第4話 聖母マリア
閉鎖病棟でのお風呂は、月水土の週3回。午前に2時間、午後2時間男女交代で入浴出来る。隔離病棟は初めは入浴できない。
状態が落ち着いてきたら、家庭用のユニットバスで一人で入浴できるようになる。
あと、体に入れ墨が入っている場合は、そのユニットバスに入ることになる。
ほかの患者を刺激しないためらしい。
みちるはいつもそのユニットバスまで入りに行っていた。
「足首のタトゥーなんてたいしたことないのに」
と思っていた麻衣子だったがある日その理由を知った。
熱く沸かしたお風呂に筋彫りだけの聖母マリア像の絵が、ゆっくりと沈んでいく。
「ふぅーっ」
と、お風呂の天井を見つめて、みちるは頭までお湯に潜り込んだ。
自分の居場所はここなんだと言わんばかりに。
「麻衣子姉ちゃん、私ね背中に入れ墨してるんだぁ~一面に」
そう言ってマウントを取ろうとするのだけど、麻衣子はそれが何か?とでもいう様に
「ふーん、何の絵入れてるの?」
「マリア像だよ、綺麗でしょ?!」
みちるの性格とは正反対のものを彫っていたので、妙に可笑しくなった。
「どうしてそれにしたの?」
とみちるに聞いた。
「私、娘がいるから、そんな感じかなぁって」
背中のマリア像が涙を流している気がした。
ほかの入院患者から、みちるには娘がいるとは聞いていた。
「娘さんは元気なの?」
「施設に預けてあって......まだ会わせてもらえないみたい」
「何歳なのよ?施設へはいつから?」
「今7歳かな。施設へは5年半前かな......」
なんて事だ......と思った。
何が聖母マリアだ、とすごく腹が立って仕方なかった。
麻衣子にも娘と息子がいた。母子家庭ながらずっと一緒に暮らしてきた。自分一人で育てて来て、今も私の帰りを自宅で待っていてくれている。
麻衣子の娘は18歳。息子は12歳だった。
入院中は娘が母役となって頑張ってくれていたのだ。
そしてみちるは少し古びた娘の写真を見せてくれた。児童養護施設にいる娘の写真だった。
「私には似てないけど可愛いでしょ?」
みちるみたいな派手な顔ではなかったが、子供らしく細身の可愛い女の子だった。
「今度のクリスマスの前に会えるの!何年ぶりかなぁ」
と嬉しそうに話したので、一瞬みちるがいい子になったように思えた。
ある日廊下でひそひそとみちるとみちるの主治医が話していた。
「だから今回は娘さんにはまだ会えないという判断になってしまったんだよ」
みちるは大きな瞳を斜め上の天井あたりに向け、
「そうなんだ」
と、一言だけ言った。
そのあと食堂で下部達に
「娘に会えなくなった......」
と、みちるが言った。周りの患者にも聞こえるように、
「病院の許可が下りなかったの?」
「児童相談所がダメだって」
あとでよくよく周りの子たちに聞いたところでは、施設に預けられることになったのは、母親からの幼児虐待によるものだった。
そんなのでは、病状もとても良いわけでもなく、また娘への虐待も心配されるので、結局は会えないのだ。
みちるは幼い娘を虐待していた。だから会えないのに、みちるは翌日にはそんな話なんかなかったかのように食堂で仲間とふざけていた。
本当に本心や、思想とか、全くわからない。
泣くでもなかった。
みちるは絶対に泣かない。
なぜなんだろうか......なぜ泣かないんだろうか。
強い女などではない。何も感じない女だった。
みんなを脅したりする、その閉鎖病棟の暴君のようでいて、賢い相手にはめっぽう弱かった。機嫌を取るときには猫なで声を出す。
ヤバい状況を乗り切ると、また態度が悪くなる。
ほかの弱い患者は、みちるのご機嫌取りをするしかなかった。
ほんの一年半ほど過ごした子供なら、なおさら可愛いはず。会いたくて会いたくてしょうがないはずだろう。
しかも一年半も一緒に居たとも思えない。
右翼の幹部でみちるも覚せい剤漬けにした最初の夫となった男も、娘の子育てなんて出来はしない。
刑務所に入り、みちるはほかの精神科病院に入院したのだから、もっと幼い頃に別れていたはずだ。
そんな考えはただの一般的な考えなのだろうか......
みちるの感情は病気によるもので普通なのだろうか......
一番の被害者はみちるの娘さんだろう。
そしてある研究では母親が統合失調症の場合、子に遺伝する確率は80%と言われている。娘さんはそんなリスクを背負いながらも両親に会うこともなく育つことになる。
ただ育つ環境やストレス度合いによって少しの変化は期待できるかもしれない。
みちるはそんな事も知らず病棟内で恋をしていた。
麻衣子はだんだんと、そんな様子のみちるを敬遠し始めた。
みちるも自分に従わない麻衣子にイライラし始める。
その日の夕方も、みちるは聖母マリアをそっと撫でて、
「あ~っ」
と大息をつき浴槽に沈むのだった。
本当に全く何も考えていないかのように。
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