四・一・二

 ※注意

 本稿は比較的長い哲学解説パートとなっております。読者様によっては退屈に思われる方や読む時間がない方がいらっしゃるかと思いますので、次稿四・一・三にて簡単な用語集を設けました。作者としては是非読んでいただきたいものですが、ご都合の合わない読者様はそちらをお読みいただきますようお願いいたします。

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「『論理哲学論考』は分析哲学に強い影響を与えた、歴史的にも重要な哲学書だ。だが同時に死ぬほど難解な本でもある。正直、僕自身もその内容を完璧に理解しているとは言い難い。だからここでは、僕の能力の解釈に必要な部分だけを、本文から引用しながら語ることにするよ。オーケー?」


「オーケー」


「よし。じゃ、まずは始めから。命題一・一、『世界は事実の総体であり、ものの総体ではない』。これはどういうことか。例えば君の前にはアイスティーの入ったグラスがあるな。そのグラスは、決してそれ単体でこの世界に存在しているわけじゃない。それは、『昼過ぎに、イタリアのサービスエリアで食事を取っているアレッシアという人間の前に置かれているグラス』という文脈——あるいは命題と言ってもいい——の中に存在している。そして、世界はそんな文脈や命題——それが事実だ——を全て集めたもののことを指すというわけだ」


「なるほど。要するにものは他のものとの関りの中に存在するってことだ」


「そういうこと。では次だ。命題二、『成立していることがら、すなわち事実とは、諸事態の成立である』」


「ちょっと何言ってるか分からなくなってきたな」


「まったくだ。事実と事態は何が違うんだって話だよ。『論考』はこういう用語の説明が不十分だから困る。だが理解できないわけじゃない。もっとも、これを理解するためにはウィトゲンシュタインの言葉の使い方を知らなくちゃならない。事態ってのは要するに論理的に成立可能な事象だ。例えば、『この店にエリザベス女王が来店する』とか、『君が今から僕を殺す』とかは論理的には起こりえる事象だ。でも実際は違う。クイーンは多分ここには来ないし、君も恐らく僕を殺したりはしないだろう。つまり事態ってのはあくまで論理的に成立可能な事象ってだけで、実際成立するかどうかはまた別の話だ。そしてウィトゲンシュタインは、それら事態が存在しうる空間を論理空間と名付けた。物体の存在可能な位置の総体を三次元空間と呼ぶのと同様に、ある事象が現実に起こりえる論理的可能性の総体が論理空間ってわけだ」


「ははあ、つまり事態は可能性ってことだ」


「その認識で問題ない。ところが事実に関しては少し異なってくる。事実は事態のうち成立したものを指す言葉だ。だから事実の方がより狭い概念ってことになるだろう。ここまでの話を簡単にまとめると、事態はこの世界において起こりえる事象のことで、論理空間内に存在する各座標のこと。そしてその内の成立した事態こそが事実であり、全ての事実の集合がこの世界ってな感じだ。ここまでは理解できたか?」


「ふむ、これは予想以上にややこしい話だ」

 そう言うとアレッシアは困ったように笑ってみせた。まるで少女のようなあどけなさのある笑みだ。彼女の年齢は知らないが、きっと結構若いのだろう。


「でもまあ、理解できなくはないね。なんとなくではあるが、まだ付いていけてるよ」

「素晴らしい。では次に進もう。命題二・一、『われわれは事実の像を作る』。この文から始まるパートは主に写像理論にまつわる話だ」

「写像理論?」

「ああ。『論考』の骨子になるのは二つの理論だ。前半が写像理論で、後半が真理関数論。この二つの理論を掘り下げて、最終的に言語と世界、つまり認識の限界を指摘するってのがこの本の大まかなストーリーラインだ」


「んーと、ちょっとヤバさが滲み出てきた感があるね。早くも脱落の予感がする」

 アレッシアは苦笑いを浮かべてみせた。まるで『論考』を初めて読んだ時の自分を見ているようだ。


「気持ちはよーく分かる。なるべく分かりやすく説明することを心がけよう」

「そうしてくれ」

「ここでいう像ってのは事実を描いたもの、あるいは事実を写像したもの。つまるところは現実に対する模型のようなものだ。例えば僕が今食べてるのはこのポモドーロだから、『僕の目の前にパスタがある』というのは事実だ。そこでもし僕がこのパスタの絵を描いたとしたら、その絵は『僕の目の前のパスタ』という事実に対する像ということになる。像ってやつは色々なんだな。必ずしも絵である必要はない。僕がこのパスタに熱いインスピレーションを受けてパスタの交響曲を作曲したならそれもまた像だし、パスタをレゴブロックで精巧に作ってみせたならばそれもまた像だ。何なら僕は今言語を用いてパスタのことを語ったわけだがこれだって立派な像だ。そんでもって、僕ら人間は現実の模型である像をこしらえることによって——例えば本のように——事実や、成立していない事態までも表現できるんだな」


「それが『事実の像』か」


「そうだ。だがここでウィトゲンシュタインは考えた。一体全体どうして現実を像として写し取れるのだ。何の関係もなしに写像できるというのは奇妙ではないのか。そして彼は気がついた。世界と像との間には何らかの共通事項があるはずだと。それが写像形式だ。命題二・一五、『像の要素が互いに特定の仕方で関係していることは、ものが(それと同じ仕方で)互いに関係していることを表している。像のこのような結合を構造と呼び、構造の可能性を像の写像形式と呼ぶ』。つまりだ。まず現実には、全ての事象に関して共通する形式、つまり事象が現実において成立するために必要な形式が存在する。それを論理形式という。言語に置き換えれば文法のことだ。僕の言葉がイタリア語であるためには、イタリア語の文法に則っていなければならない。事象だって、現実に現れるためには論理形式に則る必要がある。そして像が成立するために必要な、論理形式と同等の形式こそが写像形式だ。像は現実の事象を模したものなんだから、こちらも当然論理形式に則っていなければならない。よって写像形式は論理形式でもある。また論理形式と写像形式が一致するときの像は論理像とも呼ばれるから、この世に成立している全ての像は論理像でもある。像は論理像だから、像は世界の有様を描くことができる。すなわち像は世界を記述できる。と、まあこういうことだ。さらに彼は、言語を用いた命題こそが最も強力な像だとも言った。中々ややこしくなってきたがここまで大丈夫か?」


「大丈夫なわけないだろう。頭がこんがらがってしょうがない」


「それもそうだな。ま、長々語ったが結局ここで重要なのは、言語こそが最も正確に世界を記述できるってことだけだ。だからこの部分だけ分かってもらえればいい」


「なら最初からそう言いなよ」


「悪い悪い。つい熱が入ってしまった。ま、とりあえず話を進めよう。命題三、『事実の論理像が思考である』。これも例を挙げよう。『ジョンレノンが拳銃で撃たれて死亡した』というのは現実に起きたことであり事実だ。だからこの文は事実を写像した論理像でもある。よって我々はこの文について思考することが可能だ。一方で、『音楽こそ青空であり、腐った飛行船がニンジャの真理をオフチョベットする』という文は明らかにナンセンスだな。僕も今言ってて意味が分からなかった。何故ならこれは世界を写し取っていない、つまり論理形式に当てはまらないからだ。ということは、この文は論理像ではないということになる」


「ならば人はその文について思考することができない?」


「お見事。もう少し噛み砕いて言うとこうだ。命題三・〇二、『思考は、思考される状況が可能であることを含んでいる。思考しうることはまた可能なことでもある』。つまり、我々の思考対象は論理的に可能なこと、すなわち論理空間内に存在する事象のみであるということになる。そのため我々は論理像でないものや非論理的なことを思考することはできないし、言語によって語ることもできない。だが逆に言えば、我々は全ての論理的な事象を思考することができ、また言語によって語ることができるということだ。だからウィトゲンシュタインは、語られうることは明晰に語られうると説いたわけだが、この話はまたおいおい。と、ここまでが『論考』の前半部分だな」


 言い終えてから僕は背もたれに背中を深くあずけた。口の中で唾液が粘りを増している。喉が渇いている証拠だ。僕はコーラをぐびりとあおった。

「これで前半とは。先が思いやられるね」

 アレッシアがわざとらしく肩をすくめる。困ったような笑みを浮かべてはいるが、さっきまでテーブルに身を乗り出して目を輝かせていたあたり、それなりに楽しんでくれているらしい。


「言っとくけど、この本は後半の方がハードだ。何せ真理関数理論はラッセルやフレーゲよろしく記号論理学の話が盛りだくさんだからな。あれは本当に難しかった」

「うへえ。気が滅入りそうだ」

「ま、ここじゃ詳しくは話さないが」

「しないのかよ」

 アレッシアの鋭いツッコミが炸裂する。すごいな。関西芸人に負けるとも劣らない切れ味だ。

「いやまあ、しないことはないけど、あんなものをマトモに説明してたら日が暮れてしまう。だからここでは概要くらいにしておくよ」

「了解だ」

「では」

 僕はこほんと咳ばらいをした。


「真理関数の話をする前に、まずはウィトゲンシュタインが『論考』で何を言いたかったのかを明らかにしておこう」


「つまりは主張か」


「そうだ。彼の、そして『論考』の最終目的。それは、我々の思考の限界を示すことだ」


「思考の限界?」


「ああ。我々は世界をどこまで知れるのか。どこまで物事を考えられるのか。逆に、我々は何を考えることができないのか。彼はこれを知りたかったわけだ。そのために、彼は言語を分析した。さっき言語による命題こそが最も強力な像だって話をしたな。命題四、『思考とは有意味な命題である』。だから彼は有意味な命題の限界はどこか、命題によって語ることのできないものは何かを明確にすることで、思考可能な範囲を見つけ出そうとしたんだ。その思索の中で、彼は完璧な人工言語を考えた」


「またよく分からないものが出てきたな」


「ちゃんと解説するさ。ここでいう人工言語ってのは、僕らがこうして使っている日常言語じゃない。いわゆる形式言語ってやつだ。彼は、日常言語こそが哲学上の諸問題の元凶だとして、完全に分析された命題のよって成り立つ人工言語を想定したんだな。命題ってのは、つまりは真偽の判定が可能な言語表現のことだ。だから約束文や命令文は命題じゃない。んで、この命題は二つに分けられる。それが要素命題と複合命題だ。要素命題はラッセル流に言うと原子命題なんだが、要するにこれ以上分解できない、命題の最小単位のことだ。例えば『これはバナナである』って命題があるとする。だがこのバナナは『バナナとは、果実を食用とする、バショウ科バショウ属の品種群の総称である』ってな感じで分解できる。でもバショウ科は『バショウ科とは単子葉植物ショウガ目に属する植物の総称である』と分解できるし、さらにショウガ目は……と、これ以上はキリがないから止めとくが、とにかくほとんどの命題は猛烈に細かく分解できるわけだ。そして分解しまくったその先、僕らには到底理解できないレベルにまで分解して、もうこれ以上は不可能ってところまでやりきった命題を要素命題という。また、この要素命題を組み合わせることで出来上がる命題が複合命題だ。だからさっきの『これはバナナである』は複合命題ってことになる。そしてここからが、真理関数の話だ」


「さっき言ってたやつだね」


「真理関数ってのは、簡単に言えば命題の関数のことだ。関数が何かは分かるか?」


「y=2xみたいなやつだろ。一方の値が決まれば自動的にもう一方の値も決まるっていう」


「うむ。ウィトゲンシュタインは、完璧な人工言語を構成する命題だって関数のようなものだと説いた。命題五、『命題は要素命題の真理関数である』。ここで、『私はパスタが好きである』を命題一とし、『私はパエリアが好きである』を命題二として、この二つの命題が要素命題であると仮定しよう。そうすると『私はパスタが好きである、かつ、私はパエリアが好きである』という命題三は命題一と命題二の複合命題ということになるな。ではここで、命題一も二も真の時を考えてみよう。つまり僕がパスタもパエリアも好きだった場合だ。するとこの時命題三は真だ。だがもし命題一が真で二が偽だったら、つまり僕がパスタは好きだがパエリアが嫌いだったら、命題三は偽になる。これって、要素命題の真偽値が判明すればそれを含む複合命題の真偽値も自動的に決まってると言えないか?」


「ああ、なるほど。命題は要素命題の真理関数ってのはそういうことか」


「そういうことだ。複合命題は、要素命題の真偽値によってその真偽が決定される。ウィトゲンシュタインはこの真理関数論を用いて、世界の限界、思考の限界、そして哲学において扱うべき領域を指摘しようとした。その結果、彼は様々な語りえないことを洗い出した。その一つが論理形式だ」


「論理形式っていうとあれだね。事象が成立するために必要な共通の形式のことだ」


「そうだ。彼に言わせればそれは語ることができない。命題四・一二一、『命題は論理形式を描写できない。論理形式は命題に反映されている。言語に反映されていることを、われわれは描写できない。言語において自ずから姿を現しているもの、それをわれわれが言語で表現することはできない。命題は現実の論理形式を示す。命題はそれを提示する』。要はだ、論理形式について言語で語った場合、その言語自体が論理形式を用いているから説明が成り立たないってことだ。こういうのを循環論法って言うんだが、ある事象について語りたいとき、その事象を用いて語ってしまうと命題が意味をなさなくなるんだな。この場合だと、論理形式について語ろうとして、論理形式が用いられている言語を使って語ってしまっている。よってこの命題はナンセンスだ。同様の理由で存在も語ることはできない。『存在とはなんたらである』って命題で存在を語ると、この『である』の部分が存在を意味しているから循環論法になってしまうんだ。英語で言えば『Is is ○○』って感じだ。これも『Is』を『is』で語っているからナンセンスになってしまうんだな」


「でも存在といえばハイデッガーが語ろうとしていなかったか?」


「よく知ってるな。君の言う通りだ。マルティン・ハイデッガーは著作『存在と時間』の中で存在とは何かを解き明かそうとした。ウィトゲンシュタインら論理実証主義の面々とは考え方が全然違ったのさ。ま、ハイデッガーといえば一応分類上は実存主義に当てはまる人だからな。無理もない。さて、話を戻そう。彼が語りえないものとして挙げたのは他にもある。それは形而上学的なものだ」


「形而上学的なものというと、神とか世界とか美とか、そういうやつだろ?」


「ああ。彼はそれらを語ることができないとした。何故なら形而上学的な命題は現実の対象とどのような関係が成立しているかについて真偽を判断することができないからだ。さっきの真理関数の話を思い出してくれ。要素命題の真偽値が分かれば複合命題の真偽も知ることができる。だがもし要素命題の真偽値が分からなければ? その場合、複合命題の真偽値は解なし、つまりナンセンスになってしまう。そして形而上学ってのは真偽が判別できない命題だ。例えば『神はいる』という命題を考える時、その真偽を判断することは現在の我々には不可能だ。だからこの命題はナンセンスだし、これを要素命題とした命題もナンセンスになる。そのような命題は有意味な命題ではない。ならば思考不可能であり語ることもできない、とこういうことだ。命題六・四二、『それゆえ倫理学の命題も存在しえない。命題は(倫理という)より高い次元をまったく表現できない』、命題六・四三二、『世界がいかにあるかは、より高い次元からすれば完全にどうでもよいことでしかない。神は世界のうちには姿を現しはしない』、と神にも倫理学にも容赦なくダメ出ししてるよ」


「それはつまり、神の存在を否定してるってことか? 一応アタシはクリスチャンなんだけど」


「そういうわけじゃないさ。彼は決して否定してるわけじゃない。ただ分からないと言ってるだけだ。神はいるかもしれないし、いないかもしれない。それは我々には分からないし知ることもできない。だから語ることもできない。こういうことだ。それに彼は語れずとも示すことはできると言っている。美についての命題がナンセンスだとしても、絵画や音楽で美を表現することはできる。それが美を示すということだ」


「なるほど。まあそれなら納得するよ」


「それは何よりだ。さあ、それじゃあ最後に、ウィトゲンシュタインが残したとんでもない爆弾発言に触れよう。命題七『語りえぬものについては、沈黙せねばならない』」


「それのどこが爆弾だと?」


「これは本当にとんでもないよ。この言葉はつまり、存在や形而上的対象のような語ることも思考することもできないものについては皆黙りましょうって意味だ。それに、今までの哲学で生じたあらゆる問題は、語りえないことを無理に語ろうとした結果生じたものであって、我々がすべきなのは語りえることのみを明晰に分析することだ、という意味にもなる。これは、古代ギリシア哲学や中世哲学、さらにはデカルトから始まりハイデッガーまで続いてきた近代哲学の全て否定するような意味なんだよ」


「あーそういうこと。つまり、今まで皆さんが頑張って考えてきたことは全て無意味でしたって言ってるようなものか」


「そうだ。彼は人類が紡いできた哲学の歴史をナンセンスの一言で片づけのさ」


「こりゃ確かに爆弾発言だね」


「だろう?」


「けどさ、思ったんだけど、これってウィトゲンシュタイン自身も語りえぬことを語ってないか? だってそもそもコイツの言ってることってかなり倫理的なのに、それをさも真偽が分かるかのように断定口調で語ってるだろう?」


「君は本当に鋭いな。天才か? まさにその通りだ。だから彼は最後の方にこう残している。命題六・五四、『私を理解する人は、私の命題を通り抜け——その上に立ち——それを乗り越え、最後にそれがナンセンスであると気づく。そのようにして私の諸命題は解明を行う。(いわば、梯子をのぼりきったものは梯子を投げ棄てねばならない。)私の諸命題を葬りさること。そのとき世界を正しく見るだろう』。要約すると、君がこの本が理解できたなら俺の言ってることが意味をなさないことが分かるから、こんな本は捨ててしまえってことだ」


「へえ。結構キザなんだね、この男は」


「そうかもしれないな。とまあ、これが『論理哲学論考』の概要だ。あー疲れた」

 僕は疲労感を吐き出すように溜息を吐いた。

「で、これでようやくアンタの能力の概要が聞けるってわけだね」

「ああ、その通りだ」

「一つ言っていいかい?」

「何だ?」

「長いんだよ馬鹿!」

「ははは、返す言葉もないな」

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