第19話

 その時だった。横にある店の扉がカランカランと音を立てて開き、店内から誰かが出てくるのが見えた。蒲田は横目でその方を見たが、途端に驚きに目を見張った。そこにいたのが知っている人物からだ。


「久恵さん?」


 蒲田は思わず声をかけた。久恵は今日も着物姿で、手にはケーキの箱を下げている。蒲田の姿に気づくと立ち止まり、驚いた顔で口に手を当てた。


「まぁ、蒲田様。こんなところでどうしたんですの?」


 久恵は言ったが、すぐに蒲田と、その前にいる小塚の間に漂う異様な雰囲気に気づいたらしい。当惑した顔で視線を下げ、蒲田が手にした手錠を見るとはっと息を呑んだ。


「蒲田様、これはいったい……」


 その時だった。小塚が素早く身を屈め、蒲田の身体の下からすり抜けたかと思うと、久恵の方に駆けて行ってその首に腕をかけた。反対側の手で革ジャンのポケットからナイフを取り出し、久恵の喉元に突きつける。


「久恵さん!」


 蒲田は叫んだが、すでに遅かった。小塚が勝ち誇った顔で蒲田を見据える。


「へっ、油断したな、オッサン。この女殺されたくなかったらそこをどきな」


 小塚が意地悪く笑って言った。久恵はケーキを取り落とし、苦しげに顔を歪めている。辺りは一瞬で騒然となり、恐怖と吃驚きっきょうを浮かべた通行人が遠巻きに蒲田達を見つめている。


 蒲田は憤怒を浮かべて小塚を睨みつけた。何てことだ。後一歩のところで小塚を捕まえられるはずだったのに、不意を突かれて逃亡を許した挙句、あろうことか久恵を人質にされてしまうとは。蒲田は小塚を憎んだが、それ以上に自分の未熟さが憎かった。


「ほら、さっさと道を開けな。でないとこの女がどうなっても知らないぜ?」


 小塚が挑発するように言うと、久恵の白い首をナイフでつついた。蒲田の後方には入ってきた路地があり、そこから逃げるつもりなのだろう。


「……馬鹿な真似はよせ。これ以上罪を重ねたところで刑が重くなるだけだぞ」蒲田が低い声で言った。


「はっ、上等だ。ムショなんか怖くも何ともねぇよ。俺まだ21だし、何年か大人しくしてりゃあすぐ出てこれんだろ」


 小塚が悪びれもせずに言った。説得が失敗に終わり、蒲田は小さく舌打ちする。


(どうすればいい……。このまま奴を取り逃がせば、また新たな被害者を出すことになる。だが、無理に奴を捕えようとすれば、久恵さんに危害が及ぶ……)


 蒲田は久恵の方を見やった。久恵は恐怖に顔を引き攣らせ、元々白い顔をますます蒼白にしている。彼女はただケーキを買いに来ただけなのに、自分と鉢合わせたばかりにこんな恐ろしい目に遭わせてしまった。蒲田は自分が恨めしかった。


「おい! いつまでぼけっとしてんだ! さっさとどきやがれ!」


 小塚が痺れを切らしたように叫び、蒲田は前方に視線を戻した。小塚は苛立ちを隠そうともせず、目をぎらぎらさせて自分を睨みつけている。このままでは本当に久恵を刺しかねない。蒲田はどうしたものかと頭を捻り、何か突破口がないかと周囲に視線を走らせた。


 蒲田はそこで不意に視線を止めた。小塚の背後にある、久恵が出てきたケーキ屋。その窓ガラスにあるものが映ったのだ。ほんの一瞬ではあったが、あれは確かに――。


 蒲田はしばらくその場に立ち尽くしていたが、やがて小塚の方に視線を移した。無言でその顔を見つめた後、不意に口の片端を持ち上げてにやりと笑う。


「な……何だよ!?」突然蒲田の様子が変わり、小塚が動揺した表情になった。


「なるほど。追い詰められた鼠が、涙ぐましくも抵抗を試みたか」蒲田が言った。


窮鼠きゅうそ猫を噛む、とはよく言ったものだが、お前のその牙では、蚊に刺されたほどの痛みさえ感じられん。一丁前に玩具を振り回してみるが、その扱い方も知らないと見える」


「て……てめぇ! 馬鹿にしてんのか!? 本気でこの女殺すぞ!?」


 小塚が顔を真っ赤にしてナイフを振り上げた。久恵の喉から小さく悲鳴が漏れる。


「そうやって声を荒げることしかできないのが、お前が小心者である何よりの証拠だ」蒲田がなおも言った。「本気でその人を殺すつもりなら、俺が制止するまでもなく刺していただろう。俺が彼女を介抱している間に逃げおおせることができるわけだからな。

 だが、お前はそれをしなかった。さっきは強がっていたが、お前は結局罪を重ねるのが怖いんだ。殺人となれば懲役10年は下らんからな。大言壮語を吐いてはいても、所詮は肝が小さいだけの男。それがお前だ。一連の強盗事件も、一見大胆不敵な犯行に思えるが、実際には主婦や老人など、抵抗される可能性の低い人間のいる家を選んで押し入ったに過ぎん。自分よりも強い人間に刃向かうだけの気概など持ち合わせていないんだ」


「てめぇ……言いやがったな」


 小塚が凄みを利かせて蒲田を睨みつけた。顎を引き、ナイフを握る手に力を強める。


「さっきから黙って聞いてりゃあ、俺を散々こけにしやがって……。見てろ。俺が肝っ玉の小せぇ人間じゃねぇってことを思い知らせてやる!」


 小塚はそう叫ぶと、ナイフを振り上げてそれを久恵の方へ振り下ろそうとした。通行人の間から悲鳴が上がる。蒲田は息を呑み、思わずその場から駆け出そうとした――。

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