甘く、ほろ苦い味

犬童

甘く、ほろ苦い味

 飲み込んだジン・ライムは甘く、少しほろ苦い気がした。グラス越しに感じる冷たさが、俺に確かな現実を伝えた。そうだった。俺は生きて帰ってきた。バカみたいな硝煙の臭いと、これ以上は不味くならないだろうという携帯糧食の地獄から。


 昼間のパブはそこまで人が集まっていない。外に射す陽光と車の排気ガスの中では、一瞬の内に多くの人間が視界を通り過ぎていった。パブのマスターも客も、そんなのには関心がないようだった。俺にとっては懐かしい風景だ。久しぶりだった。都市の素っ気なさも気楽さも。


 次を頼もうかと考えた。酔う為に立ち寄ったわけではなかった。しかし、少しばかり気が大きいほうが楽になるかもしれなかった。喉にガムが引っ付いたように、どこかもどかしい感じだった。俺は黙ってグラスを脇にどけた。マスターが俺を横目で見た。俺は懐から代金を置いた。かれは頷いて、グラスを引き取った。


 表に出ると、なんとなく不可思議な感覚を覚えた。みんなが知っているアール・ハイノンが電動ブラシの宣伝をしていた。戦場に行く前、かれは離婚訴訟をゴシップ誌にすっぱ抜かれていた。かれは今でも健在だった。少しだけ眼の辺りにシミが出来たかもしれない。看板の中のかれは、それでもハンサムだった。


 街をぶらつくと、適当にタクシーを引っ掛けた。黒人の運転手は無愛想だけども、知的そうな眼をしていた。俺はかれが気に入った。軍隊にいた時の、従軍牧師みたいだった。かれは運が悪いことに、馬鹿な兵隊のお遊びに巻き込まれて死んだ。しかしこの運転手は生きていた。そういえばかれの父親がタクシー運転手だったかもしれない。今では確認のしようがない。俺はかれに行く先を伝えた。かれは気のない風をして頷くと、メーターをセットした。無情なゼロが浮かんだ。それは攻撃機が急に飛来したあとの戦場に似ていた。全てがリセットされて、ゼロになった。そうやって何度も戦ってきた。危なくなったらリセットボタン。俺の上司が呼ぶだけでそれは飛んできた。魔法みたいに。実際魔法だった。それのお陰で何度も命拾いをした。戦争にリセットボタンがないというのは半分嘘だ。


 タクシーが発進した。ガラス越しの情景は早送りのDVDみたいに過ぎ去った。俺は舌で歯茎を撫でた。まだジン・ライムの味がした。甘く、少しほろ苦い味。思い出すのは出発前のことだった。もう何年も会っていない気がする。本当に会っていないのかもしれない。分からなかった。俺は運転手に話しかけた。もう何年もやっているのか、というと、かれは何年もやっていると答えた。いい仕事なのかと言った。そうでもないと運転手は答えて、タバコをくわえた。しなびていた。如何にもマズそうな感じだった。俺はなぜやっているのかと答えた。運転手はほかにないからだと言った。俺は肩をすくめた。軍隊だってそうだった。俺には他にやりたいことが見つからなかった。だからいろんな大義名分とか、お偉いさんの事情とか、そういうもののために戦った。戦えば戦うほど、なんだか自身が濡れていく感覚を覚えた。それは血だと多くの人間は言うけれども、あまり文学的ではないと同期の男は言っていた。奴は転がる水だと本を読んだまま言った。転がる水とはなんだと問うと、かれは読んでいた本を閉じた。転がる水は転がる水だとかれは言った。だから転がる水なんだろう。


 十数分も経つと、タクシーは閑静な感じの住宅街へと着いた。俺はメーターを見て、その通りの金を握らせた。少し多かった。運転手に無かって問うてみた。転がる水ってなんだと思う? 雑誌のクイズか何かかいとかれは答えた。俺は少し考えて、ずっと昔のクイズで、出題者はもうどこかへ行ってしまったから、答えが解らないんだと言った。運転手はしなびたタバコに火もつけず、ちょっと考え込んでいた。かれは言った。転がる水ってのは命ですよ、あんた。かれは金をケースに突っ込むと、やっぱり無愛想な顔を浮かべていた。


 礼を言って中から出た。タクシーが行ってしまうと、そこで一人だった。見渡すかぎり、平和なところだった。転がる水を浴びるところなんてなかった。それがいい。そういうことはあんまりしないほうがいい。俺はしわくちゃになった紙を広げた。一軒ずつ見ていった。ちょっとすればその家が見つかった。前庭がよく刈り込まれていた。ポーチに至るまでのタイルは、踏み外すと死んでしまうような感じがした。タイルを踏み外さないようにポーチまで行って、ノックをした。少し待って、彼女が出てきた。ずっと昔と変わらなかった。彼女は一瞬息を呑んで、生きて帰ったの? と言った。じゃなきゃ幽霊だ、と答えた。じゃあ幽霊ね、と彼女が言って中へ招き入れてくれた。コーヒーも出してくれた。でも幽霊はコーヒーを飲まないと俺は言った。彼女は幽霊だってたまにはカフェインを摂りたくなると言った。どっちもどっちだった。俺は刺激剤に慣れていたので、コーヒーはただの泥水みたいに思った。舌が馬鹿になっていた。


 彼女は向かいに腰を下ろした。そういえば腹部が膨らんでいた。妊娠かい? と俺は言った。彼女は眉を上げて、もう大きいわよと答えた。彼女がコーヒーを飲んだので、俺も飲んだ。甘く、少しほろ苦い気がした。でもジン・ライムよりはいいなと思った。そうやって何分も経った。もう少し早めに戦争が終わればねと彼女は言った。俺はリセット戦争だと言った。じゃあリセット戦争、と彼女は笑った。昔と変わらない笑みにちょっとだけ嬉しくなった。リセット戦争は辛かったよと彼女に伝えると、そうねと彼女は答えた。でもみんな辛かったとも言った。たぶんそうなんだろう。俺は頷いた。アール・ハイノンだって辛かったに違いない。俺は立ち上がった。


 彼女がもうちょっといればと言った。俺は首を振った。彼女はポーチまで付いてきた。俺は死なないように気をつけたけども、最後のタイルを踏み外した。汗が滲んだ。つうっと頬を伝った。彼女が言った。気をつけてね。俺は気をつけるよと答えた。彼女は家の中へと入った。転がる水が、俺の足元にまとわりつく感触がした。


 そこからたくさん歩いて、そろそろ喉が乾いた。近くの店に入って、ペットボトルを買った。甘く、少しほろ苦い味。ふと眼をやると、アール・ハイノンは相変わらずハンサムな顔で、電動ブラシの宣伝をしていた。そして次のかれは戦地の子どもたちへ募金をしようと言っていた。今度は真面目な顔だった。看板はすぐに移り変わった。戻ってこない。でもリセットできた。俺の戦争はいつだってリセットできた。何度も何度もリセットできた。甘く、ほろ苦い味と転がる水と、リセット戦争はなんの関連があるのだろうと思っている内に、かれはまた戻ってきた。そしてまた電動ブラシの宣伝をして、募金をしようと訴えかけていた。

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甘く、ほろ苦い味 犬童 @Militia1018

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