02.鋏



シャキン、シャキンとはさみの音だけが静かに響く。

どうしてこんなことになっているのか、とアマースト侯爵家の執事カルヴィンは内心動揺をしていた。しかし、その動揺は鋏を持つ手には表れず、よどみなく処理をしてゆく。むしろ、この状況で手が震えようものなら、事態を悪化させるとカルヴィンは現在の作業に集中していた。

最後に小さな羽根箒で肩などに残る髪をはらい、彼女の首に巻いていた大きな布をほどく。足元にも大きな布を敷いているので、あとの掃除は楽だ。

鏡台の前に座る彼女の背後に立ち、カルヴィンは三面鏡を開いてみせた。


「カルヴィンさんは髪を切るのもお上手なんですね。素敵です」


「……恐れ入ります」


整った髪を確認してはしゃぐガートルードとは反対に、カルヴィンは内心悲嘆に暮れていた。こんなところでこの技能が役に立つなど想定していなかった。

カルヴィンの主人である侯爵アシュリーは、整髪を彼に一任していた。理髪師を呼ぶのを面倒がるのと、信頼している者以外に無防備な状態を晒したくないという用心深さが理由だ。そのため、カルヴィンは髪を切るのが得意だが、あくまでそれは男性向けの話である。

ガートルードが襟足えりあしから勢いよく切り上げて断髪してしまったため、後頭部はどうしても男性と同じように短く整えるしかなかった。もみあげなどの側面はまだあごまでの長さが残っていたので、それ以上短くするのが忍びなく左右の長さを合わせるに留めた。

令嬢は短くともボブ、肩までの長さは保つ。なので、今のガートルードのように襟足短く、うなじが晒されている髪の長さは異例だ。しかし、男性かのような髪型であってもガートルードの顔立ちは女性にしか見えず、少女らしく嬉しげに頬を染めていた。


「頭が軽い……、とてもすっきりしました。ありがとうございます!」


まるでドレスに合わせて髪を結わえてもらえたかのように喜んで、ガートルードは、カルヴィンに感謝を述べた。

本当に嬉しそうなその様子に、カルヴィンの感じていた申し訳なさが払拭される。


「このまま身を清めたいので、着替えを用意していただけませんか?」


これから浴室に向かうというガートルードの要望は当然のことだった。数日がかりで訪ねてきたのだから疲れを癒したいだろうし、布を被せていたとはいえ切った髪がいくらかドレスに付いてしまっているだろうからそれを着たままではいられない。

しかし、カルヴィンは難色を示した。


「着替え、となりますと……」


弱ったことに彼女に合うドレスが用意できない。アシュリーの母親シーラのものなら探せばでてくるかもしれないが、彼女の身丈は百五十台、ガートルードは百六十以上はある。体格も輪郭が丸めのシーラと違い、彼女は華奢きゃしゃだ。明らかにサイズが合わない。


「アシュリー様のお若いときのもので、合いそうなのを用意ください」


「え」


「アシュリー様は物を大事される御方ですから、きっと昔の服もあるでしょう?」


「あります、が……」


サイズさえあえば男物でも構わない、というガートルードに、カルヴィンは目を丸くする。


「ドレスで着飾らない。これはカルヴィンさんの主人の要望でもあるんですよ?」


なら主人のお古で問題ない、とガートルードは微笑む。女性に女性用ではない服を用意する、という選択肢がカルヴィンにはなかった。きっと他の誰も、主人のアシュリーですら及ばない考えだろう。本当に彼女は突飛だ。

突飛な案ではあるが、現状、一番理にかなっているため、カルヴィンは仕方なく了承した。

書類上とはいえ、主人の妻の入浴が終わるのを待つのも居た堪れないため、カルヴィンが終わる頃合いを訊ねると、三十分と女性にしてはずいぶん短い時間指定が返った。

着替えを彼女に渡し、整髪に利用したものたちを片付け早々に退室したカルヴィンは、夕食の人数が増えたことなどの手配を済ませ、三十分後改めて退室した部屋のドアをノックした。


「どうぞ」


すぐさま入室の許可が返る。そのことに驚きつつも、カルヴィンは断りを入れて、ドアを開けた。


「いかがでしょう? シャツを出したままだと見苦しいかと思い、中に入れたんですが」


「……よく、お似合いでいらっしゃいます」


カルヴィンは、思わず心のままに零してしまった。

ただ白いシャツと黒いズボンを身に着け、靴だけはきたときと同様、自身の革のブーツを履いている。カルヴィンが、不格好な男装もどきにしかならないと思っていたそれは、彼女の華奢な身体と短い銀髪によく似合っていた。

幼いアシュリーが着ていたときを知っているがゆえに、カルヴィンは驚いた。主人のときよりズボンの腰が高い位置にきている。そのため、ガートルードの女性らしい身体の線が引き立つのだ。


「ありがとうございます」


自分も気に入っていたので、同意を得られて嬉しいガートルードは少女らしく微笑む。


「これからの服も、アシュリー様の昔のものでお願いしますね」


「お好みを伺えば、ご要望にったドレスを用意しますよ?」


「はい。なので、私の好みがこれです」


にっこりと念押しされ、カルヴィンは弱りながらも頷くしかない。彼女が侯爵夫人である以上、上司だ。指示されたなら、部下であるカルヴィンは従うまでだ。まさか令嬢からドレスを買わないよう念押しされる日がくるとは思ってもいなかった。


「さて、これからのために最優先で案内していただきたいところがあるのですが」


身綺麗になったガートルードが、やしきの案内を希望した。それはカルヴィンもするつもりだったので、こころよく了承する。


「かしこまりました。どちらからご案内いたしましょう」


「邸内の女性用手洗いの位置と、洗濯場を教えてください」


庭園などの見栄えのよい場所でもなく、執務室など主人に関わる場所でもない。想定外の場所を要望され、カルヴィンは固まった。


「そ、それはどうして……?」


どうにか自力で再起動して、カルヴィンは恐る恐るガートルードに理由を訊ねた。答えるガートルードはきょんと当然のように返す。


「自分が使う場所、ものを綺麗にするためですよ? 女性嫌いのアシュリー様だけあって、使用人も男性しかいらっしゃらないようですし、利用頻度の低い女性用手洗いの清掃が行き届いているとは思えません。それに、カルヴィンさん、私の下着洗えるんですか?」


「洗えません!」


主人の妻の下着を洗うなどとんでもないことだ。カルヴィンは思い切り首を横に振った。


「なら、他の使用人の方もそうですよね。だから、自分で洗います」


ガートルードは微笑む。

女性の使用人を急に用意することもできない。彼女は、それを理解したうえでの判断だった。カルヴィンはまたもや頷くしかなかった。



昼下がりのあの光景は白昼夢だと思っていたアシュリーは、夕飯の席に着いて驚いた。

夢に現れた少女が食卓の長机の向こう岸にいたのだ。そして、何故か自分の服と覚しきものを着ている。

夢ではなかった。

夢幻と思いたかったアシュリーは、現実に嘆息した。


「……なんだ、その格好は」


「あなたの要望通りでしょう?」


何も問題はないと目の前の少女、ガートルードは微笑みを返した。

今のガートルードはドレスも着ていなければ、化粧も香水も付けていなかった。元より所持品のなかに、化粧品も香水もありはしない。


「誰が男装まがいのことをしろと」


「お話は後にして、温かいうちに食事をいただきましょう? せっかくコルセットなくお腹いっぱい食べられるのに、冷めてしまってはもったいないです」


アシュリーが、要望の解釈違いだと反論しようとした矢先にガートルードは食事の開始を急かす。彼女の言い分はもっともなので、アシュリーは食前の祈りをし、食器を手にした。

アマースト家の食事はフルコース形式ではなく、最初からすべて並べられる。小皿にサラダ、スープの器にはミネストローネ、主菜は豚肉のステーキに蒸し野菜を添えたもの、パンはライ麦パンひとつ。

平民の定食屋と変わらないそれに不満のひとつでもこぼすのでは、とアシュリーは、向こう岸のガートルードを窺う。

ガートルードは、アシュリーの予想に反して、眼を輝かせていた。ミネストローネをすくって、口に含んでは至福の表情を浮かべる。ライ麦パンをちぎろうとするも、うまくいかず、頬張ったガートルードの思いきりのよさにアシュリーは内心驚く。噛むたびにパンの甘みを感じるのか、頬を紅潮させひたすらに咀嚼そしゃくしている。自分の好きな順番で料理を食べるのを楽しんでいる様子だ。

アシュリーにとってはいつもと何ら変わりない食事だ。しかし、美味しいと表情で語るガートルードを見ていると、普段より料理の温かさがみた。

最低限の音を立て黙って食事をする様子は令嬢らしく、饒舌じょうぜつな表情や食べやすさを優先する思いきりのよさは令嬢らしくない。食事をともにした彼は、ガートルードをそう評価した。

食事中、一瞬だけガートルードが露骨に顔をしかめた。しかし、アシュリーの怪訝な視線を受けて、何でもないというように笑みで取り繕った。

長机の対岸にいるアシュリーは気付かなかった、ガートルードの方が一品多いことに。豚肉のステーキがアシュリーのものより小さい代わりに、いびつな形のオムレツが添えられていた。

そのオムレツを食べるときだけは、ガートルードの表情が平坦であった。

食事を終え、食後のお茶が用意されたタイミングで二人は先ほどの会話に戻った。


「男装、といいましたが、アシュリー様には私が男に見えるのですか?」


「そんな訳がないだろう」


肩もなで肩で、男物のシャツでは、そでの肩の位置が明らかにずれている。そんなガートルードを男と見紛うはずがなかった。


「では、適切ではないですか」


「何がだ」


「ご要望通り動きやすい格好です。今しがた、アシュリー様が認めてくださったように、私はどのような格好であろうと女でしかありえません。たとえ、胸が平らだろうと!」


別に、アシュリーは胸囲までは指摘していない。しかし、胸を張ったガートルードのそこは、確かに平坦であった。


「まぁ、アシュリー様が大きい方がお好みであれば、ねやんでくだされば、多少は……」


アシュリーは盛大にせた。


「っな、なに、を……っ」


「男性が揉むと大きくなりやすいという説は有名ではないですか」


何故知らないのか、とガートルードは小首を傾げる。男女ともに同性同士のときに一度は必ずのぼるであろう説だ。アシュリーとて聞いたことはあるが、異性、しかも少女から耳にする類いのものではない。


「ああ、今夜試されますか?」


事も投げに言うガートルードに、アシュリーはまたもや噎せた。

げほごほ、と咳き込んだアシュリーは、呼吸困難ゆえか、憤怒ゆえか目元や頬が紅潮していた。


「っお、前には、慎みはないのか!?」


「夫相手にみさおを立ててどうするんですか」


至極真面目に返すガートルードの意見は正論ではあった。書類上夫婦となった二人が今夜関係を持ったとて、なんら問題はない。しかし、アシュリーからすれば、ガートルードは今日見知ったばかりの少女だ。さぁどうぞ、と言われても無理だ。

目の前の少女は、訳が解らなすぎる。アシュリーは混乱を来した。


「なんなんだ、お前は!?」


「あなたの嫁です!」


理解ができないと怒鳴ると、間髪入れずに即答された。笑顔のガートルードにアシュリーは頭を抱える。

どっと疲れたアシュリーはその日、床に就いた瞬間、意識を失うように眠ってしまうのだった。


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