19.幸せな幻想


 9月23日 金曜日 祝日 午後1時05分


「きわみに関しては私たちも知らないことが多い……いえ、正体を掴めていないというのが現状よ」


 横に並んで、晴れた街路樹の並ぶ道を歩く葉の言葉に、僕はさほど驚いてはいなかったが危機感を覚えた。


「彼女は独自の情報網でAIA、というかラフトラックと私の活動を察知し、接触してきた。地元の人間しか知らないような情報を即座に集めているし、あなたも見た地震の件もあるからこの地域に住んでいることは間違いないのだけれど。今は脇をしっかり固めているのか、私も含め彼女のフォロワーすら詳細な特定はできていないわ」


 白いシャツに黒のフレアスカートという休日の葉の出で立ちは、狩りをしている時の無骨さを感じさせないものだ。清楚な彼女の容姿に目線が向かい過ぎないよう意識し、目下の不安について語る。


「信用できるの? 社会に不安をもたらすって意味なら、彼女の動画投稿のスタイルもインスマスに負けてないし、第一彼女自身がインスマスかもしれないじゃないか」


 きわみは一度もアジトに『リアル』の体で来ていない。いつもパソコン越しにアバターでのみ現れていた。僕や葉やみかり、そしてラフトラックのように現場に出るわけではないその現状に、僕は疑問を抱かざるを得ない。先日、みかりが被害者の前でマスクを脱いだ行動に出たことも、少なからず僕の思考に影響を及ぼしていた。情報収集が彼女の仕事でも、せめてアジトに来てくれれば違うというのに。


「確かに、その可能性も否定はできない。でも彼女が提供するインスマス疑惑のある人物の情報は正確よ。日曜日に計画している狩りのターゲットも、彼女の情報網無しだったら辿り着けなかった」


 葉の話を補足すると、みかりのドローンもきわみの情報を元にインスマスの広域捜索をしていた。きわみ無しでは狩りの効率は大幅に落ちるだろう。


「それに、仮にインスマスだったとしても」

「しても?」


 僕は初めて彼女と夕食を共にした時と同じ空気を、鈍い殺気を葉から感じ取る。


「最終的に殺せばいいから」


 葉の発する威圧感に、僕は自分の生唾を飲みこむ音が彼女に聞こえないよう願った。


「と、ところで葉。やっぱりやめとかない? 特に楽しいこともないよ?」


 話題を逸らすように、そして普段ならいつも一緒に居たい葉に、僕はこの時ばかりはいて欲しくなくて懇願する。


「いいえ、ついていくわ」


 しかし彼女の意志は、今日の僕の予定を聞き、同行を決めたときから変わっていない。


「あなたがきわみのことを知りたいと思ったように、私もあなたのことが知りたいもの」


 そう言われてしまうと、僕に拒否する選択肢は無くなる。自分だけが身辺の様子を知られたくないというのはフェアじゃないし、好きな人に『あなたを知りたい』と言われるのはそう悪い気分ではないからだ。

 それでも僕は目の前に見えてきた『特別養護老人ホーム夢明園むめいえん』と書かれた看板へ近づくと、気分が重くなるばかりだった。


 ◆


 面会の受付をし、僕たちは老人ホームのロビーで目当ての人物を待つ。ロビーには他の家族連れも多くおり、皆短い再開の時間を精いっぱい近況報告や必要な書類のやり取りに費やしている。白を基調とした老人ホームの内装は、見る者にやわらかな印象を与え、安らぎを感じさせるようにデザインされているのだろうが、今の僕の焦燥には焼け石に水といった具合だ。


「青座さん、侍君が来てくれましたよー」


 職員が押す車いすに乗せられて、僕の祖母が姿を現す。ホームに入って白髪染めをやめた祖母の髪は真っ白で、しわくちゃの顔は傍から見ると起きているか眠っているか分からない。祖母は元々軽度の認知症のあった人だが、優しく活発な人だった。しかし足を骨折し外出の機会が減ったことから認知症が悪化。今は歩くこともままならない。

 目の前に来た祖母に、葉は綺麗なお辞儀をした。


「初めまして。彼のクラスメイトの麻霧 葉です」

「……」


 祖母がじっと細い目で葉を見つめるのを、顔を上げた葉もまた不思議そうに見る。今の内だ。僕は間に入って用を済ませるべく急ぐ。


「ばあちゃぁん。袋に新しい下着と、冬用の服入れてきたから。あとで職員の人に渡しとくね。あと必要なものあったら言って」

健三けんぞうさん、読みたいって言ってた本はどうでしたか?」


 祖母の言葉に、祖母に渡そうとした生活用品の入った紙袋を持つ手が止まる。


「とても楽しみにしていましたよね、新訳が出るんだって」

「……そうかもね」


 祖母の言葉に僕は肯定も否定もしない。


「健三さんって?」


 葉は尋ねる。そりゃそうだろう。まったく別人の名前で祖母が僕のことを呼ぶんだから。


「……じいちゃんの名前だよ」


 認知症が悪化してから、祖母は過去に住んでいる。本が好きだった祖父が生きていて、かつ母が子供だった過去に。頼むからもうこれ以上何も言わないでくれ。好きな人の前で恥をかかせないでくれと祈るが、それも無為に終わる。


かなえ、学校はどう? 毎日楽しい?」

「え?」

「ばあちゃん、違うよ。彼女はその人じゃないよ」

「どうしたの健三さん。自分の娘の事そんな風に言うなんて」


 認知症で見当識障害を起こしている人間に一番してはいけないという否定の言葉を、僕は思わず口にする。普段だったら我慢して流せるが、好きな女の子をよりにもよって母と誤認されるのは、死ぬほど嫌だったから。


「……私は大丈夫よ。なんとなく分かった」


 葉は僕の感じる不快感をよそに、しゃがんで祖母の手を取る。


「『お母さん』、学校は毎日楽しいわ。放課後の部活の方が楽しいけれど」

「そんなもんよねぇ、学校は」


 葉の嘘に、祖母は楽しそうにに応える。


「最近、クラスの男の子とも仲良くなったわ。ちょっとお父さんに似てるの」


 そう言ってから、葉は僕の顔を見上げる。僕の心臓は一瞬、矢に射抜かれたように痛んだ。


「まぁ、そうなの。お父さんが聞いたら喜ぶわ」

「ええ、でも秘密ね。二人だけの」


 笑いあう祖母と葉は本当の親子のようだった。そしてもし葉の持つ思いやりの心が、母に1ミリでもあってくれていればと呪う僕は、白い老人ホームに紛れ込んだ、黒いシミのようになった気がした。


 ◆


「とても暖かい人ね」


 老人ホームを出た後の葉の言葉に僕は頷く。自分の暮らしだけでも大変なのに、認知症が悪化するまで僕の面倒を見てくれた人だ。だから僕の生活が苦しくなっても、ヤングケアラーとして僕が面倒を見て心苦しさや生活しづらさを覚えるより、祖母にはホームで不自由なく暮らしてほしかった。


「ありがとう、ばあちゃんの妄想に付き合ってくれて」

「いいのそれに……」

「それに?」

「少し羨ましく思ったの」


 僕は葉の言葉が理解できない。自分でトイレに行くことも難しい状況の祖母を見て、そう思う人間はいないはずだ。


「人生の最後に、大切な人との幸せな記憶の中で生きていられるのが」


 葉の横顔は寂しそうだ。


「私は復讐に生きてしまったし、これからもそう生きると思う。私が自分の過去を振り返った時、ああやって幸せな記憶を思い返すことは無理だと思うから」


 違うと言ってあげたい。楽しい記憶を一緒に作ってあげたいと言いたい。でもそれで関係性が壊れるのは怖かった。手を握っても、毎日食事を一緒にしても、僕は未だに一歩を踏み出せないでいる。


「ごめんなさい、不謹慎よね。あなたはご家族がああなって辛いでしょうに」

「いや、いいんだ。確かに幸せだと思うよ」


 今日も老人ホームからの帰り際、自分の娘をかつて意地悪をしてきた小姑と誤認し怒り出す女性がいた。それに比べれば祖母は幸せだ。


「ありがとう……無理かもしれないけど願ってしまうの。最後に見るのは幸せな幻想であってほしいって」


 僕がそうさせない。口には出せない。けれど代わりに僕は固く拳を握った。君が復讐を終わらせられるように、幸せな記憶を作れるように。叶うことならその記憶の中に僕もいられるように、魚人間を滅ぼす、という声なき決意表明として拳を握る。

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