第14話

「実は……ある人のことが気にかかっているのです。一度お会いしただけで、詳しいことは何も存じ上げないのですが……」


「ほう? どんな奴だ?」


「華道の展覧会でお会いした方です。眼鏡とコンタクトレンズを落として困っておられたので、探す手伝いをしました」


「眼鏡とコンタクトを同時に落とすたぁ、随分ドジな奴だな。それで?」


「その方はお礼をしたいとおっしゃり、名刺を渡してくださいました。私も名前を聞かれたのでお教えしました」


「随分律儀な奴じゃねぇか。で? そいつの何がそんなに気になるんだ?」


「それが……私にもよくわからないのです。一緒にいた友人が言うには、私はその方に魅入られているという話でしたが……」


 それまで熱心にホッケをほぐしていた竹部がそこで箸を止めた。視線を上げ、まじまじと蒲田の顔を見つめる。


「……何だお前、そういうことは早く言えよ。つまりこれか?」竹部が左手の小指を立てて見せた。


「……ええ。そういうことになるのでしょう」蒲田が渋々認めた。


「はっ。何だお前、そりゃおめでたい話じゃねぇか」竹部が口元を緩めた。「色恋とは無縁で生きてきたお前にも、ようやく春が訪れたってわけだ」


「そんな簡単な話ではありません」蒲田がかぶりを振った。「相手の方はまだ若く、とても美しい女性なのです。私のような醜い男に目を留めてくださるわけがない」


「だがそいつは、自分からお前に名刺を渡してきたんだろう? 向こうに気がなけりゃあそんな真似はしねぇよ」


「それはあくまでお礼という名目です。私を異性と認識してのことではありません」


「はぁ。ったく、相変わらず頭が固い奴だな」竹部が頭を掻いた。「まぁいい。要するにお前は、その別嬪に惚れ込んじまったってわけだ。それも仕事が手につかなくなるくらいにな」


「……私としてもこんなことは初めてです」蒲田が心底困惑した顔になった。「この状態が続けば、本当に捜査に支障を来しかねない。どうすればよいのでしょう?」


「なに、簡単なことだ。何回かデートに誘って、ムードが高まった頃合いを見計らって告白すりゃあいい。そうすりゃ女なんて一発だぜ」


 竹部が確信に満ちた口調で言った。自分の妻もそうやって落としたのだろうか。


「……私には警部の真似はできそうにありません」蒲田がため息をついた。「あの人を誘うなどと、考えただけでも烏滸おこがましい」


「何だよ。いやに弱気じゃねぇか。さてはお前、女の経験がないな?」


 竹部が蒲田に箸を向けた。蒲田は黙り込み、誤魔化すようにジョッキに口をつけた。話したことを早くも後悔する。


「まぁ、経験がないんじゃ慎重になるのも無理ねぇけどよ」竹部がテーブルに肩肘を突いた。「でもお前、勿体ないとは思わねぇか? 律儀な上に器量までいいなんて、そんな女、滅多にお目にかかれるもんじゃねぇぜ?」


「それはよくわかります。ですが……私のような者から誘われても、迷惑に思われるだけではないでしょうか?」


「だからさっきから言ってるだろ、迷惑だったら、最初から名刺なんか渡せねぇって。そいつもお前が誘ってくるのを待ってんじゃないのか?」


「まぁ……確かに、連絡を待っているとはおっしゃっていましたが」


「だったらそこは連絡してやるのが男ってもんだろ。向こうが勇気出してアプローチしてきたんだ。お前が応えてやらねぇでどうすんだよ」


 竹部はそう言ってぐびりとビールを呷った。かなり酔いが回っているのか、目が据わっている。このままでは今すぐ連絡しろと言い出しかねない。蒲田は話題を転じることにした。


「ところで、警部の娘さんはお元気ですか? 先日、誕生日を迎えられたとお聞きしましたが」


「おぉ、そうだそうだ」竹部が途端に相好を崩した。「誕生日プレゼントにな、新しい筆箱を買ってやったんだよ。前から欲しがってたキャラクター物のな。そしたらあいつ、俺に抱きついてきて、『パパ、大好き!』とか言いやがるんだぜ。ついこないだまでつれない態度取ってやがったのに、現金な奴だよな」


 言葉とは裏腹に竹部の表情は綻んでいる。娘が可愛くて仕方がないのだろう。


 竹部はその後も娘の話を続けた。いくら話しても話題は尽きず、彼がいかに娘を溺愛しているかがよくわかる。将来嫁に行く時は大変だろうな、と蒲田は考えた。


(娘か……)


 竹部を見ていると羨ましくなることはある。彼にとって娘の存在は、生きがいであり活力そのものだ。自分にもそんな存在がいればいいとは思うが、あいにく娘どころか妻さえも持てる見込みはない。


 久恵の姿がちらりと脳裏を過る。竹部の言う通り、久恵は本当に自分からの連絡を待っているのだろうか? 蒲谷は一瞬、その希望的観測に縋りたくなったが、すぐに首を振って考えを打ち消した。あの美しい久恵が、本気で俺など相手にするはずがない。名刺を渡したのはあくまで礼儀を重んじてのことで、本当に連絡して食事にでも誘おうものなら、何と身の程知らずな男だろうと眉を顰められるに違いない。


(あの女性のことはこれ以上考えるまい。女に現を抜かして仕事に支障を来すなど、まったく俺らしくないからな)


 蒲田は心の中でそう決心すると、竹部が切り分けたホッケに箸を伸ばした。

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