第5話 傷

「趣味とかないの? インテリアとか、家具とか食器とか」


 軽い手荷物以外、全然置いてない。

 我ながら殺風景な部屋の自覚はあったし、彼女のほうも、緊張させてしまっているようだ。神経質というか、頻繁に体調を崩しがちで臭いも気になるし、部屋のこまめな清掃は自分のために心がけている――が、人が来ると、やはり気を遣うのだ。


「持ってても、すぐ壊すから。

 ここ狭いから置く場所もないし、最近は外にいる時間のが長くて、完全に寝るだけだし」


 その主な口実となっていた、飲食店のホール&時々の厨房スタッフを、本日解雇されてしまったわけだが。

 解雇理由の通知書とか、不服なら求めるべきなんだろうが、辞めさせられた理由が理由だから、考えるだけで億劫になる。


「今日の無断欠席ってきみだったの!?

 ほんっとごめん、顔と名前がすぐに一致してなくて」

「……いや、普段話さないクラスメイトなんて、そんなものでしょう。

 これから知ってもらえばいいんだし」


 日常、認識さえされていなかった事実に、水瀬とて愕然となったのはそうだ。そのフォローさえ苦しいものなのは彼だってわかっていたが、自分をこれ以上惨めにしないためには、必要なことだった。

 ……これから知ってもらえば、とは我ながら白々しい。

 これっきりになりたくないだけの、軽薄な下心が滲む。


「先生心配してたよ」

「今日はこのざまなんだ、大目に見てもらえないか」

「どうしたらそんな包帯まみれになるのさ?

 打撲どころか、火傷もあるみたいだけど。

 半分グレたりバイクうるさかったりする人たちと喧嘩でも?」

「事故とは、考えない?」

「だったらそも入院した方がよさげに見えるし」

「んな金あれば、こんなとこ住んでないでしょ。

 見かけほど酷い怪我じゃないし、喧嘩でもない」

「限界生活すぎない?

 国民皆保険の国で」


 大した観察眼だと想う。

 はたからそう見えてしまうのは、その通りだろうが。

 好奇心は猫を殺す、という言葉を彼女に送って差し上げようか、わりと迷った。


「ここ、一人暮らしだよね?

 そんな大怪我してて、親御さんは来ないの?」

「いざとなれば、面倒みてもらう人はいるよ。

 ……あんまり頼りたくないんだけどな」


 ついさっき、電話で口論したばかりだが。


「なんだか複雑そうだね」

「さすがに学費や保険なんかの面倒は見てもらってるよ。

 感謝してもし足りないし、必要な連絡は入れてるから」

「そっか――よかった」

「?」


 彼女がくすくす笑っていた。


「思ったより、話通じる」

「……どうだか」


 水瀬は顔を赤くして、彼女から視線を外す。


「もっと人と話した方がいいよ。

 どういう人なのか、ここに来て初めて知った」

「以後、肝に銘じておくよ。

 それで、今日はどうして?」

「あぁ……ええと」


 結は言い渋っていた。

 包帯まみれのクラスメイトには、頼れないと想うか。


「まずは話してみるだけ、どうかな。

 役不足だと思われてるかもしれないけど。

 俺は――楽にしてるから」


 水瀬は部屋の壁に背を預け、腕を組んだ。


「そうだね。どのみち、聞かなきゃ先に進まない」


 得心がいったならそれでいいと、水瀬も頷く。

 だが直後、彼女の話が始まると、彼の顔は白く硬直した。


平坂拠邊ひらさかよるべって人、知ってる?」

「――なんできみが、その名前を」


 水瀬は掠れた声で問う。そして気づいた。


「まさか父親か? でも苗字が違う……」

「やっぱり知ってるんだ!」

「!」


 しくじったと想う、すでに遅い。

 聞かれた時点で無関係を装うことだって、できたのに。


「藍野は母方の姓なの」

「そもそも俺の住所は転々としてたのに――どうしてここがわかるんだよ?」


 水瀬はあの男の名が出た時点から、不穏なものを感じずにはいられない。あの男を殺したのは、自分にほかならないのだから。


「私あの人がなにをしてる人だったか、全然知らないままで。

 うん――何年か前に、死んじゃってるのは」

「……俺が殺した」

「え?」


 結は彼の言葉に呆然となった。

 水瀬は――彼女を冷徹に見下ろす。


「もう一度聞く。

 この住所を、誰から聞いた?」

「それは――父さんの、お友達だったって女のひとが」

「それは金髪のひとか、名前は?」

「いや黒髪だったけど、そういえば名刺ももらってないな……切原くん、今変なこと言った?

 つか、急に態度違くない?」


 水瀬は目を瞑って思案する。少なくともひさめではない。

 あの人は時折、強硬な手段こそとるが、平坂の身内に自己紹介を省くような不誠実はしないだろう。かつてのゼミ生だったそうだし、隠し立てる理由はないはずだ。金紅曰く、淡い恋慕はあったようだが、不貞を働いたりはなかったはず。……わかりやすい性格なのだろうが、養い子にそこまで知れてる養母って保護者の威厳というか形無しでは?

 今回のは、そもそれどころではなくなりつつある。

 平坂が関わるなら、まずもって一般的でない「交感ネットワーク」に絡む話だ。ほかならぬ、理論の提唱者なのだから。

 考えがまとまってから、彼は慎重に口を開く。


「具体的になんと言われた」

「この近くにお父さんの知り合いがいるって。

 一発で見つかってくれてよかったよ」


 彼女の能天気さを、羨ましいとさえ思い始めていた。


「もう帰ってくれ。

 それから、二度とここに来ちゃいけない」

「なっ――」


 水瀬は続ける。


「お父さんのこと、俺から話せることは何もない。

 これ以上調べるのは危険なんだ、憎んでくれて構わない」

「待って、待ってよそんな、矢継ぎ早に言われたって、切原くんがなに言ってるのか私わかんないから!」

「二度は言わない。出ていけ」


 すでに命令形だ。


「なんで……私は、あの人の仕事、全然知らなくて。

 何してたのか、知りたかっただけで」

「仕事なら、きみの親父は人に誇れることをしてたんじゃないかな」

「そういうことじゃない」

「じゃあなんだよ、与太話には付き合えないからな! っ――」

「ちょっと?」


 怒鳴りつける水瀬は、息切れしていた。


「ここは俺の部屋だ。

 きみの居場所じゃない、もうほっといてくれ」


 血圧が安定しない、瞼の裏から血がこみ上げ、視界がまた紅く滲む。

 観測所へ向かわなければ、早くここを引き払わないと――なにより、まだなにも知らないこの人を巻き込むわけにはいかない。

 この人にだけは、異能なんて知られるわけにいかないのだ。

 藍野結はまだ、ごく普通の日常へ回帰して許されよう、今ならまだ間に合う。

 たった今確信した――俺とこのひとの間には、溝があると。

 あらゆる感覚に空間把握が、歪だ。立ち眩む。過剰な情報が空気中から流れ込むのを、脳が抑制できていない。補助脳と同期するとき、稀に起こる不具合だったが、緋々絲に乗るようになってからはひときわ。

 昨日が初の実働というのも、影響しているはずだ。

 聴覚が、自分を糾弾する声を拡大する。


「そんな状態のひとをほっとけるわけないでしょ、救急車呼ぶ?

 わけわかんないよ、さっきからどうして急に、おかしいよ切原く――」


 放っておいてくれるだけが望みなのに、彼女はいつまでも聞き入れてくれない。やっとつかんだ亡父への手がかりというのはわかるが、いい加減しつこい。


「黙れ、黙ってくれッ!」



 ――――――浅い、風音がした。

 気づけば水瀬はその場で頭を抱えしゃがんでいて、風音は自分の異能が発したものだと、気づいて彼女へ向いたがすでに遅い。


「ぁ」

「なん……なの」


 後ずさる少女。


「……違――そんなつもりじゃ……」

「なんで今、切れて――風、かまいたち?」

「ごめ」

「いやぁッ――――――!!?」


 頬から縦に流れ出した浅黒の紅は、水瀬の背筋が冷えるほど鮮やかで、まるで状況を理解していない彼女は、動揺して部屋を飛び出す。


「待って!

 ……ごめ……ちがう……こんなことしたかったわけじゃ……ごめん、ごめんなさい……また……俺がッ」


 また大切な人を、――俺が傷つけた。

 立ち上がって、はずみで追いかけようとした膝が笑って崩れる。

 追ってどうする? 今追っても怖がらせるだけだ。

 もう、取り返しはつかない。



「鞄、部屋に忘れた……どうしよ」


 勢いで二階の部屋から飛び出し、安アパートの階段を駆け下ってしばらく――やがて電柱の前で立ち止まり、息を整える。

 こめかみが緊張に脈打つが、思考は恐怖でパニクっていた瞬間からすると、だいぶ落ち着いた。物理的な距離が、心理的な負担を減らしてくれたようだ。

 夕刻、西日が鮮やかで、外の冷たい空気が、不気味なほど心地よくて、変な笑いがこぼれる。


「戻るの、今から?」


 豹変した彼が察知した危険、その正体が、あのかまいたち?

 いや――あれはおそらく、まぎれもなく彼自身から発動した超常だ。

 右頬についた切れ目、手を添えて、徐々に確信が深まる。


「わざとじゃ、ない……として」


 結が平坂の名を口にしてから、彼の態度は冷ややかで、体調の悪さもあったようだが――、


「どうして……どうして君が、そんなつらそうな顔するんだよ。

 私の言うことなんて、聞いてくれないで」


 こんなところで立ち止まって考えても、答えが出るわけはない。

 それでも考えずにいられず、彼女はふたたび彼と顔を会わせることを、恐れていた。


「災難だったようだねぇ、そこのきみ」

「!」


 背後から声をかけられ、思考を打ち切られる。

 振り向くと、そこにいたのは奇妙な青年だった。

 年は自分と同じくらいの、茶髪でジーパンにカッターシャツ、その上から白衣を羽織っている。理知的に見受けるが、標準的な学生ではなさそうだ。

 いや――まさか、なのか?


「あなたは」

「僕の名前は天縫あまぬい金紅ルチル

 人は僕を天才と呼ぶのさ」

「?」

「その顔の傷、今なら僕だけしか見ていない。

 どれ、なんとかしてやろう」


 その尊大な態度に、結は身構えずにいられない。

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