44.本当のヒーロー


 僕と葉の体が河原の砂利の上に引き上げられた。僕らはせき込みながら酸素を求める。仰向けになって見上げる夜空は真っ赤な地獄のそれではなく、暗く濁った雨雲のままで、僕らを出迎えたのも閻魔大王や『神曲』の冥王ミノスではなかった。


「お二人とも何をなさっているんですかぁ!」


 僕らを見下ろしていたのはインスマスだった。不気味な外見とは裏腹に、僕らよりも少し年下に感じる可愛らしい女の子の声で僕らを叱責する。


「こんな増水した川に飛び込んだら、普通助けてもらえませんよ! 通りがかったのが私だったから良かったものの!」


 どうやらこのインスマスが僕らを助けたらしい。僕は酸欠気味の頭で命の恩人を観察する。首から上は魚のそれだが、着ている服はどこかあか抜けておらず、中学にあがったばかりの女の子が精一杯おしゃれしたような印象を覚えた。


「お二人がどんな関係か知りません。でも想いあっているなら心中なんて絶対ダメです!」


 彼女には僕らが戦っているところは見られていないらしい。恋人同士の心中と思われたようだ。途端に申し訳なさがこみ上げる。僕らは殺しあっていただけで、それを助けるため、このインスマスのおしゃれな服を川の水で汚させてしまった。クリーニング代を出したいが、僕の財布の中身もグチャグチャになっていて難しいだろう。どうにかツケにできないものか。


「生きていれば辛いことはあります。でもきっといいことだってあるはずです! だから自殺なんてダメです!」


 仰る通り、全くもってごもっともだ。もし僕が『全日本ごもっとも選手権』の審査員なら、彼女に最優秀賞を与えて世界大会に送り出したに違いない。僕の思考がそんなくだらないことを考えるのにうつつを抜かしていると、遠くの方からサイレンが聞こえてきた。爆発音がして、橋が崩れれば通報くらいされるだろう。インスマスの少女もその音を聞き取ったのか、顔を上げて周囲を見渡し、また僕らを心配そうに見下ろした。


「私はもう行かないと。でも私が行った後に川に飛び込んじゃダメですよ! 絶対ですよ! 死んだら私、化けて出てやりますからね!」


 そうなったら死ぬのは僕らだから、化けて出るのも僕らの方では? そう言おうとしたが、さっきまで死にかけていたので僕の舌は上手く回らない。


「お二人ともお元気で! お幸せに! いい人生を!」


 インスマスの少女は縁起のいい別れの言葉をいくつも僕たちに贈りながら川に飛び込み、流れに逆らいながらもすいすいと泳いでその場を去った。

 僕はインスマスの少女が去ってから、ようやく起き上がって、葉の方を見ることができた。彼女はまだ仰向けで寝ていて、さっきまでインスマスの少女がいたところをじっと、瞬きせずに見ていた。


「あ……ああ……!」


 ぐいっと手錠で繋がれた僕の手が引っ張られる。


「ああああああああああっ!」


 葉は叫びながら頭をかきむしる。憎んでいた相手に、殺してきた相手と同じ種族に、彼女は慈しみを持って命を救われた。


「ああああああああっ! 母さぁぁぁぁぁん!」


 そうやって救われた彼女の絶叫に込められた感情は、あまりにも複雑すぎて、きっと誰にも受け止めてあげることはできないのだろう。


「母さぁぁぁぁん! なんで! なんでぇぇぇぇ!」


 僕は葉の腕についた手錠を外し、立ち上がる。じきに警察が来る。本当はずっと葉のそばにいてあげたい。だけど、それで彼女に何か得があるか? ない。逆に葉にとって不利になりかねない。


『あなたが麻霧さんを殺そうとしたんですか? 何で?』

『爆弾を発射する銃? どこにあるんですか? そんなのものが』

『あなたの首には絞められた跡がありましたが、自分でやったんですか?』

『葉さんの爪からあなたの皮膚が検出されましたが、彼女はあなたを殺そうとしたのでは?』


 警察からのこういった詰問に、僕は葉や、みかりを庇いきれる自信がない。だから僕は逃げなければならない。葉を襲った不審人物として、そして葉が生きる支えとなる復讐の相手として。


「ああああああっ! ああああああああっ!」


 葉の叫びを背に浴び、右腕に誰とも繋がっていない手錠をぶら下げたまま、僕は足を引きずって闇の中へ逃げ出した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る