エピローグ 二人の大きな夢

 キックティーにラグビーボールを置き、ゴールポールの真横から蹴る。

 真っ直ぐ飛んだボールがゴールポールに当たって、別のところに飛んでいく。

 あの後、シンは結局、試合に出ることは出来なかった。

 しかし、試合の目的であったスタメンを選ぶための選考と、新入生勧誘は成功した。

 試合が接戦だったこともあり、間違いなくスタッフ陣から見ても観客から見ても良い試合だっただろう。

 けれど。


「何してるの?」


 蹴った分のボールを全て回収して、再び、ラグビーボールを蹴ろうとした時だった。

 後方からリネアがやってきたのは。


「……ゴールキックコンバージョンキックの練習」


 スタンドオフなら、いや、ラグビープレイヤーなら見て分かるだろうに。

 シンは会話をする気も湧かなくて。そのままラグビーボールをセットし直す。


「ふーん。じゃあ……」


 ボールをセットして、後ろに三歩、左横に二歩動いて、


「――どうして、昔みたいに練習しようと思ったの?」


 シンは蹴るのを中断して、リネアの方を見た。


「あなたは懸命に頑張ってた。でも、次第にやる気を失って、特待生スカラーでもなくなって」


 そんな事を自然に、淡々とリネアは言う。

 シンはリネアを見ていられず、視線を下へと逸らした。

 そんなシンを見透かすように、リネアは小さく溜息を溢す。

 リネアは一拍置いて、


「ねーどうして?」


 小首を傾げてくる。


「どうして、また練習しようと思ったの?」


 屈託のない笑顔で。

 シンは思わず絶句してしまう。心の傷を抉ってくる言葉を浴びせられて。

 そこで初めてシンは気が付く。

 リネアの服がびしょびしょに濡れていることを。

 息が乱れていて、呼吸を整えようとしていることを。

 そして、目元を紅く腫らしていることを。


――走っていた? 試合が終わった後の、練習がない日に?


 もしかしたら、試合に関係しているのかもしれない。

 結局、リネアは後半、ディフェンスが直ぐに詰めてきて、まともに動くことが出来なかったのだ。相手ディフェンスの上がりの早さとオフェンス側のラインの浅さのせいで。

 だから、練習していたのかもしれない。失敗しても立ち上がるために。

 本当に逃げない人だと。逃げないで戦える勇気のある人だとシンは思った。

 そんな事を考えていると。リネアが至近距離まで近付いてきて、


「なら、答えてあげようか」


 爪先立ちで耳元に囁きかけてくる。

 シンの疑問は次の一言でどこかへと霧散してしまった。

 一歩だけ距離を取って立ったリネアはシンに真っ直ぐ視線を合わせてくる。


「悔しかったんだよ。試合に出られなかったことが」


 シンが目を大きく開き、口が塞がらなくなる中で、リネアは苦笑した。


「だから、こんなに遅くまで練習してるんだよね」


 そう言われて、シンは周囲を眺めた。

 空が暗くなっていて、灯のないグラウンドとその周辺は真っ暗になっていたのだ。


「時間を忘れるくらい、雨が降ったのにも意識がいかないくらい、悔しかったんだよ」


 そう言われて、シンは何度目かの驚愕を味わうことになってしまう。

 地面が濡れていて、服も水を含んで重くなっていたのだから。


「立ち向かっても変わらなくて、逃げても何も変わらない。ただ、両方とも辛いだけ」


 その言葉は自分の心を代弁しているみたいだった。

 最初はラグビーが楽しかった。

 用語は難しかったけれど、やればやるほど褒められ、自分が変われたような気がした。

 本当に、自分を変えられるかもしれないと思うことが出来た。だからこそ、英語の勉強もでき、両親からの進めもあって、イギリスに留学することにしたのだ。

 けれど、周りの子たちは大きくなり、ディフェンスのプレッシャーが強くなり、ボールコントロールが難しくなって。

 何よりまともにタックルしても止められないことが増えて。

 努力しても埋められない身体の大きさを、どうにか埋めようとして。

 けれど、大きくならなくて。そのせいで怪我も増えて。

 また努力でそれを埋めようとして、今度は勉強が疎かになって。

 特待生スカラーではいられなくなって。

 唯一の自信も失い、練習にも力が入らず、ダラダラと毎日を過ごすようになって。

 気が付けば、ラグビーをするのが嫌いな自分がいた。


「でもね」


 逃げても立ち向かっても意味はない。結局、結果が同じなら。

 努力して報われるのは、結果が出た人だけだ。

 結果が出なければ、過程である努力は認められないどころか、認知すらされない。

 そう思いたかった。

 リネアがシンの顔を両手で触れ、上げる。

 慈愛に満ちた、優しい表情を浮かべて。

 彼女は朗らかに笑う。

 

「――今のあなたは格好良かった」


 心臓がギュッと苦しくなる。


「努力しても変わらない。結果なんて分からない。それなのに努力をするあなたは、」


 トンっとリネアがシンの心臓に拳を当てた。


「――あの時よりも、凄く格好良く見えるよ」


 ああ。違う。

 こんな気持ちは偽りに決まっている。


「あなたの今までの努力は無駄じゃない。これからのあなたがきっと無駄じゃなくする」


 こんなに苦しくて。こんなに痛いのに。

 凄く嬉しいと思っている自分がいるなんて。


「あなたは私と同じだよ」

「……オナじ?」


 震える声で言葉を返して、リネアはラグビーボールを拾い、パスを出す。

 力がこもった強いパスを受けて、


「ラグビーが大好きで、上手くなりたいって思ってるところが、ね」


 悪戯っぽく小悪魔的な笑みを浮かべた。

 シンの瞳の硬直が解かれ、ヒビが入ったように潤む。


「やっぱり、泣いていても格好悪くないよ。……今のあなたは」


 目頭が熱い。胸が痛い。視界がぼやけて見えない。

 始めた時もそうだった。初めてイギリスで試合をした時もそうだった。

 年齢が変わっても、国が変わっても、変わらないもの。

 だから嫌いになっても辞められなくて。怖くても辞められなかった。

 

 ただ、ラグビーが好きだったのだ。


 だから上手くなりたくて。

 試合とか、特待生スカラーとか、本当は逃げる理由にしていただけで、関係なかった。

 何のため、とか、どうして、とかそんなに難しく考える必要なんてないのだ。

 ラグビーが上手くなりたい。ラグビーをもっと楽しみたい。

 それだけで、ボールを持って走り出すのには十分ではないか。


「君は自由に、楽しそうにプレイしてた」


 嗚咽を漏らして、懸命に涙を止めようとしても涙は止めどなく流れ落ちて。


「上手くなりたいって言う純粋な気持ちでラグビーを楽しんでた」


 ボヤけた視界の中で一際輝いて見えるリネアを見て、顔を上げる。


「一月前、」


 シンは彼女に話したいと思った。

 なんとなくではなく、自分の意思で気持ちを言葉にしたいと、強く願う。


「努力ってなに? 努力した先で、あなたには何が待ってるの? って」

「うん。聞いた」

「ラグビーが好きなんだ。ラグビーを楽しみたいから努力する」


 下を向くのではなく、リネアの顔を見返して。シンはラグビーボールを宙に浮かした。


「努力して、上手くなって、その先で、――――もっとラグビーを好きになっていたい」

「それが、あなたの夢?」

「……あぁ」

「ふーん。そっか。……良かった」


 水が弾け飛んだラグビーボールを持って、シンはリネアに微笑んだ。


「また努力して上手くなって、スタメンになって、特待生スカラーになってみせるよ。だから、」


 リネアは作り物ではなく、本当に嬉しそうに「うん」と頷いてくれる。

 だからこそ、シンはこの高鳴る胸の鼓動を感じながら、


「――その時は僕の話を、聞いて欲しい」


 覚悟を決めて思いを言葉にする。

 けれど、


「今でも、いいけど?」


 リネアはシンの気持ちを知っているかのように、催促してきた。

 夜の帳が降り、虫の鳴き声が聞こえるグラウンドで、二人は沈黙する。

 そして、結局、リネアが根負けして、苦笑いを浮かべた。


「あなたは、そういう人なんだね。笑い過ぎて涙出てきちゃった」


 楽しそうにお腹を抱えて笑うリネア。笑い過ぎて、と言っているけれど。

 それは、きっと嘘だ。

 それがとても優しい嘘なのだと、シンはそう思わずにはいられなかった。

 リネアは深く息を吐き捨てて、


「その代わりッ‼︎」


 人差し指でシンの鼻を押す。


「もう、格好悪い姿は見せないで。一年前の試合みたいに格好良いままでいて」


 彼女の横暴な言葉に苦笑しながらも、シンの胸を幸福感が満たす。

 そっとボールを地面に置き、腰を落とす。シンはリネアに向かってパスを出した。

 試合では絶対にパスを出さない相手に。

 どんなに奇跡が重なっても、同じグラウンドでは戦えない子に。

 シンはパスを出す。

 彼女は真っ直ぐ前に進むためのパスを待っている。

 前にパスを出せないラグビーで、必ず前に踏み出すパスを出してくれると信じて。

 今まで黒い靄で覆われていた心が晴れた気がした。

 テクニックも身体もラグビーでは重要。けれど、それ以前に必要なことがあったのだ。

 ラグビーが好きであること。そして、自分がどうしてボールを出すのかを知ること。

 その答えは至極簡単だった。こんな異国の地まで来るほどラグビーが大好きで、力強く前に進む仲間に、大切な一歩を力強く押して上げるために、自分は今日もパスを出すのだ。


「ねーシン」

「うん?」

「いつか……ラグビーワールドカップに出場したくない?」


 ラグビーを一番楽しむには上手くならないといけない。ラグビーの魅力が最も詰まっていて、ラグビーを極めた人たちしか集まらない、最高峰の戦いであるワールドカップ。

 それに出たくないなんて言えるわけがなかった。誰もが夢見る舞台なのだから。

 シンがリネアに肯首する。すると、リネアは拳を前に突き出してきた。


「じゃあ、約束ね。二人揃って、世界最高峰の戦いに出場すること」

「ああ。約束する」


 拳を合わせて、シンとリネアは大きく距離を取った。

 戦っている場所が違っていても、シンとリネアは繋がっている。この約束によって。

 どんなスポーツでも、苦しいことはある。けれど、楽しむためにスポーツはあって、そこに観客も選手も関係ない。どちらにしても楽しむべきなのに変わりはないのだから。

 自分一人で考えてはいけない。どんなに辛くても、明けない夜はない。

 すぐそばにきっと助けてくれる人が、支えてくれる人がきっといる。

 だから、下を向かないで。さぁ、顔を上げて。

 辛くて蹲み込んでもお尻さえつけなかったら、また高くジャンプできるから。

 一人で無理なら、家族と、友達と、大切な仲間と一緒に。

 

「必ず叶えようね。この約束を。私たち二人で」


 自分は今日。

 ようやく、大きな夢へのスタートラインに立てたのだと、――シンは思った。



――《終わり》

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【短編】シンとリネアの大きな夢 雪華シオン❄️🌸 @hosiuminagi1234

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