


「だとしたら相当なお花畑ちゃんだ。オールズの妻が浮かばれない」


「なんだって?」


「……どうだっていいさ。カエルは死ぬ」


 フーバーは弾帯から数発抜き取って装弾筒に入れた。これ以上のんべんたらりとはやっていられない。かれは覚悟を決めた。相手の最後の発砲が終わるのを見越すと遮蔽物から飛び出す。向かってくる相手にクインは慌ててトリガーを絞る。翻ったコートの一部が持っていかれたが、そのままフーバーは走るとクインを照準した。左目が潰れた、険のある美貌が怒りと恐怖で歪む。フーバーはトリガーをひいた。クインの胸部に紅い華が咲き、よろめきながら壁に背をつけると、そのまま崩れ落ちる。それから少しはふいごのような息をしていたが、次第に音も聞こえなくなった。


 フーバーは彼女が息をしなくなったのを確認すると、おもむろに辺りを見渡す。まだ二人の男を見つけていない。チンピラどもは現地で雇った連中のようだが、少なくとも筋肉質のスキンヘッドはいなかったし、拳銃の名手も見当たらなかった。かれは腰だめにショットガンを構えたままで部屋を移動する。と、背後で何かが音を立てた。咄嗟に振り返ると黒人が階段を死に物狂いで下りだす。走って追いかけると二階に降りた時点で、威嚇射撃をした。走る黒人の傍らが吹き飛ぶ。思わずその黒人――ロスは震えながら足を止めた。


「よせ」


 恐怖で身体を縛られたかのようにして、かれは小さくささやいた。フーバーが答える。


「マッキネンはどこだ」


「知らない」


「ではお前に利用価値はない」


「家族がいるんだ」


「へえ」


 必死に手振り身振りで良心に訴えかけようとするロスを冷めた眼で見つめながら、フーバーはトリガーに指をやった。


「家族のためにこんなことを引き受けたんだよ。借金があるんだ。子供や妻のために稼がなくちゃならない!」


「じゃあ生きて帰らないと。だがそいつは無理そうだ」


「見逃してくれ!」


「お前自身は俺になにを与えてくれる?」


「……マッキネンは」


 絞りだすようにしてロスはいった。


「マッキネンは出ていった」


「どこに」


「し、しらない」


 発砲。建材が辺りに舞い散る。フーバーは無表情にフォアエンドをひくと照準を胴体に付けた。トリガーを絞る。ついにロスが悲鳴をあげた。


「お、オールズの隠れ家だよ! 俺の車に乗ってった!」


「嘘じゃないだろうな」


「嘘じゃない。信じてくれ」


 怯えすくむロスを横目に、かれの頭脳は警鐘を鳴らしていた。急行しなければオールズは殺される。内心焦っているのを隠しながらフーバーはいった。


「そうか。じゃあ用済みだ」


 そして銃声が響き渡り、フーバーは急いで階段を下った。車にキーを差し入れると後部座席にセーフティをかけたショットガンを放り投げる。急いでエンジンを始動させればミラド・ストリートへと車を移動させた。バックミラーには呆然とした様子のロスが、廃ビルから出てくるのが見える。かれは端末の機能を作動させた。ロスの車はヴァニラ・ポイントへと向かっている。かなり遠かった。間に合うかどうか。フーバーは神にも祈りたい心地を必死で抑えつけつつも車を発進させる。ミラドからセイガー・グランドストリートへ。セイガーをひたすらに南進して、相変わらずのアンサス橋を越えるとやっとのことでヴァニラポイントへと到着する。端末は相手がヴァニラポイントの郊外へと向かっていることを示していた。行き交う車を追い越しながらファビア・ストリートに乗る。フーバーは額から冷や汗を垂らしていた。間に合うかどうか。こんな商売では信用が命だ。荒事をなんとかするのがフーバーたちの仕事であって、これが出来なければかれらなど刃引きされたナイフにすぎない。金を稼ぐためにも失敗するわけにはいなかった。ここで失敗すればもはやじぶんに残された道は数少ない。博打をしなければならなくなる。かれもそれは避けたかった。じぶんの命はどうなっても構いはしないが、それによってかれの大切な人が傷つくのはどうも耐えられなかった。アンジェリカ。じぶんがすべてを失ったらだれが彼女を救い出してくれるのだろうか? かれにはその答えは見つからなかった。誰も助けの手を差し伸べてくれることはない。これは自らが解決しなくてはならない問題なのだ。逃げてはならない。


 フーバーはファビア・ストリートを道なりに沿って進むと、やがてハンシェン・ストリートに乗り換える。ここからはすでに郊外の域だ。都会の喧騒から離れて、森閑としているところが多い。かれは端末を確認した。すでに相手の信号は止まっている。アクセルを踏み込んだ。舗装されたハイウェイを前に、横道へと逸れる。いくつかの別荘が立っている丘を抜けた。少しして小さな屋敷へとたどり着く。洒落た現代風といったところか。正面門が無理やりこじ開けられているのを見ると、かれは塀の近くで車輌を停める。ショットガンを両手に握るとかれは敷地内へと進んだ。慎重に進みながら、かれは屋敷の中へと入る前に額を撃ちぬかれた二人の男を見つける。息はなかった。片方は拳銃をもっていて、もう片方はショットガンだった。フーバーは恐ろしい腕前に感心半分恐怖半分といったふうになりながらも、屋敷へと入った。内部はしんと静まり返っている。いっそ無気味なほどのその静寂が、かれの神経を激しく駆り立てていた。ロビーの奥にも死体。かれらはみなオールズが個人的に雇った護衛なのだろう。攻めにはじぶんを遣い、守りにはかれらを使う。結局役に立たなかったなとつぶやくと二階への階段に足をかけた。そのときだった。断続的な連射音とともに一際鋭い銃声が響き渡り、だれかの悲鳴と憎悪の声が聞こえた。フーバーはショットガンを抱えたまま疾駆する。銃声が聞こえてきた方向に進めば、誰かの言葉が届いてきた。どこにいるんだ、カエル。部屋の中へと入る。まだ硝煙の臭いがした。サングラスをかけて、軍用のサブマシンガンを握った男が一人倒れていた。胸部に一撃。かれは別の部屋へと飛び込んだ。すると奥にひどく頑丈そうな長椅子があり、その陰まで血痕が続いている。かれは周囲を警戒しながらも長椅子の陰に進み、咄嗟に銃口を向けた。


「オールズさん」


「……ああ、フーバーくんかね」


 ふてぶてしいとさえ感じたぎょろぎょろとした眼は、痛みと自嘲に輝いている。太鼓腹からは真っ赤な鮮血が流れ落ちてシャツを汚していた。大きく、醜い唇も少し蒼い。長椅子の背に寄りかかったかれがまだ生きているのを確認すると、かれはコートを脱ぎながらもいった。


「マッキネンが来てますね」


「奴は化物だよ。なんたって拳銃一丁でここまでのことをやりのけたんだからね」


 余裕を見せようとしているのか、笑みを浮かべるが元気がない。かれはコートで傷口を抑えつけると両端を縛って一時的な止血帯にした。


「とりあえずここから離れましょう。危険だ」


「異論はないよ」


 かれに手を貸して、部屋から出ようと視線をあげたそのとき。男がふらりと扉から入ってきた。よく仕立てられたスーツに折り目正しいフェドーラ帽。まるで昔のハードボイルド小説から飛び出してきたような服装の男は、その持ち前の端整な顔に切り裂いたような笑みを浮かべた。かれの右手から何かが発射される。途端にオールズを押し倒したフーバーは右腕に鈍い痛みを知覚した。オールズのうめき声。かれは起き上がるとショットガンを放つべく、長椅子の上から顔を出そうとする。銃声。悲鳴をあげそうになるほど、正確な弾道だった。危うく難を逃れたフーバーはこれではまともな反撃ができないと毒づきながら、ショットガンの銃口だけを出してめくら撃ちをおこなう。これでも部屋は大きくないから効果はある。相手の男は顔色を変えて部屋の外へと退いた。フーバーはちらりとその様子を確認すると右腕を見る。ただのかすり傷だ。しかしもう少しずれていれば右は使い物にならなくなったかもしれない。かれがもう一発だけ散弾を撒き散らすと、向こうから声が訪問してきた。低く、冷笑的な声だった。


「そんな死人の顔をしているような奴のお守りをするのは、よそうぜ」


「介護は趣味じゃないが、依頼なもんでね」


 かれの言葉に返答を返すと、途端に犀利な一撃が直線を描く。フーバーは慌てて頭を伏せた。


「仕事だって分別があるものだ。善悪を問題にするのはただの馬鹿だが、少なくともその男の所業はまともじゃない。君は聞く価値があるかもしれない」


「じゃあ教えてもらおうか。キザな人殺しさん」


「ベイカー・オールズの絨毯を見たことがあるか」


「変なことを聞くな。ああ」


「それは人間を加工したものだ」


「なんだって?」


「原材料は人間だといった。そいつの妻だ」


 フーバーは言葉を理解もしないままに腹にコートを巻きつけているカエル男を見やる。かれはぼんやりとした輝きを瞳に映しながら、静かに笑みを浮かべていた。一瞬ぞっとする嫌悪を覚えながら問い返す。


「嘘だろう」


「真偽は君で判断すりゃあいい。ともかく俺たちを雇ったトラウザー氏は、そのカエルのもと友人で、憐れな奥方の兄だ」


「復讐だと?」


「いかれたサイコパスへのな。そいつはなんたって頭がいいようだから、いろんな街を渡り歩いた。俺たちもそれを追ってきたというわけさ」


「おい、クソッたれ」


 悪罵を吐きながらあの美しい絨毯を思い出す。妖艶さすら醸し出していた雰囲気と、オールズが愛おしそうに撫でていた記憶。そしてクインの言葉。ピースがはまっていくに連れて胸のむかつきが激しくなり、どうしようもならないような暗雲が胸に立ち込める。オールズがつぶやいた。その顔に少年のような無邪気さとぼんやりとした輝きを湛えている。


「……愛していたんだ」


 かれは続けた。


「しかし彼女は人間だった。生き物だった。それを許容したところで事実はなにも変わりはしない。私という醜い男では彼女をつなぎとめることはできなかった。当たり前だ。私だってこんな男は願い下げだ。しかし彼女は私の無邪気さが好きだといった。私も彼女のすべてを愛した。時間はときに残酷だ。そんな素晴らしい記憶さえ、消し去ってしまう。彼女は他の男と密会するようになった。私は彼女を受け入れようと思った。しかし彼女は私に耐えられなくなった。離れたいといった。そうはなってほしくなかった」


「だから奥さんを絨毯にしたんですか。あんたイカれてますよ」


「聞き慣れているよ。彼女は絨毯の収集が趣味だったからね。彼女の望みと私の望みが叶う最高のやり方だと思えた。ああ、いまでもそうさ」


 扉の向かいから冷気を纏った笑い声が響き渡る。フーバーは少し眼を瞑った。気狂いの殺人者とそれを復讐のために追う男。映画の脚本にでもなりそうな筋書きだ。しかしこれは現実だった。判断しなくてはならない。どうするべきなのか。かれは眼を開けるとオールズに視線をやった。止血したとはいえ、このまま放っておけば死ぬだろう。そうなったらじぶんは上司であるバドリー・キプリングの信用を喪う。それだけはあってはならない。かれは唇を噛み締めた。どんなクソ野郎でもこれは依頼であり、命令なのだ。好き勝手にやりたいのだったら、じぶんで何か立ち上げることだ。それなら誰だって文句はいわない。かれは口元に嗤笑を浮かべるとショットガンをしっかりと握り、いった。


「腹は決まった」


「そうか。で、どうする」


「こいつが答えだ」


 途端に長椅子から身を乗り出して発砲。散弾の嵐が一連の壁紙を弾き飛ばす。そのまま死に物狂いで前進し、壁に取り付く。発砲の機会を逃したマッキネンが舌打ち。フーバーは腰だめにショットガンを構えたまま、壁を軸に身を翻してトリガーをひいた。突然の登場に驚きを隠せないまま散弾を左腕に喰らうと、まさしくかれは無表情を保って冷酷に引き金をひいた。途端にこちらも左肩に猛烈な衝撃と烈火のような激痛を覚える。みぞおちを鉄杭で穿かれているかのような苦しみに身悶えしたくなりながら、ポンプをするか、突進するかの判断に迫られた。すべてがスローモーションに見える。マッキネンは片手でも恐ろしい射手なのは間違いない。このままこちらの額に照準をつけて躊躇いもなく撃つだろう。しかしポンプして発砲するには時間がかかりすぎるし、突進するにも勢いで怯んでもらわなくてはどうにもならない。


 かれは決断した。握っていたショットガンを投げつけると、その勢いでマッキネンに飛びかかる。衝突した二人。マッキネンが後退り、まだ拳銃を遣おうとする。フーバーは凶暴そうな表情を湛えたまま、右手で男の衿を掴み上げると思い切り頭突きをした。両者の視界で花火が散る。喚き散らしながらもう一発。マッキネンが前後不詳といった調子でよろめく。その隙に拳銃を持つ右手を掴んで捻り上げた。噴き出すようなうめき声とともに拳銃が手を離れる。意識を取り戻したマッキネンが凍えた怒りを眼に宿したままで鋭い膝蹴りを放った。身体をくの字に折って咳をするフーバー。体内にオーケストラのように響き渡る鈍痛。更にマッキネンが拳を振り上げると、それをハンマーのようにしてこめかみに放った。がつんと何かがぶつかった音。視界が一瞬真っ暗になり、片膝を付く。音が聞こえた。何かを拾い上げる音。そして霞む視野の中、で銃口を向けられていることを理解する。耳障りな冷笑が耳朶を震わせた。


「俺はたっぷりの銃とたっぷりの弾丸で、沢山の人間を殺してきた」


 一旦かれは言葉を置くと冷笑を止めた。


「お前もその一人になる」


 マッキネンは引き金をひこうとした。冴え渡る緊張感。誰かが微笑んだ。途端にフーバーはかれの腰へと飛びつくと、右足を握って引っ張り上げる。驚愕の表情のままマッキネンは後ろに崩れ落ちた。フーバーはかれの身体に這い上がって馬乗りになると、右腰からマットブラックで塗装された九ミリオートを取り出す。死の口がマッキネンの額に押し付けられていた。マッキネンは奇妙に表情を歪めると、最後にはやはり冷笑して相手を迎えた。


「やれよ」


 フーバーは引き金をひいた。マッキネンの額に穴が空き、だらりと粘っこい血液が流れ落ちる。マッキネンの冷笑が凍り、瞳は輝きを無くしていった。死体。ここにあるのは恐れられたスリーショットではなく、ただの死体だった。


 かれはふらりと立ち上がると左肩に痛みを感じながら、長椅子のほうまで戻った。オールズはいつの間にか絨毯を抱えている。かれは夢見る子供のような幸せで無邪気な表情で、絨毯を撫でていた。かれは一瞬だけ引き金の張力を確認したくなったが、嫌悪と憐れみとともにそれを捨て去った。




 五




 かれは愛車の鼓動を感じながらストリートを北進していた。左肩は白い包帯と固定具で釣られている。それでもなんともないように運転していると、かれの端末がバイブ音を立てた。かれは端末の表示で相手を確認すると、車を路肩に寄せて通話ボタンを押す。バドリー・キプリング。かれの上司であり、凄腕の荒事屋だった。


「バド」


「オールズ氏の依頼だが、よくやった。レイ。報酬も振り込まれているから、お前の銀行口座に一部を振り込んでおく」


「ありがとうございます」


「左肩に一発喰らったそうだな? 大丈夫か」


「まあ、相当に痛みはあるし左腕も使い物にならないのでうっとおしくはありますが」


「安心して養生しろ。腕がまた使えるようになるまでは面倒を見てやる」


「助かりますね。オールズはどうなりました?」


「別の街へ流れていったよ。そこからは関知しない」


「そうですか」


 かれは一度ため息を付くと唇を噛んだ。バドリーが続ける。


「用件はこれだけだが。無理はするなよ。家に引きこもってドラマでも見てるんだな」


「善処しますよ、バド」


 苦笑しながら通話を切るとかれは車を車道に戻した。ミラーズ・アイランドの北部。丘の上に聳え立つ高級住宅街。相変わらずのボロ車で住宅街を縫うように進み、一際大きな存在感を放つ屋敷の前で止まる。正門が開かれ、かれは車を停めた。前回の来訪と同じように黒服に連れられて部屋の前まで歩く。黒服がノックすると返事が聞こえ、扉が開かれた。フーバーは手にアタッシュケースを持ったまま、中に入る。外国製のブランドスーツに身を包んだ男がソファに腰を下ろしていた。ビッグ・ジョン。かれはいつまでも変わらないように見える。笑顔の裏にどす黒い野心を隠した男。精力的までに大胆で幼稚でもある。フーバーは黙ってアタッシュケースを差し出した。ビッグ・ジョンがいう。


「電話をもらったときは驚いたな。君が自ら金を持ってくるなんて」


「いつもはやりくりに必死だが。今回は気まぐれさ」


 さあ、確認しろよと視線をケースに向けるとビッグ・ジョンは肩をすくめて、ケースの中身を確認した。一つの札束をつまみ上げて丁寧に見つめると、かれは静かに首肯する。


「オーケー」


「時間は?」


 フーバーの質問にビッグ・ジョンはにっこりと微笑む。そして腕の時計を指で軽く叩くといった。


「一時間だ」


 フーバーは黙って頷くと、奥の扉へと向かった。ドアノブを捻り、押す。眼に入った光景はいつもと変わらなかった。憂鬱にくれる女神を正確に写しとったかのような彼女と、涼やかだがどことなく寂寥を感じさせる風。彼女がこちらに顔を動かした。フーバーは一度だけ俯くと、唇にかすかな笑みを浮かべる。かれは窓際まで近づくと、中庭を見た。


「なんだか会いたくなったんだ」


「もう少し時間がかかると思っていたわ」


 彼女は彫像のような笑みを張り付けていう。フーバーは首を横に振った。


「そうではなかった。でもそんなことはどうでもいいな。大事なのはなにを求めてきたんだろうということ」


「じぶんでは分からないの?」


「どうなんだろう。分からない気もするし、分かるような気もする」


「じゃあ思い出さなきゃね」


「そうさ。思い出さなきゃ」


 二人は中庭を見ていた。吐息のような風が頬を打つ。それから時間が経った。フーバーの唇から言葉が漏れた。


「俺はここが嫌いだ」


「私もよ。いつになったら出ていけるのかしら」


 フーバーが眼を見開いた。まるでタチの悪い冗談をいったかのように、アンジェリカの表情は歪んでいた。フーバーは彼女の手を握った。かれの口から微苦笑が漏れた。


「いっそのこと、このまま連れだそうか」


「いい案とはいえないわ。だけど、そしたらすっきりするわね」


「本当に?」


 まるでなにか重大な質問を問いかけるようにして、フーバーはささやいた。彼女は答えた。


「たぶん」


 かれの握る手が強まった。唇が震え、額から一滴の汗が流れた。


「幸せであるためには、やはり銃が必要になるな」


「タクシーの運ちゃんだって、いつまでも生きれるもんじゃないわよ」


 彼女はあだっぽく微笑んで、右腰に手をやった。そこには銀色に輝く小型のリヴォルバーがあった。彼女はいった。


「どうする?」


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トラブル・イズ・マイ・ビジネス 犬童 @Militia1018

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