第8話 二日目 日暮れ

 蒸気機関車がホームに滑り込んだ。

 私はホームに降り立ち、改札を抜けて三角屋根の駅舎の前に立った。

 夕陽に三角屋根の緑色が鮮やかに見えた。

駅前には真新しい陸橋が国道を横断していて、駅前高架広場はまだなかった。仕事を終えた観光バスがそこで休憩していた。

 陸橋は通りの対岸と大黒町側をつなぐ2本が交差していた。私はその階段を上り、路面電車の電停へと降りていった。

 丸っこい車体を揺らしながらクリーム色の路面電車が電停に入ってきた。小銭を選別して、乗り込んだ。騒音の中で吊り革に掴まりながら、絵葉書の住所を見つめていた。母の住所は大橋電停のすぐ奥にあった。

 その場所は原爆で亡くなった祖父が残してくれた土地だ。しばらくは貸し土地として、製材所の資材置き場として使われていた。祖母が亡くなり、私が大学在学中に父が急逝した後、実家の相続税の支払いのために処分した土地である。その後は関西で就職したので、再び訪うことはないと思っていた。

 路面電車を大橋電停で降りて、なぜか肌に粟立つような緊張感が走った。とうとうここまで来た。もう稲佐山の影に日は落ちて、とっぷりと闇の帷が差している。


 長崎の土地には借主の製材所の倉庫が立てられていた。

 差し出し人の住所はここだった。背の高い開放型の倉庫に積まれた檜から良い香りが歩道まで染み出していた。

 その倉庫の一角に、事務所と思しき区画があり、電球の灯りが漏れ出てきていた。もう夕餉の時刻でもあり、誘蛾灯に誘われた蛾のように吸い寄せられていった。

事務所と思しきそこから煮物の匂いが換気扇から漂っている。私は上着を脱いで、シャツの右袖を捲った。

 ようやくここまで来た。意を決して磨りガラスの入った格子戸の前に立ってノックをした。母の、そして自分の苗字を呼んで誰何した。

 奥にひとの気配がして、立ち上がってこちらに歩んできた。

「どちら様」という硬めの女性の声がした。

「僕です」と答え名前を名乗った。

がらがらと音を立てて、引き戸が開きそこに若い女性が立っていたが、怪訝そうな表情は変わらない。背後に灯りを背負っているので、余計にそう見えた。

 私はその眼に、右肘を突き出した。自信があった。この年齢になって容貌が変わっていても、肉親ならそれで判る筈だ。

「ああ」という苦悶に近い声が漏れた。そして「貴方なの」と声が柔らかく響いた。涙で前がゆらりと崩れていった。


 簡素な部屋に通された。

 事務机が一脚、障子越しに上りかまちの六畳ひと間の居間、押入れ一間の簡易宿泊所のような家だった。そこの土間に水道と黒い五徳のガス台が一口だけあり、煮物の鍋が掛けられていた。そして空中に傘を持った裸電球が太陽のように輝いていた。

 母は煮物を下ろして、薬罐をかけてマッチを擦って火を付けた。

 しばらくしてちゃぶ台がその居間に置かれて、お茶が出されていた。ふたつの湯気を見つめていたが、母は繰り返し私の顔を見ていた。和服でぴっちり正座した母に、私は持たずに直ぐに足を崩した。

「本当にお父さんにそっくり」と呟いた。

 もう隠し立てをする事なく、これまでの経緯を語った。

「お母さん、実はね。お父さんと三人で食事がしたいんだ。僕の生涯では一度も記憶になかった。そして僕が二人にご馳走してあげたいんだ」

 冷静に見れば奇妙な光景だった。現在の私の年恰好は父親よりも幾つか上で、母とは干支がひと回り違う。

「そうね。そうしましょう。折角こうして訪ねて来てくれたのだからね。でもね、今晩だけは私の手料理を頂いてね。それも私が出来なかったことだから」

 母は土間に立ち、薬罐を五徳から下ろして、干物の袋を開き始めた。

「燗をつける?」と尋ねられたが、「いや、呑めないんだ」と返すといかにも楽しそうに母は笑った。

「そうよね。私が産んだ子供だものね」

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