第3話 多感な高校生活

16歳、徳島県立阿波高等学校普通科に入学します。高校1年生16ホームというクラスでした。担任の先生は奈良女子大卒多分年齢20代だと思います。情熱を持った熱い先生でした。この先生も尊敬していましたし、好きな先生でした。ある日のホームルームでこの先生が自分のことを語ってくれたのですが血液型がRHマイナスで非常に少なく生活していく上で大変なことのようでした。でも明るくて常にポジティブな先生でした。今でも顔を思いだせます。

 部活に入ろうと思い当時サッカーが好きでサッカー部に入りたかったのですが親父に運動部に入ることを反対されていました。運動部に入ると勉強しなくなると思っていたみたいです。子供に余分な期待を下はダメ。親が思っているほど子供はそんなに賢くない。トンビが鷹を生むわけがない。そこだ文化部の中学校の時の親友(体育館の裏で殴り合いの喧嘩をした友人です)が文芸部に入っていて誘われてはいりました。この文芸部に関しては対して活動はしていないのですが、隣の部室にJRCがありました。このJRCの部長(団長・女性)と文芸部の部長(女性)が親友同士でよく隣同士で交流がありJRCの部長と知り合いひとめぼれをしてしまいます。そんな関係でJRCにも入部をすることになります。部活が終了後毎日この部長を送って帰ります。部長の家は学校から徒歩10分ぐらいのところでしたのでいつも送って行きました。彼女の家の前に鎮守様がありそこのブランコで毎日30分はいろいろな話をすることとが日課でプラトニックなきれいな思いでです。彼女が3年生になってからは受験勉強と補講であえなくなります。彼女が卒業するまでは交換日記をつけるようになります。その後大学で彼女にふられるのですが大学委時代のエピソードで話します。

 2年生になってJRCの部長(団長)になります。少しだけJRCの紹介をしておきます。JRCとは青少年赤十字(ジュニアレッドクロス)の略です。「目的を達成するために、「健康・安全」「奉仕」「国際理解・親善」の3つの実践目標を掲げています。また、主体性を育むために「気づき」「考え」「実行する」という態度目標を掲げています。」ジャン=アンリ・デュナン(第1回ノーベル平和賞受賞)赤十字の父と言われています。この目的の活動の中で阿波高校のJRCは近くに筋ジストロフィーの国立療養所があることを知り慰問の活動をすることにします。JRCのこの活動を慰問という言い方は失礼に当たるということで訪問と言い換えるようにしました。この辺が純粋さを持った青春かな?

 次に筋ジストロフィーの説明をしておきます。ネットで調べたら専門的なことはわかりますので簡単に説明すると不治の病であります。今はこの病気の分析ができているので治療が進んでいるとは思いますが、まだ難病に指定されています。そしてほぼ男性の病気です。女性もかかりますがきわめて少ないです。子供のうちに発症して15歳前後で亡くなる可能性が高いです。当時のJRCの部員全員で20名ぐらいいたと思います。男性は二人であとは女性の部員です。この部員を引き連れてこの療養所に毎週日曜日に訪問に行くのですが、一緒に遊んで親しくなっていた10才ぐらいのの患者さんが次の日曜日に来たら亡くなっていたということが時々あり、部員(女子高生)精神的に立ち直れないことがよくありました。人生って何だろう、神様っていないのか?とよく悩みました。この筋ジストロフィーの患者さんがが書いた詩を載せておきます。

  ぼくが鳥になったら  ぼくが空を飛んだら  

  朝日の中で光るだろう  風の中で遊ぶだろう

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

わが日わが夢わが青春 @alfeekobe

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ