切なさの香りに包まれて

朝田さやか

先生

「先生!」


 病室のドアを開けると、目に飛び込んでくるのは眩しいほどの白だった。その白の中心にいる先生が、ベッドから起き上がって軽く手を上げる。


 僅かな仕草を見るだけで嬉しくなって、先生の元へ駆け寄った。壁もベッドも先生を白く染めて、雪景色のような先生の肌が、夏の眩しい日光に照らされていた。


「先生と呼ぶのは恥ずかしいからやめてくださいといつも言っているでしょう」

「尊敬したい人なんですから、良いじゃないですか」

「あなたにそう呼ばれるのは、とてもこそばゆいのですけれど」


 そう言いながらも、先生の口角は上がっている。余命が僅かで、家族以外の人と関わりのない先生。毎度毎度病室に来るのが私じゃなかったとしても、きっと先生は嬉しがったんだろう。


「せーんせい」

「なんですか」


 先生の困る顔を見たくて、つい揶揄うように呼んでしまう。眉を寄せながらも、さっきより一段階声のトーンが上がった。たったそれだけで、私の胸はとくんと弾む。


「今日は本当に夜まで付き合ってくれるんですよね?」

「そのつもりですよ。無理を言って、面会時間を伸ばしてもらいましたから」

「やった、ありがとうございます」


 少し恥ずかしいのか、先生は頬を薄ら赤く染めていた。先生の調子が良さそうで、こっそりと胸を撫で下ろす。


「ごめんなさい、最近は寝てしまっていることが多くて」

「いいえ、今日は元気そうで何よりです!」


 ぎこちない笑顔になっていないだろうか。私が不安に駆られていることも、たぶん先生にはお見通しなんだろう。


「それより、本当に良かったんですか? 花火大会に参加しなくて。花火なんて、こんな病室から見るものでもないでしょうに」

「良いんですよ、友達が突然彼氏と行くとか言い出したから。高校一年生の花火大会までに恋人が出来なきゃ高校三年間ずっとできないなんて言われたんです、ひどいと思いません?」

「そうですね。あなたはまた来年、大切な人とまわりなさい」


 先生の瞳が寂しげに揺れる。全体的な白さとは対照的に、先生の瞳だけは影みたいに真っ黒で、時々どうしても目を逸らしたくなった。


「嫌味ですか? 恋人ができなかったらどーしてくれるんですか」


 ――また来年も、先生に付き合ってもらいますからね。


 そう言いたかったのに言えなくて、口をつぐむ。先生の瞳と同じように、私の瞳もまた寂しさに揺れているんだろうか。


「大切な人は恋人とも限らないじゃないですか。親友とだって家族とだっていいんですから」


 ふいに、むわりと切なさが香る。窓を開けたわけでもないのに、うだるような夏の空気が流れ込んできたように。胸を重くする切なさの固まりに、せてしまいそうだった。


「そうですね」


 声を出すのもだ。私の大切な人の枠組みの中心にいるのは先生なのに、先生はいつも、自分の存在を消そうとする。


 訪れた沈黙を夕陽が染め上げる。色とりどりの白が、色とりどりの茜へ。白の中心にいた先生も、例に漏れず染まりゆく。白はこんなに簡単に他の色に染まるのに、どうして先生は私色には染まってくれないの。


 睡魔のような恋だった。気づかぬうちに誘われて、無理やり押し込めて隠して。好きになるには、障壁が多すぎた。引かれるのが怖くて、先生を好きなことは周りの誰にも言えていない。


 そんな結ばれないこの恋心を胸に抱きながら、茜色が藍色へ、そして黒色へと染め上げられるのを、私はただ見ていることしかできなかった。


✳︎


「見てください先生!」

「ええ」


 開けた窓の向こうに見える真っ暗な空に、色とりどりの花が咲く。赤、青、緑、黄。真っ黒な夜空に光る花火は、開いた刹那消えていく。まるで、黒は何色にも染められないとでも言うように。


「ストロンチウム、銅、バリウム、ナトリウムですね」

「もう、やめてくださいよ先生! 情緒の欠片もないじゃないですか」

「だから、一緒に観る人を間違えてるんですよ。あんなに苦戦してた炎色反応、覚えましたか?」

「覚えましたって! もう化学基礎はばっちりなんですから」


 ふわり、と先生が微笑む。微睡に包まれる瞬間のような温かさが私を満たした。私が病室に遊びに来るたびに、先生は色々なことを私に教えてくれた。それが、私が先生を先生と呼ぶ所以の一つでもあった。


「なら今度は、音速でも求めてみますか?」


 花火を指差してにこにこと、先生は楽しそうだ。私を揶揄う余裕があるということは、すこぶる調子が良いというサインでもあった。だから、嬉しいはずなのだけど。


「物理は勘弁してください。そもそも習ってもないんですから」

「教えてあげましょうと言いたいところですが、無理そうですからやめておきます」

「えー、最初から無理って決めつけられるのは、それはそれで悲しいんですけど」


 誤魔化したくて不貞腐れてみたかっただけだ。分かっている。どういう意味の「無理」なのか。自分がそうやっていつも、現実から目を背けようとしているだけだということも。


「ごめんなさい」


 みぞれのような先生の声が、静かな病室の影に吸い込まれていく。花火大会の賑わいと騒音が遠くに聞こえて、やがて消えていった。


「良いですから、ほら、勉強の話はやめて花火楽しみましょうよ」


 声が上擦る。変にワントーン上がる。わざとらしい大きさ。目の前に開いては閉じていく輝きなんて、既に一つも私の頭に入っていなかった。


「そうですね」

「ほら、見てください、綺麗ですよね!」

「……綺麗ですね。きっと、ここでなければもっと綺麗に見えるのでしょうね」


 微かに震える声で喋った先生に、私は何の言葉もかけられなかった。ただでさえ小さかったその声は、私でなければ花火の騒音にかき消されて聞こえなかっただろう。


 気づかれないようにそっと先生に視線を向けると、先生はまるで泣いているみたいだった。黒く染まった先生を色とりどりの花火が染めようとして咲いては、儚く散って消えていく。先生の表情に涙は見えないのに、目元が潤んですらいないのに、先生は声を上げて泣いているような、そんな空気を纏っていた。


「この夜が、ずっと続けば良いのに」


 何も言えない代わりに、本音だけが口からぽつりと漏れる。ベッドの上に並んで座ったこぶし一つ分の距離が、あまりにも遠かった。


「そうですね。夜が終わらなければ、眠らなくて済みますから」


 どぉん、と一際大きな花火が空に咲く。わぁ、と人々の歓声が上がる。けれど、私にはそんな音よりも先生の吐息の音の方が余程しっかりと聞こえていて。とっくの昔に、私の世界が先生中心に動いていることを意識してしまう。


「眠ればまた朝が、明日がやって来るじゃないですか、先生」


 知らないふりばかりだ。私の言動は全部。

 先生が声を失って、その表情がいびつに歪む。何かを言うか言わまいか思案する素振りを見せて、結果先生は口を開いた。


「眠るのが怖いんです。明日が来ないことが怖い。毎日、先が見えなくて真っ暗で、ずっと夜なんです」


 むわり、とまた切なさが香る。先生の瞳が揺れて崩れて、飽和した寂しさが溢れ出す。


「一度くらいは、大切な人と花火大会を歩いてみたかった」


 大切な人。先生が恋人や友達や家族と定義したそれ。


「私は、先生と見る今日が一番ですよ」


 ほとんど叫ぶように声を上げる。届かない視線。届かない手。届かないこの気持ち。私と先生の関係は、先生が定義したそのどれにも当てはまらない。


「今日が一番になってはいけないのですよ」


 先生は一度も私を見てくれない。窓の先の黒を見つめて泣いていた。


「どうしてですか、先生」

「ひかり」


  諭すように、遮るように、先生が強く言い放ったその一瞬、世界から音が消えた。十六年間呼ばれ慣れ続けてきたはずのその三文字が、私の胸で特別に響く。先生に名前を呼ばれたのは、これが初めてだった。


「あなたは紛うことなく光でした。夜ばかりの毎日に灯してくれた光だったんですよ」


 ゆっくりと、先生の視線が私の視線に触れる。視界が歪んで、目の前がよく見えなくなって。気づけば私は涙を流していた。


「ありがとう」


 空気が和らいだ。眠りへと誘うみたいな優しさだった。歳上なのに、頑なにずっと敬語を使っていたくせに。こんなときだけ崩すなんてずるい。


「……先生」


 声にならない声。私は先生の名前を呼ぶことさえできないままで。小さな光を灯すだけでは、夜は明けられない。私は先生の太陽にはなれない。


「もうすぐ終わりのようですね」


 無数の線が空に上り、大きな大きな花火が次々に咲いては消えていく。夜の闇の前ではその光などか弱く、世界を照らせるのはほんの一瞬だけだった。 


 永遠にならない今日の夜が更けていく。花火の音がやめば、後は眠るだけだ。世界が眠るだけ。


 涙で滲む視界の中で必死に先生だけを捉えながら、黒を次の色には染められない私はただ黙って見ていることしかできなかった。


✳︎


 まもなくして、先生は永遠の眠りについた。先生がいなくなっても、病室は変わらず真っ白なままだった。


「ねえ、十七歳なんて若すぎますよ、白香きよかさん」


 今更呼んだ先生の名前が、誰もいなくなった病室に空虚に響く。私が先生と出会ったのは半年前、私の祖母の面会に病院を訪れたときだった。病院内で迷子になって、引き寄せられるように先生の病室に迷い込んで。


 一目惚れだった。一つ歳上の同性の、生きることを諦めていた先生に、報われない恋をした。幼い頃から病弱で本ばかり読んでいた先生から、私は色々なことを教わった。


 ――ねえ、先生。私たちの関係は結局何だったんでしょうか。


 私は、友人とも恋人とも違う関係になりたくて、勝手に先生と呼んでいた。だけどきっと、このいびつで特別な関係を望んでいたのは私だけだったに違いない。


 誰もいないベッドからむわり、と切なさが香る。私はこの香りに包まれながら、今日も眠るのだ。

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

切なさの香りに包まれて 朝田さやか @asada-sayaka

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ