31.アイキャン……


 僕がきわみに指定された地点に到着したとき、雨が降り始めたにもかかわらず、その場には既に人だかりができていた。マスクの下で歯噛みする。まずい状況だ。


「通してください、すいません。通して!」


 トカゲ頭という目立つ見た目だからか、こちらを視認した通行人は道を開けてくれるので、人を掻き分けて進むのはそう難しくなかった。

 僕が人だかりの中心にたどり着いたとき、そこには周囲からスマホで写真や動画を撮られている、一匹のインスマスがいた。インスマスは逃げ出すでもなく、魚面で周囲をきょろきょろと見渡している。


「皆さん! 危険です離れて!」


 インスマスはより多くの人間が集まってから『自爆』するつもりだ。だから逃げないのだ。僕はVALを持って人だかりの中心に躍り出ると、インスマスが僕の姿を認める前に、その肩めがけVALを振り下ろす。


「Giii!」


 僕がこの一ヶ月で何度も聞いた、悍ましい叫び声をインスマスは上げ、僕から遠ざかろうとする。しかしダメージとしては全然足りていないからか、出血こそしているがインスマスは逃げるそぶりを見せない。


「この怪物は危険です! 離れて!」


 周囲の人々さえ離れてくれれば、一瞬で殺して終わりにできるのに。僕の思いとは裏腹に、周囲の人たちはスマホを僕とインスマスに遠慮なく向けたままだ。「なんかの撮影?」「え、血マジっぽくね? やば」などと口々にする愚かしい彼らに腹が立ってくる。

 僕は間合いを再度詰めて、インスマスの鼻先目掛けてVALを振り下ろす。小賢しくもインスマスに腕で防がれるが、その骨を折った感触がVAL越しに僕の手に伝わる。痛みに耐えかねたインスマスは呻きながら地面にしゃがみ込む。


「くそっ!」


 蹲るな。この場に留まるな。とっとと僕たちの、僕と葉のいる世界から消えろ。そう念じながらインスマスを何度も蹴りつける。それでもインスマスはその場から動かない。周囲から聞こえる声が軽薄なものからどよめきに変わる。


「おい、君。酷くないか」


 誰かが僕の肩を掴んだ。僕は反射的に肘でその存在を突き飛ばす。


「離れろって言ってるのが聞こえないのかボンクラ共!」


 叫んで突き飛ばした相手を見る。頭の禿げたおじさんだった。どこにでもいそうなおじさんで、彼の奥さんと思しきおばさんが傍に駆け寄り「あなた、関わるのはやめて」と言っている。

 夫婦の目は怯えきっていた。いや、それだけではない。周囲のスマホを持った一般人全員が怯えた目をしている。彼らの視線はインスマスに向けられてはいなかった。


 彼らを救おうとしている、僕に向けられているのだ。


「ごめんなさい……許してください……」


 不意に足元から声が聞こえた。その声が攻撃していたインスマスから発せられたことに、僕は1、2秒の間気づくことができなかった。


「やめて……お願いです……」


 それは少年の声をしていた。か細く、自信がなさそうで、普段からびくついて生活していそうな、ひどく怯えた少年の声だった。今まで相対してきたインスマスと違う声音に、僕の体は意に反して止まってしまう。

 僕が周囲の視線と、インスマスの声に気を取られ攻撃の手を緩めた僕の隙を突いて、インスマスは這うようにしながら立ち上がると、人だかりを掻き分けながら、この場からようやく逃げ出す。

 動きを止めてしまった自分の体たらくを呪う。逃げ出した先で自殺によるDWを起こさないとも限らない。僕は失態を挽回すべく、インスマスが作った道をなぞるように人々の間を駆け、インスマスを追跡する。


「誰か……! 誰か助けて!」


 僕の前方を走るインスマスが息を切らしながら叫んでいる。

 ふざけるな。世界を壊そうとしている邪神の手先の癖に、人間みたいに命乞いなんかしやがって。騙されて助けてしまう人間が出る前に、何としてでも人気のないところまで追い立てるか、殺さなければならないが、


「Gu……!」


 信号を無視して横断歩道を渡ろうとしたインスマスをトラックがはね飛ばしたことで、それは達成できなくなった。はねられたインスマスの体が人形みたいに飛んで、信号待ちをしていた男女のすぐそばに落下する。


「きゃぁぁっ!」


 インスマスの姿を見た女性が絹を裂くような叫び声をあげた。インスマスは首や手がおかしな方向に折れ曲がっていて、ピクリとも動いてはいない。


 まずい、まずい、まずい!


 明らかにインスマスは死んでいる。そして目の前の休日を楽しんでいたであろう男女は、当たり前だが頭部を全く保護していない。おまけにインスマスをはねたトラックの運転手が降りてきて駆け寄っている始末だ。DW、精神を壊す波が来る。僕は目の前で彼らが狂うのを、自分のヘマで3人もの人間が廃人と化すのを見たくなくて目を閉じてしまった。


「大丈夫ですか?!」

「やばいよこれ」

「救急車、救急車呼んで!」


 けれども、僕が聞いたのは精神が侵された人間の叫び声ではなく、事故にあった人間を助けようとする無辜の人々のやりとりだった。もしかするとDWの影響で状況を正しく認識できていないのかもしれない。僕は恐る恐る目を開ける。


「これ仮装か?」

「脱がせてみま……いや、なんだこれ?」

「救急です。はい、仮装した人がはねられて――」


 彼らは狂っていなかった。目の前の魚人間の風体をおかしいとは感じていたし、それを仮装か何かと勘違いしたまま、救急車を呼ぶ理性があった。

 どういうことなんだ? DWが発動しなかったのか? それとも死んだインスマスの周りにいた3人全員が僕と同じ<特異点体質者>だったのか? 珍しい体質だと葉は言っていたが、こんな偶然あるのか?

 少し離れたところから、インスマスを蘇生させようとする人たちを眺める僕のマスクの中の頭は、次々と湧き出る疑問に明確な答えをだせないままでいた。


 ◆


『まずいの、思ったより数が多い』


 インカム越しに聞こえるきわみの声からは焦燥の色がにじみ出ていた。


『アーケード、オフィスビル街……マジか?! アジト近くにも目撃情報があるぞ!』

『我々の体は便利に分割できないぞライトフェザー君! ルーズベルト君、君も動けないか?』

『無理ぃー! なんかパトカーのサイレン聞こえるし、撤退しないとだし!』

『私も無理。人が多くてうまく動けない』


 メンバーの様子からも作戦の進捗は思わしくないことが感じ取れた。


「ライトフェザー。僕なら動ける。一番近い目撃地点を教えてくれ」


 現在地点を伝えながら、僕はひとまず事故死したインスマスから踵を返して離れることにする。疑問は一旦後回しだ。芳しくない状況でも、まずはこの街を救わないといけない。


『その近くに地下駐輪場がある。そこに二匹ばかし魚人間が逃げ込んだらしい』

「分かった」


 返事を返し終える前に走り出す。件の地下駐輪場の入り口へはすぐ到着できた。『不思議の国のアリス』よろしく

ウサギを追って穴へ飛び込むように、僕は駐輪場へ通じるスロープを駆け下りる。所々照明が切れている薄暗い駐輪場に入ってすぐ、子供の泣き声が聞こえてきた。


「ひっぐ、うえ、うぇぇん!」

「こわい、こわいよぉ、おかあさぁん」

「大丈夫、大丈夫だから。お父さんの顔を見て深呼吸して」


 声から察するに女の子二人、安心させようとする男性が一人。口調から後者は女の子たちの父親だろうか。女の子たちはインスマスの姿を見てしまい、怖がって動けないのかもしれない。街の管理する駐輪場なのでそこそこの広さがあるが、袋小路になっている所もある。追い詰められた彼らをインスマスが襲ったらひとたまりもない。


「大丈夫ですか! 今そちらに行きます!」


 僕は呼び掛けながら、顔の見えない親子を捜索する。声を張り上げながら、状況によってはインスマスの追跡より、親子の避難誘導とその警護を優先するべきかもしれないと考えていた。捜索を開始して十数秒後、通路の端で隠れるようにしている親子が見つかった。インスマスより先に見つけられたと安堵しながら、僕は遠くに見えた親子を助けるべく走り寄る。


「助けにきました! もうだいじょう……ぶ……」


 けれど、僕の安堵は風に吹かれたキャンディの包み紙みたいに吹き飛んでいった。


 僕の目の前にはしゃがみこんで子供を守ろうとする、30代半ばくらいの男性の姿があった。もちろん人間だ。でも、男性が両手に抱えて守ろうとしていたのは人間の子供ではなかった。


 彼が守っていたのは、突き出した口と鼻先。青白い皮膚。黒く大きい目玉。魚人間と評するのが相応しい容貌をした存在。インスマスーーの子供だった。


「もどらないよぅ!」

「おかあさぁん! おかあさぁん!」


 男性が守っているインスマス二匹は、女児サイズの服を着て、人間の女の子のように泣きわめいている。彼女たちは僕の姿を認めると、より一層激しく泣きだした。父親らしき男性は自分が僕と彼女たちの壁になるように両手を広げて立ちふさがる。


「た、頼む、この子たちは何もしてない、傷つけないでくれ!」

「……」

「静かに暮らさせてやってくれ!」


 何もかもが理解できない僕は、携行していた塩水スプレーを男性にかける。男性は目に入った塩水に目が染みて顔をこする。だけど、彼の顔が魚人間に変わることはなかった。


「げほっげほっ……頼む。娘たちは、娘たちだけは見逃してくれ……」


 目をしょぼつかせながら懇願する男性の言葉が信じられない。なんで人間がインスマスの子供を守っているんだ? いや、そもそも



 な ん で 親 が 子 供 を 守 っ て い る ん だ ?



『あんたがいなければ!』

『ごめんなさい、お母さん、ごめんなさい』

『外で見かけても話しかけんなって言ったろ!』

『ごめんなさい、もうしないから』



 記憶の奥の奥の奥の最奥に埋没させたはずの情景が蘇ってくる。忘れようとしていた母との記憶が浮かび上がってくる。


 思い出すな思い出すな思い出すなこんな修羅場に緊急時に思い出すな戦え戦えVALをしっかり握れ握れVALを握れ思い出すな戦え戦え戦い続けろ


 念じて頭を振る。必死に記憶を消し去ろうとする、滑稽なトカゲ男の姿が、駐輪場に設置された事故防止のためのカーブミラーに映る。カーブミラーに映ったトカゲ男の目が、僕をぎょろっと見つめている。



 できるのか?


 何も持ちえないお前が


 親に捨てられたお前が


 価値のないお前が



 語り掛けるトカゲ男と、子供のインスマスを庇う男性と、視界の端にちらつく記憶の中の母の目が一斉に僕を見る。

 インスマスは殺さないといけない。彼らを庇うなら、そいつも同罪だ。世界のため、葉のために殺さなければ。大丈夫、僕はやれる。僕はやれる。一人で生きていける。一人でこの街で死ねる。やれる。やれる。やれる。やってやる。やってやる。殺してやる。


「あぁぁぁぁぁぁぁ!」


 ただ繰り返し念じて、絶叫の中VALを振り下ろす。


 ◆


 地下駐輪場から上がってくる僕を、葉が出口でマスクを外して待っていた。


「お疲れ様レプト」

「うん」

「暴露には成功したわ。でも警察が動き出した。今日はこのまま解散して、後日集まりましょう」

「うん」


 僕は適当に相槌を打ちながらマスクを外す。顔に纏わりついていた熱気が夜風と雨で冷やされていく。


「大丈夫? レプト」


 葉は心配げに僕の顔を覗き込む。雨に濡れた彼女の顔は、照らす街の光と相まってとても艶やかだ。


「……12匹」

「え?」

「駐輪場に『人』はいなかった。だから2匹いたインスマスは追い詰めて殺した。合計12匹に記録は更新だよ」


 僕が力なく言葉を吐くと、葉は濡れた体で僕に抱き着く。


「大丈夫? ケガしていない?」

「うん、大丈夫」


 僕の背を葉の手が愛おしそうに撫でる。けれどその手が撫でる体は、まるで自分の体ではないような感覚がした。

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