灰の山

ハヤシダノリカズ

灰の山

「オレに売れるようなものなんて、ない」

「あるさ。順番を売ってくれりゃ、それでいい」

 そんな会話をしたあの時間は、夢だったのか現実だったのか。順番を売ってくれと言ったあの男は、現実に存在したのか、それとも存在していなかったのか、それも定かではない。人は自らの精神を守る為に記憶すら改ざんすると言うが、オレのこの記憶は果たして事実に即したものなのか、それとも違うのか。


 白を基調とした空間の中に、黒のスーツを着たソイツは妙に目立っていた。だが、オレ以外の者は誰もソイツに注意など払ってなかった。「順番を売ってくれりゃ、それでいい」というその提案は、妙にフワフワとして現実感をオレにもたらさなかった。

 しかし、目の前にある札束は現実のものだ。アイツはちゃんと存在していて、だからこそ、アイツの提案を受け入れたオレの目の前には、今、この札束がある。一人住まいのテーブルの上に積まれた札束は、物音一つ立てる訳もなく静かにそこにあるだけだが、コイツが今ここに在るに至った事の顛末をオレに思い出させる。


「三日後、瀕死の患者が二人連続で入ってくる。アンタにゃ二人目の患者に当たって欲しい。それだけさ」

 男の言ったそれは現実になった。オレは男の指示に従い、一人目の急患が運ばれてくると予言されていた時間はスマホを持ってトイレの個室に籠っていた。そして、男から入ってきたスマホの指示通りにトイレを出たら、すぐに看護師に捕まって、オレは二人目の急患の緊急手術に駆り出された。


 オレが執刀する事になったその患者は六十代の男性だった。あの男が大金を叩いてまで助けたい男がコイツなのかという疑問、おそらくは一人目の急患の執刀に当たっている山井先生の腕がイマイチだという事が院外にも知れ渡っているのだろうかという疑問、男の言う通りの時間に連続で二人の重体患者が運ばれてきたその不気味さ、様々な事が頭を過ったが、オレは失敗もなく無事に手術を終えた。


 山井先生の担当した急患は残念だが亡くなったらしい。二十代の女性だったそうだ。そちらをオレが担当していたら、その二十代の女性は助かったのだろうか。無意味なタラレバを考えても仕方がないが、二人の急患の運命が真逆になった可能性の高さをオレは思わずにはいられない。


 オレが売ったのは順番。そう、順番を売っただけ。普段ならオレが一番手、山井先生が二番手という順番が反対になるように少しトイレに籠っただけ。その対価が目の前の札束。ただ、それだけの事。


 しかし、果たして、本当に、そうなのか。オレが売ってしまったのは、良心や職業倫理ではなかったか。


 それに、この大金の出所はいったいなんだ。なんとしてもあの六十代男性を救わねばならない事情がどこかにあったのか。そう言えば、亡くなった二十代女性はドナー登録がされていたらしく、彼女のいくつかの臓器はすぐに運ばれていったという。六十代男性を救う為ではなく、二十代女性を殺す為に今回の順番の入れ替えがあったのか。考えたくもないが、山井先生もあの男から手術で女性の命を救わないようにという依頼を請けていたりするのだろうか。そもそもあの男がこの病院に普通に出入りしていて、なのに、まるで存在していないかのような扱いを受けているのは、この病院ぐるみで仕事を受けているってことなのか。


 オレが売ったのは順番。そして、おそらくは良心と職業倫理。また、得てしまったものは疑心暗鬼。それらの対価としてテーブルの上の札束はなんだ。なんなんだ。オレの良心と職業倫理はこれほどまでに安いものだったのか。背負いたくもない疑心暗鬼を背負った対価としても安すぎる。

 しかし今後、きっと、オレは今回の様な依頼を断らないだろう。もう、オレには断る理由がなくなってしまったのだから。


 超常的な存在としての悪魔がいるのかどうか、オレには分からない。だけど、あの男は悪魔だろう。


 テーブルの上の札束は、純然と札束の姿を崩したりはしない。でも、その価値はまるで灰の山のようだ。オレが失ったものは、もう二度と手に入れられなくて、オレが背負ってしまったものは、もう二度と降ろせやしない。


 無価値な灰の山は何も生み出さず、ただ堆積していくのだろう。


 悪魔が悪魔として社会を荒廃させるのに便利に使われる魔性の紙の束。コイツは善き人が善き事に使えば偉大なモノであるハズなんだが。コイツが灰の山に見えてしまっているオレにはそんな事を語る事すら憚られる。


 そうか、悪魔が契約の対価として魂を差し出させるというのは、本当なのだな。

 今のオレにヒトとしての魂があるのかどうか、甚だ疑わしい。

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