社員X氏による社会効果

日乃本 出(ひのもと いずる)

社員X氏による社会効果


 ああ、お待ちしておりました。ええ、大丈夫です。時間は十分にありますよ。このために、今日は研究所を休みにしておりますゆえ、じっくりとお話ができます。どうぞ、そのソファーにおかけになってください。

 お茶がよろしいですかな? それともコーヒーを? うん、それはよい選択です。私もコーヒーはブラックときめておりましてね。アイスコーヒーとなればなおさらです。心地よい苦味がさわやかな冷たさをもって喉を通りぬける時でもってこそ、弁舌になりやすいというものです。

 お~い! アイスコーヒーを二つ、ブラックで頼むよ。さて……それではどのようなお話をご所望でございますかな? と言いましても、新聞記者である貴女あなたが喜びそうなお話を私ができるかどうかはわかりませんが――ああ、ありがとう。今日はもうあがっていいよ。たまには君も休日を満喫するといい。うん、お疲れ様。


 それでは気を取り直しまして――ほう! 我が研究所の研究についてお聞きしたいと申されますか!

 しかし、我が研究所の研究と一口に申されましても、我が『民衆心理と社会効果研究所』にとってそれはかなり広義かつ広範囲に及びますからね。できれば何かしらの分野をご指定いただけると助かるのですが……。

 ふむ、いきなりそう言われても思いつかないとおっしゃる? なるほどなるほど。気持ちはお察しいたしますよ。ですが、取材をご希望なされたのはそちらなわけですから、やはり事前にそれなりの調査や取り決めをしておくのが普通ではないかと。

 あはは。そんな顔をなさらないでください。冗談ですよ冗談。貴女のお立場はわかっているつもりです。ただでさえ上司に小言を言われているのに、取材現場でまで小言を言われちゃあかないせんものね。


 おっと、話がそれかけてしまいましたね。う~ん、直近でいうと、あれがいいのじゃないかな。ほら、貴女も覚えていらっしゃるでしょう? ブラック企業に雇われていた社員の一言によって、世論がその企業を弾劾し、結果企業を倒産させてしまったというあの話ですよ。たしか、貴方の社が一番重点を置いて取材してたと記憶しておりますが?

 おや、あの記事は貴女がお書きになられたものでしたか。それは意外でしたな。

 いえ、悪い意味ではなく、良い意味で意外と申したのですよ。まるで老練な記者の仕事のように緻密に練られた構成で、世の不条理を糾弾するまさに世の義憤を代弁したとも言える爽快な文章でしたからな。それがまさか、貴女のような若くお美しいご婦人が書かれたとは思いもよらなかったわけでございますよ。これも男女平等の精神から生まれた一つの成果というべきかもしれませんね。

 おやおや、また話がそれてしまいましたな。いや、どうもすみません。私の悪いクセでございまして、麗しいご婦人を前にすると、どうも話があっちやらこっちやらへと落ち着かなくなってしまうのですよ。いやいや、お世辞ではございません。私はただ事実を申し上げてるまでで――ああ、すみません。話を本筋に戻しましょう。


 ところで、貴女はあの話――いや、ここは事件という単語を使わせていただくことにいたしましょう。あの事件のそもそものきっかけはご存知でしょうか?0

 あ、これは失言でしたかな。貴女はあの事件の記事をお書きになってらしたのでしたね。しかし、もう一度あの事件を振り返っていくには、一つ一つの事柄を思い出しながら検討していくことが肝要ですからな。面倒かと思われるかもしれませんが、お付き合いしていただけると幸いです。

 というわけで、そもそもの事件の発端。それは、某SNSにてとあるユーザーが投稿した一つの呟きが全ての発端でしたね。

 彼のことは仮にX氏とでも呼びましょう。このX氏の呟きというのは、こうでした。


「残業につぐ残業。もちろん、この残業に手当てなどついていない。だけど、この残業には手当て以上に尊いものがある。それは、社の成長であり、社の成長こそが僕達社員の義務なのだ」


 おそらく、X氏は純粋にそう思ったからこそ、この呟きをSNSに投稿したにちがいありません。なぜ、そう言いきれるのか、ですって?

 考えてもごらんなさい。今時、このようなことを軽はずみにSNSで発言してしまえば、どのような反応が返ってくるか、多少の良識があれば判断できたはずです。そしてSNSでX氏のプロフィールや過去の投稿を拝見してみると、かなりの良識――むしろ、現代では珍しいとも思える純粋で生真面目な性格であったとうかがえます。


 しかし、X氏は問題の呟きを投稿してしまった。ですが先に触れたように、X氏は浅薄な人物ではありません。じゃあなぜ、X氏はあの呟きを投稿してしまったのか。

 それは、X氏が自分の考えが世の常識であり通念であり、つまりは社会人として至極当たり前のことだと純粋にそう信じていたからこその行動だと言えるでしょう。

 ですが、それがX氏の不幸の始まりだった。

 今でもよく覚えていますよ。X氏の呟きが投稿されて、一時間もたたないうちに、X氏の投稿に対して多くの人たちがとてつもない量の返信がSNS上で飛び交い始めました。当初はX氏に対する同情の念が返信の大多数でしたよね。


「かわいそうに、正当な報酬を得られていないのに、その悔しさをまぎらわすためにあんな強がりの呟きをするなんて……その心情、心よりお察しいたします」

「ここにも現代の犠牲者が一人……」

「やはりこの国の労働者というものは、会社という王に縛られた奴隷ということがこれでハッキリした気がします。強く生きてください」


 などという、文面に多少の差異はあれど、その内容はX氏に対する憐れみがそこかしこに滲んでいました。

 しかし、このメッセージを突きつけられたX氏は大いに驚愕したことでしょう。X氏は純粋に自分の日々の勤労を楽しみ、それを生きがいとしていることを呟いたはずなのに、世間はそうではなく、X氏の日々の勤労は自らの意思ではなく会社によって強制されているかのように受け取られ、あまつさえそんなX氏を憐れんでいたのですから。

 それゆえ、X氏はすぐさまそのメッセージの数々に対して反論しました。


「皆様、何か勘違いをしていらっしゃる。僕の残業は別に誰かに強制されたわけでもなく、僕の意思と意志によって行ったものなのです。そして、それが会社のためになり、回りまわって僕を含む社員全員のためにもなるんですから、こんなに素晴らしいことはありません」


 なんと素晴らしい自己犠牲に満ち溢れた言葉じゃありませんか。つらいことにすぐ文句をつけて、あまつさえ訴訟さえも起こさんとする現代において、まさに至宝とも言うべき思想の持ち主だとは思いませんか?

 いやいや、お答えにならなくとも、貴女のお考えはわかっておりますよ。貴女はX氏の考えについて否定的な意見をお持ちなのでしょう? だからこそ、あのような記事を書いたのでしょうし、この事件を追いかけてみる気にもなったのでしょうからね。

 それはまあ置いておいて、話を先に進めましょう。X氏の反論がSNSに投稿されると、X氏の思惑とは大きくはずれた返信がX氏の元に続々と届き始めました。


「なんという卑屈な考え方でしょう。Xさん、あなたは会社の奴隷なんかではありません。そんな考えは早く改めるべきです。そしてあなたをそこまで追い詰めている会社と早く決別すべきではないでしょうか」

「これぞ社畜根性の極みだな(笑)会社に洗脳された結果とはいえ、涙をさそうものがある」

「Xさん。目を覚ましなさい! 会社なんかより、あなた個人の方が大切なのです! 個人主義が尊重される今の時代、あなたが勤めている会社のやり方はブラック企業を通り越した、もっと悪質なものだと思われます。今からでも間に合います、今すぐその企業を相手取って訴訟を起こし、あなたの就労に対する正当な報酬をその企業から奪い返すのです!」


 どうです、なんという博愛精神に満ち溢れた方々だとは思いませんか? X氏にメッセージを送っている人々は純粋にX氏のことが心配だからこそメッセージを送っているのです。

 ただ、一つ残念なことは、その博愛主義者達は誰一人としてX氏のことを理解しようとしていなかったことですね。自分達の常識にX氏を当てはめ、その常識でもってX氏が苦しんでいると勝手に思い込んでいたのですから。

 純粋な善意というものは、時としてすさまじい力を発揮することがままあります。やがてSNS上で、かわいそうなX氏を救おうという動きが広まっていくことになりました。

 X氏の呟きは読んで字のごとく、回線によって“光のごときスピード”で拡散されていき、拡散されていく過程でその呟きはより同情を誘う文章へと変化していき、もはや原型をとどめていないような文章へと改変されていたのです。より同情をさそい、より憐れみをさそう文章に、ね。

 しかし、それを非難することなどできましょうか。SNS上の博愛主義者達は純粋な善意で持ってして、X氏の文章をより効果的に改変することによって、より世間の同情をX氏に集めようとしただけなのですから。それは貴女達、マスコミュニケーションに携わる人たちにとっても極々当たり前の風景ではないのですかな?


 ははっ。まあまあ、ここはまず話を進めることが先決でしょう。やがて、X氏のことは誰もが知ることとなりました。すると、博愛主義者の一人が、もう一歩踏み出した行動をとるべきだと主張しはじめたのです。

 それは、“我らのX氏を奴隷扱いしている企業を見つけ出し、我らが弾劾をすべきである”という、まことに自分勝手ではあるが、正義感の溢れた実に心地よい主張でした。

 現実の世界だと、何をバカなことを言ってるのだ、と軽く一蹴されていたことでしょう。個人というものが特定されている状態で、そのような危険に満ちた行為を無報酬で好き好んでやる人間など、それこそ漫画や小説の世界の正義の味方でしかありえませんからね。


 しかし問題の起こっている場所は、個人というもの特定できぬ場所――SNS上でのことでしたからね。そこでどんなことをやろうが騒ごうが、現実の自分には何の危害も及ばない安全地帯。だからこそ先ほどの主張は伝染病のように加速度的に広がっていき、そしてついに行動を起こす人達が現れ始めました。

 X氏の過去の投稿をさかのぼり、それらからヒントとなりそうな部分を抜き出し、それをSNS上に拡散し、集まった情報をふるいにかけ、有力な情報だけを残していき、その有力な情報から彼らはなんとX氏の勤めている企業を割り出してしまったのでした。

 これにはさすがの私も驚きを隠せませんでした。恐ろしいスピード。恐ろしい正確さ。それでいて、必ずや目標を成し遂げようという集団の妄執。それはさながら軍事大国の情報部に迫る勢いといっても過言ではありません。貴女もこの点に関して、一つ突っ込んだ内容を記事に添えていましたね。私もあれには同感でしたよ。集団というのは一つの理念で集まれば、その理念を達成するまでは一種の連帯感で結ばれ、やりとげるまで猛進していくものです。


 ここでもうひとつハッキリさせておきたいのは、この集団が元々はX氏に対する純粋な憐れみを持っていた博愛主義者の集まりだったということです。それがいつのまにか博愛主義者から正義の味方へと変貌してしまった。そのキッカケは何かというと、やはりX氏に対する憐れみなんだということです。かわいそう、だから、助けよう。この感情はシンプルですが、それゆえ強い。さらにそれが何万何十万という数の集合体ならば――そのエネルギーは想像を絶するものでしょう。

 その膨大なるエネルギーに正義の味方たちが現実世界で抱いている不満という着火剤によって火をつけられれば、それを止める術など誰も持ってはおりません。正義の味方たちによって特定された企業は、その膨大なるエネルギーをまともにぶつけられ、甚大なるダメージを負ってしまいました。


 企業というものはイメージが全てです。それも中小企業ともなれば、そこが損なわれると企業生命に大きく関わってきます。正義の味方たちは、その企業生命とも言うべきイメージをSNS上で徹底的にズタズタに引き裂いてしまいました。

 ありもしない事件をでっちあげ、それに真実味を持たせて拡散する。電話対応が悪いなどという社員の質に対する非難を拡散する。あの企業は賄賂が横行していると拡散する。

 どれもこれも、真実など一つもありません。ですが、それでよいのです。SNS上に拡散されることは、嘘であろうが真実であろうがそこには何の意味もないのですから。

 大事なのはただ『そういうことが拡散されている』ということだけなのですよ。だって、そうでしょう? SNSを使っている人々の大半は、そこに書かれていることが真実かどうかなんていう基準で最初から見てやしないのですからね。

 SNSを使っている人たちにとって大事なのは、それが『大多数の意見である』ことと『自分にとって都合がよく、気持ちよくなれる話』かだけなのですから。

 それゆえ、企業に対する攻撃はまさに苛烈を極めたのです。イメージを著しく損なった企業はやがて仕事を得ることが難しくなり、最終的に倒産という結果を迎えました。

 この結果に正義の味方たちは歓喜し、お互いの健闘を称えあい、そして民衆というものがいかに力があるものかと世に知らしめたことを誇りとしたことでしょう。事実、その時のSNSの投稿内容はそのようなもので埋め尽くされていましたからね。それは貴女も記事でお書きになっていたから、よくご存知かと思われます。


『かくして、世の悪と言うべきブラック企業はここに倒れ、X氏はその呪縛から解き放たれたのである。始めはただの呟きでしかなかったものが、このように大きな力を持つに至ることになったのは、ひとえにそれは人間の正義を愛するという古風な心と、それを拡散させることのできるSNSという近代の象徴ともいうべきツールとの融合によるものである。今後もSNSというツールによってもたらされる社会効果は、我々の想像を超えた素晴らしいものになるに違いない』


 そう、これは貴女の記事の締めの部分です。この部分だけでも、今回の事件が社会に与えた効果がいかにすさまじいかがわかるというものです。

 え? なぜ素晴らしいではなく、すさまじいという言葉を使うのか、ですか? おやおや……新聞社というマスコミュニケーションの中でも頂点に近いところにお勤めになっていらっしゃるのに、理解できない? ああ、すみません。それはこちらが察してさしあげるべきでしたね。

 なぜそのような失礼なことをいうのかですって? まあ、落ち着きなさいな。一生の後悔より一時の恥。ちゃんとその理由を説明してさしあげますから。


 まず、貴女にお聞きしたいのは、X氏がその後どうなったかというのを知っているかということです。知らない? でしょうな。知っていたらあのような礼賛記事などを書けるはずがありませんからね。

 次にですが、X氏が勤めていた企業、それがどのような業務を行い、どのような社会貢献を行っていたかを知っていますか? まあ、これも愚問でしょうな。これを知っていたらX氏のことも知ってらっしゃるはずですからね。どうです? ほら、やはりね。

 そんなに怒らないでくださいよ。綺麗な顔立ちが台無しです。ちゃんと説明してさしあげますから、お座りになってください。そう。落ち着いて。


 まずは企業から説明いたしましょう。X氏の勤めていた企業というのは、“不正取引調査監視委員会”というこの国に住む一般市民を対象とした商品に対して、不正な価格がつけられたりしていないかというのを調査する民間企業だったのですよ。

 監査役ともいうべきこの企業に悪いイメージなどがあればどうなります? 調査されるほうはその調査を拒むし、その調査結果を発表したところでその結果を第三者が信用してくれるかどうかは、はなはだ懐疑的にならざるをえません。そんな状態に陥った監査役に対して出資してくれる場所などあるわけなく、結果倒産してしまったという次第なのです。

 皮肉だと思いませんか? 正義の味方たちは、自分達の普段の生活を骨身を削ってまで守ってくれている恩人を悪とみなし、それを集団で追い立てて潰してしまったのですからね。あまつさえその結果に満足し、誇りさえも抱いている。なんとも滑稽ではありませんか。

 彼らは今後、自分達の手にしている商品がどれだけ不正な値をつけられていようとも、それに気づかず買わされることになるのです。だが、それに文句を言ってはいけない。彼らは図らずもそれを望み、それを招いたのですから。


 次にX氏ですが、X氏は自分の呟きがこのような結果を招いてしまったことに強い責任を感じ、不正取引調査監視委員会がつぶれたその日に自宅で自殺していたそうですよ。ほら、その証拠にX氏のSNSはまったく更新されていないでしょう?

 ふむ、そんなのは証拠にならないですって? ははは。なるほど。これは一本とられましたな。じゃあ、これならどうです。当研究所がこの事件を調査した時に入手した写真です。ほら、この遺体こそがX氏です。苦悶に満ちた表情でしょう? 真面目な性格であったからこそ、その自責の念は尋常ではなかったと思いますね。

 まあ、そんなことは貴女にとってはどうでもいいことでしょう。いや、貴女だけじゃない、この事件に関わったSNS上の正義の味方たちも、X氏がどうなろうが知ったことではないのですからね。

 彼らにとって大事なのは『己の欲求が満たされること』それだけが重要でそれだけが全てなのですから。


 貴女の記事を見たとき、それをハッキリと感じることができました。そしてもうひとつ、貴女もSNSだけで情報を集めてそれを集積して記事にしているというのが、貴女の記事を見てよくわかりました。つまり、それだけSNSというツールに人々が毒されている証左というものを感じることができたのですよ。

 だから私は素晴らしいという言葉でなくすさまじいという言葉を使ったのですよ。今後もこういう現象が起こっていくのかと思うと、やがてSNSを利用した人間のコントロールが行われていくのもそう遠くない未来ではないかと想像してしまいますから。

 まあ、少なくとも、今回の事件では確かに貴女のおっしゃるように素晴らしい社会効果を実感した人々が多いのは事実でしょう。

 正義の味方たちは日ごろのうっぷん晴らしをすることができ、自尊心と義侠心を大いに満足させることができたわけですし、貴女にしてみれば、中々の名文を書くことができたという大いなる達成感を得ることができたわけなのですから。

 たとえそれが、一人の純粋な人間の死と、社会の秩序を保とうとする集合体の破壊によって得たものだとしても――ね。


 おやおや、何をそんな顔をなさっているのです? 今さら後悔しようなんて、遅すぎますし、貴女のような若くて美しい方には後悔なんて似合いませんよ。

 さあ、そんな沈んだ気分になったときこそ、SNSでその後悔を呟いてみればいいではありませんか。それが果たしてどんな社会効果を生むかはわかりませんが、少なくとも、貴女以外の人間を満足させる社会効果になることは間違いないと思いますよ。

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