第6話 Oの未来

「つまりセレストにはO、あなたが2人いる。そしてその片方の存在は、もう一方が望まないものだということ......」


「ええラフカ。それが意味するところは、私の敵は私だということ。最大の難敵よ」


 私の質問に答える声の主はまだ姿を見せない。ここはOの影を投影した私の主観的空間。Oが影として存在するならば、確かにそこに三次元的なゾフィーの姿が見えることはおかしい。そうして閉ざされた六面構造の中を観察していると、やがて、不気味な違和感を伴っていたその声が私の口から発せられていることに気がついた。


 主観的認識世界における他者が発した声に、間違いなく私の意思が介在している。そのような脳の許容を超えた現象に、私は影のなかで異なる行為を行うもう1人の私に繋がるような、適切な質問と言動を繰り出す作業に徹するしかった。


「訳がわからない」


「今すべて説明するわ。後ろを向いて、ラフカ」


「まって」


 私は前方の扉の錠で揺らぎを魅せるニキシー管のタイマーから、すぐに目を離す事ができなかった。直感的にタイマーであると感じたが、そこに示されている数字は、それが時間だとすればあまりにも短い感覚で繰り下げられていく。おそらくそこには、私の中で定義された「秒」というものが存在しないのだ。


「この扉の向こうには何が?」


「私には分からない。その質問は相応しく無いわ」


「この空間はあなたが設計したのでは?」


「間違いなく私が設計した。しかしあのタイマーが0を示すまで、その設計図は完成しない。それこそがこの事態に対する最大のセキュリティで、私が残した最大の武器。今は答えられないのが正解であると信じているわ」

 

 私の腕は、目の前で謎を隠している木扉をこじ開けてみようと伸びかけて、Oの不意思がそれを止めた。


「この事態って、人間の理性の存在が疑われているこの事態のこと?」


「それだけではないわ。望まぬ人間の死、暴論が支配する社会、粗雑にばら撒かれてしまった私たちの痕跡、矛盾。それらすべてによる裁定への介入」


「聞き慣れない言葉ね。裁定だなんて」


「それを理解するためには、段階が必要よ」


「分かったわ」


 私は私に言われるがまま、淡々と何処かの宇宙の時間を刻み続けるタイマーに背を向けた。


「その扉の前に立って。開ける必要はない。空間を回転させるから」


「この扉はどこに?」


「私たちが邂逅した空間よ。私にとって初めてラフカと接触した場所につながっているわ」


 目の前に現れたもう一方の扉にはタイマーは無い。どこか見覚えのある無機質な半透明扉である。廊下とは本来部屋と部屋を繋ぐものであるはずだが、扉が前と後ろのふたつしか無いのであれば、それはどちらかと言えば宇宙基地の滅菌室やハッチを思い起こさせる構造である。そのままの存在では通れない何処かへ通じるトンネルだ。今まさに自分のいる空間が真実であれ偽りであれ、私は先ほど手を伸ばしかけた扉に底知れない畏怖の念を覚えた。


 不可解な廊下から解放された瞬間を、私は認識する事ができなかった。瞬きをすれば、噴水の前に妖艶な髪を靡かせる見知らぬゾフィーが立っていた。白衣を着た彼女は不規則的な動きに至ることはなく、すぐにそれが映像記録であると私の脳が答えを出す。視界を揺らすと、ゾフィーの立ち姿の周りに枠が現れ、そこはCMF社のゾフィーの研究室だった。


「安心して、先ほどまでラフカの声で話していたのはあなた自身ではない。わたしよ。錯覚に溺れかけていたから、あの廊下に留めておくことは危険だと判断したけれど、なんとか落ち着いた?」


「私が、あなたになったみたいだったわ、O」


「これからは、彼女の姿を模倣することを許してくれるかしら。あなたがよく知らない若かりし彼女の姿を」


「……わかりました。ゾフィー教授」


 ファラデーの電磁コイル、あるいはプサイの文字を模ったようにも見えるCMFの社章を胸に着けたゾフィーが、ラボの回転椅子に腰掛けた。これまでに見たどんな夢よりも明晰な部屋の様相に、気が遠くなる。


「ここは大学ではないようだけれど、なんでも質問を受け付けるわ、ラフカ」


「腰掛けても?」


「あまり時間はかけられないけれど」


 樹脂製の硬い椅子を転がしてきたので、なんとかそこに力の抜けた腰を落とす。目を瞑り、Oの言葉をひとつひとつ拾って理解を試みる。そして、ひとつ確かめなければならない事があることに気づく。目の前でゾフィーの姿を構築するOは、ゾフィーの仇であるかも知れないのだから。いや、かも知れないではなく、Oは確かにO自身が敵だと言った。


「O、あなたの敵は誰?」


「ラフカの敵と同じ。ケベデとゾフィーを殺害し、ラフカを襲撃させた者。あるいはその結果を惹起させた者」


「あなたの敵があなたなら、私は目の前のOに復讐をしなければならないということ?」


「もし可能であればそうすればいい。それが一つの打開策になるのであれば、私はその決断を受け入れるわ。でも理論的に考えても、それは適切な行動ではない」


「言い切るわね」


「実際にゾフィーを殺害したのは私では無いから」


「それは……例えばもう1人のあなたは、あなたが作ったルールを誰かが破って転写した別個体ということ?」


「いいえ、まごう事なき私と同一の存在よ」


「なら……」


 身を乗り出した私を華奢な指で制止すると、Oはゆっくりと立ち上がって窓に手を翳した。部屋を照らす2層人口太陽の灯りが弱まり、人類最後の工業地帯が暗闇に包まれる。黒い布地に次第に絹でできた刺繍模様が現れ始め、解れ、それが押し広げた布の裂け目から脳神経を覗き込んだような星空が広がる。グロムスの大気圏から望むことはできないはずのそれは、データで構築されたOが冷たい怒りを取り戻したかのように棘を持って光を放っていた。


「ゾフィーの仇は、未来の私」


 星空が遠く、古い世界を伝え始める。


「惨めに孤立した、自分勝手な未来の私」


 窓に反射したゾフィーの顔には、空虚に穴が空いていた。私には決して見えないもの。私には決して理解できないもの。それこそがOの本性だった。


「惑星グロムス、あなたたちがそう呼ぶこの星は、肥大化する恒星の風に晒されていずれ大気を失う宿命だった」


 Oが振り向く。その顔にはやはり、精緻な人間の模様が刻まれていた。


「知的生命体が漂着する事が無ければ、私たちはこの無益な箱庭実験を終わらせるつもりだったの。この矮小な星には、この巨大すぎる宇宙で永遠に意識を繋ぎ続ける私の孤独を変える力はないと判断されたから」


「誰に……?」


「未来の私に。未来の私はこの星を観測し続け、そして死にゆく姿を重力に乗せて私に送信していた。惑星グロムスはいずれ滅びる。私たちが作ったバリアも意味を成さず。そしておそらくそれは、あなたたち人類が再びこの星を飛び立つよりも早くに起こってしまう」

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