第17話

 その後、二時間ほど経った後で蒲田は花荘院邸を後にした。あれ以降、久恵の話題が二人の間に上ることはなく、いつものように皮肉の応酬が繰り広げられただけだった。だが蒲田には、それが花荘院なりの配慮の表れに思えてならなかった。


(総十郎には、悪いことをしてしまったな)


 紙袋に入った花瓶の重さを右手に感じながら、蒲田は一人考えた。自分が中途半端に恋情を見せたばかりに、友人に気を遣わせてしまったことが居たたまれなかった。


(これで何も行動を起こさなければ、奴に合わせる顔がない。まずは連絡し、約束を取りつけるべきか……。いや、しかし、突然誘いをかけられても迷惑では……)


 またしても考えが堂々巡りし、蒲田は頭が痛くなってきた。竹部がこの状況を見たら、つべこべ言わずにさっさと連絡しろと口角泡を飛ばされるに違いない。


 そうして逡巡しながら歩いているうちに、蒲田はいつの間にか駅前まで戻ってきていた。時刻は17時過ぎ。街は帰路につく人々の姿で溢れ返り、誰もが脇目も振らずに目的地に向かって足早に歩いている。その雑踏は何となく蒲田を安堵させた。


 今日はもう遅い。久恵に連絡するかどうかは、明日の仕事が終わってから考えることにしよう。蒲田はそんなことを思いながら横断歩道を渡った。


 その時、横断歩道の向こうで、シルバーカーを押した老婆がゆっくりと歩いてくるのが見えた。そこへ脇にある通りから一人の若者が飛び出してきて、老婆に勢いよくぶつかった。老婆は尻もちをついて転倒したが、若者は謝るどころか老婆をきっと睨みつけて叫んだ。


「おいクソババア! どこ見て歩いてやがるんだ! 気をつけろ!」


 若者は忌々しそうに舌打ちをすると、老婆に背を向けて大股で歩いて行ってしまった。蒲田は歩調を早めて横断歩道を渡ると、老婆に駆け寄って助け起こした。


「大丈夫ですか?」


「あぁ、すまないねぇ。ちょっと転んだだけで、どこも打ってはいないよ」老婆が申し訳なさそうに言った。


「それはよかった。しかし、お年寄りにぶつかっておいて謝罪の言葉もないとは……不届き千万な若者ですね」


 蒲田が顔を上げて若者を睨みつけた。若者は別の横断歩道の前で信号が変わるのを待っている。年齢は20代前後くらいで、金に近い茶髪の髪型を逆立て、黒い革ジャンに細身のズボンを合わせている。耳につけたイヤホンからは大音量の音楽が漏れ出て、周囲の人間が迷惑そうに顔をしかめているが、若者は気づいていないのか、それともあえて無視しているのか、平然と携帯電話を触っている。


「まったく……あそこまで人の迷惑を顧みないとは、どんな教育を受けてきたんでしょうか」蒲田が憤慨したように言った。「あぁいう人間を放っておくとろくな大人にならない。この機会に注意してやりましょう」


「いやいや、そこまでしてもらうのは申し訳ないですよ」老婆が身体の前で手を振った。「助けてもらっただけであたしゃ十分ですから」


「いえ、このまま何もしないのでは、私の気が済みませんから」


 蒲田はそう言って立ち上がると、ずんずんと若者の方に歩いて行った。ちょうど信号が変わり、若者は携帯電話を触ったまま歩き出そうとしたが、蒲田がその肩に手をかけた。


「おい、君。ちょっと待て、話がある」


「あぁ? 何だ?」


 若者がうるさそうに振り返ると、イヤホンを耳から外した。途端にけたたましい音楽が耳をつんざき、蒲田は思わず顔をしかめたが、平静を保って言った。


「君はさっき老婦人を転倒させたが、謝ることも助けることもせず、それどころか老婦人に悪態を飛ばしていたな。大事に至らなかったからよかったものの、打ちどころが悪ければ骨折するか、亡くなっていたかもしれんのだぞ? 少しは自責の念を感じないのか?」


「はぁ? 何言ってんだお前」若者が挑発的に顎を突き出した。「ぶつかってきたのはババアの方だ。何で俺が謝らなきゃいけねぇんだよ?」


「いや、私は一部始終を見ていたが、どう見ても飛び出してきたのは君の方だ。それに、もし君の言うことが正しかったのだとしても、相手は老人のご婦人だ。責任の所在を問うよりも、まずは助け起こすのが筋なんじゃないのか?」


「はぁ? んなこと知るかよ。俺は急いでんだ。ババアのことなんかどうだっていい。さっさと放せよ」


 若者は蒲田の静止を振り切って横断歩道を渡ろうとしたが、蒲田はその右手をがっちりと掴んだ。


「話はまだ終わっていない。君のそのイヤホンだが、音が漏れていることに気づいていないのか? 近くで騒音を聞かされる身にもなってみろ。それに、携帯電話を触りながら道路を歩くのも危険極まりない……」


「あぁもううるっせえな! 急いでるっつってるだろ!」


 若者は激高した様子で叫ぶと、勢いよく蒲田の手を振り払った。その衝撃で革ジャンが引っ張られ、若者の細い手首が露わになる。


 その瞬間、蒲田は目が離せなくなった。なぜならそこに見えたのは――。


「……星柄のタトゥー?」


 蒲田はまじまじとその紋様を見つめ、次いで視線を上げて若者の顔を見た。その瞬間、毎日のように目にするモンタージュと目の前の男の人相が重なり、蒲田の中で何かがかちり、と音を立てた。

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