第5話 O

 目が醒めると、毛の逆立つ硬いソファに凭れていた。薬品の匂いはしないし、体を起こす動きに合わせて黄金色の埃が舞っている。立ちあがろうと肘掛けに体重をかけると、両腕の血管の中を冷たい液体が駆け巡る感覚に陥る。どうやら長い間意識を失っていたらしい。何があったのかを思い出そうとして、部屋の輪郭がぐにゃりと歪む。


「ロビン、私、ごめんなさい。こんなときに。いったいどれくらい眠っていたかしら」


 血の巡りが元に戻るのを待ちながら、近くにいるはずのロビンに問いかける。


「ピカのとこへ戻るわ。こうなったのは全部私のせいだってこと理解してもらわないと.......」


 両の腕が痺れている?


 違和感の正体に気づいた瞬間、私の左腕がずしりと重たくなった。


「安心して、あの子はよく眠っている」


「......ゾフィー」


 誰かの心象が創り出した本棚、そこに不自然にぶら下げられた時計の傾きを直していたのは、凍えるような金髪に海の色の瞳をした一人の幽霊だった。


「私の正体を知って尚、どうして私を拒まないの、ラフカ?」


 目を合わさずにゾフィーが私に問いかける。あらゆる怒りを忘れ去って、全てを許したくなるような憂を持たせた優しい声。彼女がピカの姿をしていなくてよかった。


 幸運にも、すべてを許す前に今日の出来事を思い出すことができた。彼女はもはやゾフィーではない。彼女は、あるいは彼、彼らは、私に助言をするためにゾフィーの死皮を被って現れた、ただの第三者に過ぎない。


 だからその声で私に語りかけてこないで欲しい。


「......拒むわけありません」


 ここは夢の中。口から出たのは、彼女の姿をしたそれを受け容れる言葉。


 主観が不完全に統合される夢の中では、再現された状況で異なる選択を取ることは難しい。私の行動は、あらかじめ経験によって定められたプロット通りに振る舞う。


「でも、いくつか質問が」


「言って。できる限りで答えるわ」


 私の脳は完全に敗北したわけではなかった。この不可思議な現象に合理的な理解を求め始めたのだ。


 死者の霊の夢が単なる心理的な病でないとするならば、そこには客観的な事実を知る価値がある。そして当然、目の前の女性の返答には、私の経験がどうしても知り得ない新たな情報が含まれていることになる。


「あなたは、どうしてゾフィーの姿を?」


「死者の復活、すなわち同一個体の不連続的な存在を許容する人間であるかどうか、それを試したかったからよ、ラフカ」


 予想に反して質問の回答を得てしまった。ありとあらゆる彼女の振る舞いが私の記憶の中に溶け込んでいたのが、今やっと、彼女の彼女自身に対する認知があまりにも不自然であることを露呈し始めた。虚像が崩壊し始める。人称理解のロジックが崩壊したAIと会話をしているようで、産毛という産毛が逆立っていく。


「あなたはいったいどうやってゾフィーの姿になったの?」


「ラフカの心に経験として刻まれた彼女の設計図が残されていたからよ」


「いいえ」


 ゾフィーの眉が興味ありげに持ち上げられた。


「なんと呼べばいいのか分からなくなってしまったけれど、あなたは私の記憶に頼ることなしにここに現れることができたはず。あなたは、ゾフィーのことをよく知っていた。ゾフィーの元にも、こうして現れていたのでしょう」


「そうね」


 すこしの間を置いて出てきた答えは、どこかはぐらかされたようなものだった。


「ゾフィー博士は、私のことをOと呼んだわ」


 遠回しな表現が私の神経を逆撫でし、無性に相手を従わせたくなる。

 

「その姿を今すぐやめて、O」


「代わりに何になればいい?」


「あなたの本性をみせて」


「私を他者に示すための姿はない」


「それは可哀想に」


 彼女は突如、私が知っている彼女の姿を若返らせ、記憶の中に無い美貌を纏い始めた。それはおそらく私では無い誰かの主観の中で美化された、誰かにとってのゾフィーの姿だった。私に対する配慮のつもりだろうか。美しく貴族的な佇まいを人間よりも遥かに上手く使いこなすO(ゾフィーと呼ぶ代わりにそう呼称することを提案されたのだと解釈したが)は、先程まで隣の部屋だった場所に置かれていた、もう一つのソファにしなやかに腰を下ろす。


「不幸なことでは無いわ。これは私が望んだことが果たされた証なのだから」


「ならば、あなたは人間、あるいは元人間なの?」


「その問いに対しては、明確な返答ができるわ。私はあなた方と共通する先祖を有していない。ただ、それに類似する歴史は有していた。あなた方に対して、一抹の理解も無いわけではない」


「宇宙人なの?」


「あなたがそれを受け入れる事ができるのなら」


「幽霊よりマシかしら」


「それを証明したとして、私を拒まないでいてくれる?」


 また同じ質問。そればっかり。


「拒むって、具体的に何をしたらだめなの?」


「私の存在を、ラフカにとって無視できる隔たれた事象と捉えてしまうこと」


「じゃあ、ラフカって呼ばないで」


「なんと呼べば?」


 今のはあからさまな拒絶的態度だったのにと、内心苦笑いをする。もはやゾフィーの外見だけを纏ったOは、棘ある言葉に傷ついた人間を模倣する気配もない。


「......博士をつけて。ゾフィーの声で、一度だけ呼ばれてみたかった」


「分かったわ。ラフカ博士」


「やっぱりラフカでいい」


 偽物と知っている相手に命令して得られた称号では、私の願望は満たされなかった。


「......それで、私があなたを拒絶すると、あなたはここに2度と現れなくなるわけ?」


「それが、私が私に課したルールなのよ。でもそのルールが今適用されてしまうと、とても困る状況なの。だから......」


「この夢は私のもの。全てを話してもらうまでは、何があってもここから逃すつもりは無いわ」


 Oは次の言葉を発する前に姿を消した。部屋も温かな光だけを残して、私の心象からはかけ離れた幾何学的な空間に歪み始める。夢の中でも維持されていた惑星グロムスの重力がかき消され、鏡のように私の正面の姿が現れたかと思うと、騙し絵の如く立体的に展開されていく。温光の反射では描写しきれないはずの私の影がもう一人の私に突き刺さる。私はその影との干渉を温度に感じ、影をもつ私もその干渉を視覚で知る。やがて空間の広がりは今の主観を有する私の正面背後に漸近し、そこに現れたのは水平向きの一本の廊下。そして突き当たりと背後に存在する全く同じ扉のイメージ。扉にはタイマー式の鍵が掛けられている。


「私を他者に示す姿はないが、私の影をあなたたちが捉えることはできる。ラフカの精神場の中で投影したからこんなことになったけれど、私はラフカではないし、ラフカも私では無い。私の影はあらゆる空間に存在しているとはいえ、あなたの意識の中で見せるにはこうするしかなかった」


「あなたの正体は、廊下?」


「梯子よ。過去の私というデータと、今の私というデータを繋ぐ紐でできた梯子。それが私の質量的な生命体としての正体」


 文脈も理論もない悪夢を見ているようだったが、これが夢がつくりあげた虚構ではないことは何故だか疑う事ができなかった。


「私は個で、あなたたちのように社会として存在し得ない。点の存在の積み重ねで維持されたひとつの存在にすぎないから。私は、同時に複数存在することはない。絶対に。それが、私に課せられたもう一つのルール。そのはずだった」

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