ネオテニー

押田桧凪

第1話

 こんなに大きくなると思わなかったと言われ、捨てられてきた生き物たちがいることを私は知っている。飼育することには責任が伴い、博愛や愛護と言う名のもとで、しつけや管理が適切に行われる。けれど、生のサイクルの中で消費されていく愛はもういらないと私は思った。


 一生成長しないペットを飼いたい。そんな私の思いを知ってか知らずか、父はほとんどの場合、幼体の状態で寿命を終えるウーパールーパーをペットとして我が家に連れてきた。


 かわいかった。私に似ていると思った。私もこれになりたいと思った。レシピサイトに載っているような、唐揚げにしたら美味しそうだとは思わなかった。一年生の時にアサガオを枯らしてしまった後悔もあって、私は毎日欠かさずにウーパールーパーの世話をした。


 小学校五年生の終わり頃、私の身長は止まった。154センチだった。それと同時に、体重計に乗るのが怖くなった。「太りたい」とも「痩せたい」とも思っていなかった。ただ、この身長のまま体重だけが増え続けることは避けないといけないんだと漠然と考えていた。それから、朝食を抜くようになってから徐々に給食を残す量が増え、お菓子もジュースも摂らない体になった。成長するのが、怖かった。


「まきちゃん、アレ来たんだって」「えー、なにがぁ?」「ちょっと。男子はあっち行っててよ」


 周りがそんな話をする中で、私は食事をすることを拒絶していた。吐くことは防衛本能だった。洗面所に行って、喉の奥の方に歯ブラシを突っ込み、おえっおえっと嗚咽の声を漏らす。そうすると、本当に苦しくなってきて、吐く。私はわざと、吐いた。食べることをやめるために。

 階段を下りる時に、一段一段の間に大きな溝があるように感じ始めた。着地するまでの足取りは嘘みたいに軽く、何度もバランスを崩しかけた。それくらい、体重は落ちてしまった。抜け毛が増えた。寒気がするようになった。病院に行くと、摂食障害という診断名が付いた。


 小さければいいというものではないと気付いたのは年齢だけは大人になった頃だった。ジェットコースターの身長制限は満たしているし、身だしなみや敬語に関してもある程度の理解はある。

 だけど、やっぱり私は大人になれない。大人にならない。ならなくていい、そう心から望めば、小さいままの私を愛せば、周りに馴染むことができて、大人に認められるのだと思っていた。

 箸の使い方は下手だし、玄関先で靴を揃えることもできないし、単位の変換が分からない。お湯を沸かしてやかんを放置したまま外出してしまうし、爪を噛むとたまらなく落ち着く。

 ネイルはしない。ただ爪を噛むための最低限の長さが欲しいからで、でも日に日に伸びていく爪を見て、嫌気が差して、すぐに切る。これ以上切れないくらいまで切る。成長する爪を見て、こいつもかと思う。少しは成長しろ、学習しろと寄って集って私をいじめてくる奇妙な顔をした大人たちに似ている。だから切る。

 面倒だった。人とぶつからないように、必ず遠くを見て、そのズレを補正するために避けようとすると、相手も私と同じように大きく避けようとするものだから、余計その距離は近くなって、だから私はもっと外側に避ける必要がある。毎日はそんなことの繰り返しだった。

 時の経過を追うことは、何らかの変化を常に促し続ける。私は本当の自分を失ってしまう気がして怖くなる。


 安息の場所なんかどこにもなくて、唯一気持ちを落ち着けられる場所は通勤の電車の中くらいだった。事勿れ主義と言うのだろうか、人が少なければ使っていいだろうという気持ちで、明らかに正当な理由を有しているようには見えない大人たちが優先席を使っていた。けれど、許されていた。見ないふりをしていた。これが大人だった。


 子どもの頃はもっと近くにあったはずの、こうなるべき大人がどんどん私の前から遠ざかっていくような気がすると同時に、理想とはかけ離れた大人になった私がいることに絶望した。


 いい加減大人になれよ、とこれまで何度言われただろう。

 モスキート音が聞こえなくなることを大人と呼ぶなら、特別な手術をしてでも聞こえたままでいたかった。

 親戚が家に遊びに来たとき、別れ際によくこぼす、「20歳になったみのりが見てみたいよ」なんてそれが本音だったとしても言わないでほしかった。その言葉を聞いて、私は子どもの頃、いつも居心地の悪さを感じていた。やるせなかった。年齢は呪いのようだ。受験や就職を含め、〇〇歳にはこうなってないといけないという親類からの過度な期待がそこにはあった。体の成長を見越して大きなサイズの洋服を買ってもらうことにも抵抗があった。私は、ずっと小さいままでいたかった。


 ずっと、子どもでいたかった。いつまでも幼いままの私を愛していた。

 

 性的に成熟して、繁殖する道具として扱われるのは嫌だったのに、その機能を持て余すようにして成長していくという矛盾。

 いつしか、「成長することなく死ぬ」という生物学的に矛盾した終わりを迎えることを私は望むようになった。ひどく哀れだった。両親の顔色を見る限りでは、私は哀れなんだと思った。


 みのり、ちゃんと食べなさい。いいじゃない体重が増えたって。誰も気にしないわ。

 どうして食べないんだ、みのり。ママが心配してるだろ。

 誰が言ったの、チビデブだなんて。ママはそんなこと一回も思ったことないけど。ねぇ。学校に電話するわよ。保健室の先生にも言っておくからね。

 パパはみのりのことを思って言ってるんだ。

 あら、そんなに爪を短く切ったらバイ菌が入るわよ。ただでさえ爪を噛むのに。お口のなかに入って、変な病気にかかるかもしれないわ。


 唯一、私に純粋な憐憫を見せてくれるのが両親だけだったから、その反応だけを私は信じていた。かわいそうだ。気持ち悪い。死んでしまえ。いつだって、私は誰かに愛されたかっただけなのに。


 もし私が吸血鬼だったとして、このまま一生成長することのない身体で、若さを保っていられるのなら、朝を迎えてもいいと思えた。その状態で死ぬことを、私は願っていた。焼け死んで灰になっても、いつまでもその生身の感覚だけは覚えていたいと思った。


 保育士として勤め二年が経った。

「せんせいは、どうしてママやパパより小さいの?」


 そう言われた時、その丸っこくて柔らかい頬をひっぱたいてやろうかと思った。慌てて、私はゆっくりと意識を取り戻し、自らの役職を思い出した。


「うーんとねぇ。先生はこれで満足だよお。小さいほうがかわいいんだよお」と間延びした声をつくる。まだ何にも分かってなくて、奔放な体だけを持って生まれてきたのに、透き通った無垢な瞳で私を見つめないで欲しかった。まるで私がここに居ることが間違いであると言いたげな、危うい目つきをしていた。私はすぐに園児から目を逸した。


「今日は天気がいいねぇ。お外で遊んでこよっか?」


 限界まで口角を引き上げながら、眩しいくらいの笑顔をつくる。「うん!」と威勢のよい返事をして、ぐらついた両足を地に踏みしめ、けいくんは中庭の方に駆け出していった。


「せんせぇー!!」


 さっき出て行ったばかりのけいくんが戻って来た。ダンゴムシ。ぱぁっと掌を開いて、私の前に素早く持ってくる。「どうやって捕まえたと思う? ねぇ」


 息を荒くしながらすり寄る。ビー玉のような、純真さを詰め込んだ丸い目が迫る。

「ほら、戻しておいで。ここはダンゴムシのおうちじゃないよ」

「いやだ! かわにしずめる! 今からじっけんする!」


「そんなことしたらダメだよぉ」と顔をしかめながら言って、たしかダンゴムシはエラ呼吸だったからいっかと私は反芻する。


「かわ」というのは、中庭にある小さなビオトープのことだ。自然溢れる幼稚園という構想のもとで数年前に新設され、メダカが多く生息している。また、その近くにはブリキの苔むした時計台が歴史ある雰囲気を醸し出して鎮座していた。毎日、正午には「おおきなのっぽのふるどけい」を奏でて、正時を知らせる。


「せんせもあそぼ」

 竹馬に乗ったりつきくん、スクーターをビュンビュン飛ばすちよちゃんが磨りガラスの窓の傍まで近付いてきた。

「いいの。先生はここで見てるからね」

「ふーん、わかった」

 つまらなそうな顔をして、二人は背中を向けた。


 配属当初は子どもたちの騒動を鎮めたり、トイレに誘導することにも手間取っていたが、先輩方の助けを借りながら、子供のあやし方・しつけ方を実践で学んだ。資格取得のために勉強していた頃とは想像とかけ離れた大変さがあった。子育ての経験はないが、母親になるということは、きっとこれ以上の根気強さと苦労があるんだろうなと保育士になってから思い知った。



 読者にとってある種の「救い」を提示する物語が嫌いだった。道徳的かつ常識的な一定の価値観や教訓を植え付けて満足させられた気分に陥って、私はずっと誰かに騙されているように感じた。世界観や設定上の都合で、簡単に結末が書き換えられてしまうような、代替可能なストーリーには意味がないと思った。教育的配慮とは聞こえのいい言葉で、それに盲従するなんてつまらない。そこらのおとぎ話と変わりがなかった。


 その点、愛することはシンプルだ。時に情熱的で、破滅的で、そこに至るまでの過程に一切の迷いが無かった。主人公が救われようと思っていないところも魅力的だった。好きだった。


 お昼寝の時間の前は必ず睡眠導入として、読み聞かせをすることになっていた。私が担当の時は必ず、『おやゆび姫』を読むようにしている。理由は単純で、私が好きな話だからなのと、絵柄がかわいいからだ。ただ本質的なところでは、小さな体でいることへの私の憧れと、おやゆび姫が生まれてくることを望んだ母(実の親ではないが)からすると悲哀に満ちた展開なのに、それを素通りするかのような明るさに言い知れない何かを感じていたからだ。私が子どもの頃に初めて読んだ時から、その思いは変わらずに残っている。


「みのりせんせ、いっつも同じの」「またおやゆび姫?」「飽きた」と園児たちから言われることがあっても、私は一貫して読み聞かせを続けた。


 

 誰しも多くの場合は第二次性徴を境に、気付くことになる。生きる上で成長と変化から目を背けることはできず、私はその時点で恐怖に苛まれて、ふつうの人間からドロップアウトしてしまった。毛がもっと薄ければ良かった。産毛のまま残しておきたかった箇所は何個もあった。凹凸のない胸がよかった。好きだった男の子が声変わりを迎えたのが、とても悲しかった。もう私の知っている人じゃない気がした。

 自分の身に起こったことを受け止めきれず、以前とは別人のように感じて、怖くなる。一皮剥けたら、それは全く別の個体で、異形だった。オタマジャクシがカエルになる様子が気持ち悪くて見ていられなかった。


 私は、おやゆび姫になりたいと思った。

 愛だった。けれど、それは隷属的でもあった。


 同僚が噂しているのを聞いたところによると、一部の親の間では、家庭で子どもを叱りつける時に、「そうやっていつまでも泣いてばかりで、みのり先生みたいになりたいの?」と言うらしい。


 子どもみたいな体型、容姿。時が止まったように寸分違わずそこに存在する、血が通っていないかのような透き通った青白い肌を見て、まるで妖怪のように私を扱う。その判断は間違っていない。童顔で、身長も低い。園児と対等な目線に立てることは親しみやすい・接しやすいと思われる利点である一方、「わが子には将来ああはなってほしくない」と言わんばかりの目で保護者から見られることは分かっていた。世知辛いものだ。事実、私は園長から担当の組を受け持つことを許可されていない。大人な子ども。私は、生きた化石のようだった。



 社会人になってから、マッチングアプリをインストールした。本人認証の年齢制限をクリアしたことで、また私が世間的には大人であることを認識させられた。有料会員にならないと、なかなか相手が見つからないと友人からは聞いていたが、アプリを入れて数日後には知らない人から連絡が来た。ネット上の人と出会うというのは初めてだったが、衆人環視の場ではリスクは低いだろうと判断した。指定された場所は、所謂アニメや漫画の聖地と呼ばれる場所に近い、都内のコンセプトカフェだった。私はその原作をよく知らなかった。案の定、そこにやって来たのは私よりも歳が十くらい上のオタク的外見をしたおじさんだった。肩には重そうな一眼レフを掛け、ペイズリー柄のバンダナを頭に巻いている。こういう年代の人もフィルター加工した写真をアイコンに使うんだなと思いながら、携帯の画面と実物を見比べた。


「それで、どうして私のような人と……会おうと思ったんですか」


 私はアプリの設定で相手の条件を特に指定していなかった。年齢や性別さえも。簡単な自分のプロフィールを二、三個入力したくらいだ。


「身長が低い女の子が好きで」


 と、何やら性癖に関係しそうな口ぶりで目の前の男は話し始めた。元をただせば、私がアプリを入れたのは、デートとか付き合うとかそういう社会経験も必要だから、と同僚に勧められたのがきっかけだった。マッチングから始まる本格的な恋愛を私は望んでいなかった。


「きょう、この場所を選んだのは一人じゃ入りづらいからなんだけど。あっ、『ゆめ☆キラどりぃむ』知ってる? 日曜の朝にやってるやつで……」


「小学生の時に見ていた記憶は、あります」


「そう。それでこのカフェの限定メニューで……って、みのりちゃん、やっぱり星川きらりに似てるね。身長もだって、プロフィールに154って書いてたっけ? そうでしょ?」


 話を聞く限り、この男は低身長・小柄という点において私を選んだということだった。顔で判断するような人よりはマシだと思ったし、私もだが、選り好みできるようなスペックでないことを自覚しているように思えた。毎週録画して視聴しているという、『ゆめ☆キラどりぃむ』は小学校低学年向けアニメで、幼い女の子が活躍する魔法使い系の話だが、それに登場するキャラクターの一人に私を重ねて見られるのは何だか複雑だった。どう受け取ればいいのか分からなかった。


 要は、私は誰かの人生にとっての華奢なヒロインでしかないんだなと思った。「需要」という、恋愛とは対極にある価値観に根ざした文化圏の中でしか私は生きることができなくて、息苦しかった。押し付けだった。


 俗にいう「ロリコン」として世間から見られることが嫌だったらしい。結婚すれば、子どもがいれば、性犯罪者として疑いの目を向けられることも、不健全な趣味だと非難されることも無くなるんだと、そう信じているようだった。だから、女性と一緒にいれば自分の趣味が誰かから否定されることはなく、無害なオタクとして許されるのだと、そう熱弁していた。私にはその意味がよく分からなかった。この人に恋愛は向いていないなと、私は思った。けれど、このおじさんと私はどこか似た者同士であるような気がした。どこにも見つからないはずの正常を探している。静寂を求めている。私たちは社会が完全に寝静まるまでは、人目を気にせずに生きることはできないのだ。


 その後、何回かおじさんとアプリを通して食事に行くことがあった。別れは唐突に訪れた。おじさんが長年推していたVtuberが引退したらしい。状況の深刻さは私には理解できなかった。気づけば、おじさんのアカウント情報は削除され、もう二度と会うことは無かった。



 男女が惹かれ合うのは、互いに欠けた部分を補い合うためだという言説が嫌いだった。高校の時、「種無しブドウはジベレリン液に浸し、子房の成長を速めることで種ができなくなるようにしてつくられる」と習った。正常な成長を阻害することで、種がないまま実ったブドウ。「受粉しなくても実をつくることができる」というのは、形を変えた種の根絶ではないのかと私は思った。


 だから私は男と女が必ずしも磁石のように引き合う必要はないのだと思った。種がなくても、実ってしまうのだから。私のように。


 どうして、「みのり」という名前をつけられたのか私には分からなかった。実りたくもないのに、実ってしまった。成熟した体を持ちながら、幼さの残る私は生物として明らかな欠陥だった。

 

 哺乳類の持つ性染色体はオスはXY、メスはXXと決まっている。性染色体Xを持つ卵子が精子のXとYどちらかの性染色体と結びつくことでふつう性は決定される。私の場合、じっさいは卵子の持っていた性染色体はXXだったのではないかと考えていて、XXXの場合、『精神発達遅滞を伴う幼児性をしめす』そうだ。だが、受精能力をそなえていることから、世間的には私は「正常」だと見なされる。

 私のなかで何かがすり減っていくような気がした。私のなかの大切な何かが、本能とは別のものに置き換えられているように感じた。それはきっと老廃物のようなものだった。


 ずっと、子どもでいたかった。おやゆび姫になりたかった。ウーパールーパーはかわいかった。


 いつまでも幼いままの私を愛していた。けれど、私は肉体的な年齢に縛られていた。それはひどく、隷属的な愛だった。


 爪を噛んだ。きょうは何だか皮が苦かった。

 とりあえず私は、爪を切った。みじかく、みじかく。

 丁寧に爪を切った。

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