第3章 You can be safe

第16話 疑うべき何か

 ピカは相変わらず口を閉ざしたままだった。扉の裏に格納されていた医療ドローンが滑るように彼女に近づいたが、特別な措置は取られなかった。怪我をしている訳ではないため問題はないのだが、簡易嗅上皮が脳と同期されていない今、せめてその趣味の悪い香水の匂いが染み付いたシャツを脱ぐよう指示して欲しかった。


「それで、その顔はどうしたの」


 私がもう一度声をかけると、ピカは病人と見紛うほどの真っ白な顔をこちらに向けた。義務感だけでその場に立っているのか、まるで感情が見えない。私の知る野生的な彼女はどこへ行ってしまったのか、今はまるで手術を避けて通れないと悟った子犬だ。まだ私を「宇宙人」だと勘違いしているという訳ではなさそうだが、いつもなら無言で不快さを感じるまで体を寄せてくるところ、部屋の入り口から一歩も動こうとしないのは明らかにおかしい。


 どこかで彼女とのプロトコルを破ってしまったのだろうか。あるいは、私のせいではないかもしれない。わだかまりを解消しろ、と言うジュラ委員の声がロボットの処理するコマンドのように頭の中で繰り返される。


「もしジュラに脅されて来たのなら、私から文句を言っておくわ」


「これのこと?」


 とうとう掠れ声の返事が返ってきた。ピカはネックレスを胸元から引っ張り出すと、ロケットの裏に貼り付けていた識別子を剥がして、私に投げてよこした。手のひらに乗っかったそれは、セレスト公認ジャーナリストが携帯するものだったが、何度それをひっくり返してみても視界の隅で彼女の登録番号が点滅することはなかった。


「たしかに、あの委員はちょっと怖かった」


 ピカはそう言って初めて笑い声をこぼした。その自嘲的な笑みに、突然、私が一昨日彼女に持ちかけた交渉がいかに恥ずべきものだったかを思い知らされた。ジャーナリストが保安局員、まして中央委員会が関知していない超法規的組織の肩書を持つことの意味を、私はすっかり失念していた。彼女自身が行使可能な取材特権は法的な意味を持たなくなり、そして何より彼女と繋がりを持つ記者団体は、政治家や合法警察から不当に疑惑の目を向けられる羽目になりかねない。私がなんと謝れば良いものかと考え込んでいると、それを見透かしたかのようにピカが言葉を続けた。


「でも別に、それ自体ははっきり言って枷みたいなものだったし。何か成し遂げるなら、ちょうどよかった」


「ごめんピカ。私が身勝手だった」


「よかったって言ってるでしょ。あのね、ラフカを追いかけるって決めたのは私。巻き込まれる覚悟が無かったのも私。こうなったのは、ラフカじゃなくて私自身が望んだからなの。ラフカなら理解してくれるでしょ」


 理解を求め、共感はするな。ゾフィーの受け売りだが、私たち2人の関係を定める最も根本の規約だった。私の目の前の選択肢は、口を閉じる以外に残されていなかった。ピカはネックレスを服の中にしまい、息を整えて言った。


「ごめんね。間に合わなくて」


 彼女の言葉が引っかかった。私の知らないところで、いくつかの言葉が省略されているような気がした。


「なんのことかしら」


 私の返事が想定外だったのか、ピカの目が一瞬驚きの色に染まり、そのまま一歩足を進めようとした。しかしその目はすぐに半透明な前髪の下に隠れた。床を睨みつけて、その小さな口の中で悪態をつくように答えを言った。


「ラフカのことを、3度も疑って。助けを求められてるのに、死にかけてるのに銃を向けた。私が、もっとはやく......!」


 口元を手で覆い隠して、一言吐き出した。


「友人失格だ」


 私は迷うことなく駆け寄ろうとした。しかし同期されていない手首の関節は内部で砕けるような音を立てて動いてくれなかった。声をかけようと舌に力を込めるも、何と言えばいいか分からず脳の物理回路が停止した。そうこうしているうちに、ピカは扉にもたれかかると、ずるずると滑り落ちて床に座り込んだ。


 わだかまりを解消しろとはそう言う意味だったのかと、心の中でジュラ・ホーンを呪う。推測に過ぎないが、ピカには5課の組織と目的を説明するだけしたのだろう。それでもってあとは私の任務だとかなんだとか言い訳をつけて上官全員で彼女を放置していたに違いない。確かに彼女は少々面倒くさい性格をしている。だが私にどうしろと言うのだろうか。


 彼女とは昔から一緒になって多少の悪さをしたくらいで、特段何かを知っていると言うわけでもない。私が情報総局に侵入した時を取り上げるなら、おそらく2人の間にあった熱意というものは向かい合っておらず、単なる契約関係に落ち着いていたはずだ。ただ、彼女ほど何かと期待できる人物の名前を他に挙げろと言われて困る程度には、その頭脳と運とを評価しているのだが、それでも知っていると言えることは、犯罪心理学を専攻していたということと、酒と女の趣味、いくつかの特徴的な仕草だけ。ましてやシラフの彼女は初めてだ。通信越しですら話したことはないというのに。


「とりあえず、なんであの場に居たのか、落ち着いて説明してくれる?」


「......シアターでロビン博士と会話してるとこを盗み聞いたの。それで私もカオの奴に会いに行った」


「まって。それは、どうやって?」


「気づかなかったの?」


「気づかなかった。一体どうやって?」


「ラフカの襟に紙切れを貼ったの。古典的な方法だけど、輸送車に乗り込むまでの会話は振動から解析できたわ」


「うそ、あんな紙で?」


 称賛の意と共に飛び出した言葉は、思いもよらず逆効果だった。


「本当に、わざと残してたんじゃ無かったんだ。完全に私の1人走りだったのね」


 ピカは苦笑いをして立ち上がった。私は待ってと声をかけたが、彼女はそれを無視して、埃のついているはずもないシャツの裾を手で払った。


「カオには会えたのよね。エドメのこともそこで聞いたんでしょ。それで、なんで私が宇宙人だと思ったの?」


 ピカは無言のまま私に背を向けて部屋から出ようとする。


「じゃあ、私が助けを求めたって何のことよ。教えて、疑うべき何かがあったんでしょ?」


 治療室の扉が開いたが、レールの手前で、ピカは突然足を止めた。


「カオには会えなかった。ラフカの居場所は護衛官に訊いた」


「じゃあなんで......」


「なんでだろうね。冷静に考えればそんな風には思わないよね。ラフカの言葉で言うなら、私の無意識てやつだと思う。たぶん、ラフカが逮捕されたときから疑ってた。ずっと怖かった。本当は宇宙人が、ゾフィーを嵌めたのがラフカじゃないかって。そうじゃないと信じたくてあれこれ調べまわったけど、それでもやっぱりラフカは私の知らないことをたくさん知ってるから」


「待てってば」


 ピカは息を吐いて、レールを跨いだ。


「ちょっと踊ってくるだけ。ラフカの記憶は私も見た。もう疑ってないし、約束は必ず果たすから」


「なにそれ、約束って何?」


 ピカは振り返ることなく、速足で無機質な廊下の奥へと消えていった。私は痺れを感じる頭を薄い枕に沈めて、しばらく呆然として天井を眺めていた。




「覚えのない約束ほど怖いものはないですね」


 重たい頭だけを回して声の主を探す。部屋に入ってきていた赤髪の女に気が付かなかった。肩からは携帯型立体投射機を重たそうにぶら下げ、足音を立てながら部屋の中央までやってくる。医療ドローンが近寄るが、平然と爪先でそれを押し返した。


「シャニーア」


「どうも、博士。それとも課長か。課長は似つかわしくないな。CMFにいた時は割とあなたのこと信仰していたんですけど、案外悩みは人並みなんですね。好きですよそういうのも。これからよろしくお願いします」


「よろしく。ごめんなさいまだ若いせいで。ところでケベデは元気にしている?」


「あの歳でそんな馬鹿な。さっさと膵臓のひとつくらい私に取り替えさせてくれないかしら」


 相変わらずの早口で笑えない冗談を言いながら、私の頭のすぐ横に三脚を組み立てて薄い反射板を広げた。接続端子には首都警察病院の管理番号が彫り込まれている。面会時間管理の為か、或いは新型を導入する予算がないのか、シャニーアが起動させると、緑のランプが点灯すると共に錆びた土台から打刻用の茶色いシートが吐き出された。


「何してるの?」


「私、昨日から徹夜なんです。ここの法医学博士、エドメの半壊した外部記憶装置を一目見て、事件後すぐのホルモン状態をヒントにすれば再現できると言って聞かなくて。技師は医者じゃないっての。ところで博士、怪我してても出来ることはありますよね。ロビン博士が、暴動はもっと大きな事件のカムフラージュかもしれないって。私これからまだ14時間ほど、生きてる人間の検死をしないといけないので。彼の妄想を優しく受け止めてあげてください。それでは」


 まるで1人だけ何の悩みもないように振る舞うシャニーアは、かすかな放電音と共に私の目の前に現れたロビンの胸像と入れ替わるようにして、ヒールの音を立てて部屋から出ていった。 


「博士、目を覚ましたのか。シャニーアは? 彼女に話したいことが」


「ロビン博士」


「すまんが後にしてくれないか」


「ロビン博士、私にも新しい仮説が。2人でゆっくり話しませんか」

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