五・七

 振り返ると、栞は地面に倒れ込んでいた。


「栞!」

 とっさに手を伸ばす。


「こーちゃん……苦し……」

「じっとしてろ!」

 すぐにしゃがみ込んで脈を取り、体温や発汗、息遣いを調べる。


 始まった。

 そう確信した。


 ウェイン症候群の患者はある時を境に急激に容態が悪化することがある。これは突然変異を繰り返したスタンリー型がん細胞が急速に増殖することによるものだ。こうなれば最後、もう助ける手段は残されていない。完全に手遅れである。出来ることといえば、患者の苦しみを和らげてやるくらいのものだ。僕はポケットからあらかじめ持って来ておいたモルヒネと注射器を取り出し、苦痛に顔を歪める栞の腕に打ち込んだ。


「……あれ……苦しく……ない?」

 病院でモルヒネを盗んできたのは正解だった。こんな劇薬、高校生如きでは正規入手などと到底できない。盗賊だった世界の記憶が役に立った。


「どうだ? 少しは楽になったか?」

「……うん。あはは、さっきからちょっとしんどいなーって思ってたんだけど、まさか倒れちゃうなんてね」

「馬鹿。そういうことはもっと早く言えよ」

「そうだよね。ごめんね、また迷惑かけちゃった」

「いいんだよ。気にするな。僕にはこれくらいしかしてやれないけど……」


 ああ。

「……こーちゃん?」

 僕は。

「……ごめんな」

 なんて。

「こんなことしか出来なくて……」

 無力なのだろう。


「どうして……! どうして何も出来ないんだ僕は! 僕は! 僕は! 畜生!」

 地面を何度も殴った。

 何度も何度も、血が滲むほど強く打ち付けた。


「やめて! 落ち着いて!」

「落ち着いてられるかよ! お前が目の前で苦しんでるってのに僕は何もしてやれないんだ! 今にも死にそうだってのに見てることしか出来ないんだ! 今までだってそうだ! 何度世界を変えてもどんな力をつけても僕はお前を助けられない! お前は何にも悪くないのに、僕が無力なせいで殺される! この世界に殺される! それなのに僕は……僕は……!」


 惨めだった。情けなかった。力なき自分と非情なこの世界を恨んで、呪って、嫌悪した。僕はその場に跪いて弱音を吐くことしか出来なかった。


「頼む栞、死なないでくれ。もう嫌なんだ。もう限界なんだ。もうお前が死ぬ姿は見たくないんだ!」


「……ねえ、こーちゃん。ちょっとだけ聞いて?」

 栞は震える僕の頬に手を当てて微笑んで見せた。モルヒネを打ったとはいえきっとまだ苦しいはずなのに、その表情に辛さはなかった。


「あのね、こーちゃん。こーちゃんが何を言ってるのか、正直私には分からない。けどね、これだけは分かるんだ。こーちゃんは絶対無力なんかじゃない。何も出来ないわけがない。だって私知ってるから。こーちゃんが私のために、どれだけ頑張ってくれてるか」

「……え?」

「こーちゃんさ、最近小説書いてないでしょ?」


 小説。

 そうだ。

 すっかり忘れていた。


「昔はよく色んな小説書いて私に読ませてくれたよね。私あれ結構好きだったんだ。毎回思いもよらないようなアイデアがいっぱいで。まあ、絶対書き切らないまま終わっちゃうのがオチだったけどさ。それでも好きだったなあ」


 そうだった。

 頭に浮かんでくるアイデアを文字にするのが好きで、何よりそれを読んだ栞が笑ってくれるのが好きで、僕は毎日のように執筆していた。


 なのに——。


「なのに、私が入院してからぱったり書かなくなったよね。そりゃそうか。毎日勉強して、遊んで、部活して。それだけでも忙しいはずなのに、いっつもお見舞いに来てくれるもんね。そりゃ書く時間もなくなるよね」


 この世界だけじゃない。

 事実を変え始めたあの世界以来、僕はずっと小説を書いてこなかった。小説家になった世界も一つとしてなかった。僕の筆は今でも折れたまま、心の片隅に捨てられたままだった。


「ごめんね……全部私のせいだよね……」

 刹那、栞の瞳から涙が溢れた。

「私が頼りないから。どうしようもないから。いつも守られてばかりの弱い存在だから! そのせいで、そのせいでこーちゃんは!」

「もういい栞! もういいんだ!」

「でも!」


 気づけば僕は彼女を抱きしめていた。


「お前が悪いんじゃない。お前が間違ってるんじゃない。この世界だ。この世界が間違ってるんだ。だから自分を責めるな。お前はもう苦しまなくていいんだよ」

 泣きじゃくる栞の背中をさする。静まり返った夏の丘に彼女の嗚咽だけが響いていた。

「……それを言うならこーちゃんもだよ」

「え?」

「こーちゃんだって、ずっと自分を責めてる。ずっと苦しそうな顔してる。なのにどうして私だけが苦しまなくていいっていうの? どうしてそんなに優しいの?」

「……僕は優しくなんてない。優しいのはむしろ——」


 ——お前の方だ。


「……神様」

 栞が胸の前で手を組んだ。

「どうか、こーちゃんを救って下さい。もうこーちゃんを悲しませないで下さい。神様、どうか、どうか……」


 ——神様、か。

 その言葉に、僕はあの世界を思い出す。

 超越者となり、精神だけで銀河を漂っていたあの世界を。


 そうだ。

 僕は何を恐れているのだ。

 どの事態でも。どの世界でも。栞はいつも苦しんで、悲しんで、辛い思いばかりしている。

 理由はそれだけで充分じゃないか。


 始まりの世界。

 今では遠い昔のことだ。あの世界で僕は誓った。

 何があっても栞を守ると。

 何をしてでも守り抜くと。


 今の僕には、彼女を救わないことも出来る。彼女の死を受け入れて、この先の人生を歩んでいくことが出来る。きっと立ち直るのに時間はかかるだろう。何年か、何十年か。それは分からないが、それでも何とか立ち直った未来で好きなように生きることも悪くないかもしれない。


 けれど。


 けれどここで諦めれば、彼女を救うためにこの理不尽な世界でもがき、抗い、彼女の亡骸を抱えて事実を変え続けた僕の挑戦がなくなってしまう。あの流星たちのように、全てが消えてしまう。僕だけが持つトライ&エラーの記憶が全てナンセンスになってしまう。


 そんなのは絶対に駄目だ。


 世界に歯向かった全ての僕と、何より苦しみ続けた全ての彼女を、なかったことになんてさせない。無意味になんてさせない。そのためなら僕は何だってしてやる。


 それにやっぱり、僕は栞が好きなのだ。

 どうしようもなく好きなのだ。

 たとえ大切な人たちから忘れ去られても。たとえ彼女が僕のことを思い出せなくなっても。たとえ肉体を捨てて永遠に宇宙を彷徨うことになっても。今の僕には、それもいいと思えてしまうのだ。


 だから——。


「栞。やっと決心がついたよ」

「……こーちゃん?」

 彼女の両手に、僕の両手を重ねる。

「僕のことを祈ってくれてありがとな。嬉しいよ、本当に。でもな、栞。お前がそんなことをする必要はないんだよ。お前が救われるなら、僕なんかどうだっていいんだよ」

「どうしたの? ねえ、何言って……」

「今まで色んな世界を見てきた。色んなものになってみた。色んな人生を歩んできた。普通の人間じゃ絶対に出来ない経験だ。そして今日、お前とここで星の降る夜を見れた。僕はもうそれで満足だ。もう充分生きたんだ」


 意識を右手に集中させる。

 右手が青く光り輝いた。


「何……これ……? ねえ、やめてよ。行っちゃやだよ。ねえ! こーちゃん!」

「こんな頑固で偏屈な僕と、友達になってくれてありがとう。一緒にいてくれてありがとう。世界を見せてくれてありがとう。僕は今から、その恩返しをしに行くよ」

 光輪が出現する。


 そうだ、最後にイタリアに行こう。


 そんなアイデアが突発的に浮かんできた。

 あそこは栞が行きたいと言っていた場所だ。少し遠回りにはなるが、この世界の彼女の供養にはちょうどいい。


 すまない、栞。

 もう少しだけ時間をくれ。


「……すまない。やっぱり、すぐにはできなさそうだ。本当はこのままあの世界へ行くべきなんだろうけど、最後にもう一度だけこの世界を見ておきたいからさ。だからあと少しだけ我慢してくれ」

「こーちゃん! やめて! 行かないで! もういいの! もう——」

 巨大な光輪の真ん中から一筋の光が天へと立ち上る。

 さあ、これでお別れだ。

 僕のいない世界で、押井と幸せにな。

「さようなら、栞」

 最高の笑顔で彼女を見つめた。

 意識が途切れた。

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