11.マジックインマイボーンズ


「あのっすいません!」


 休憩か、上りのため店に戻るのかは不明だが、アーケードから裏路地に足を踏み入れたキャッチの青年の目の前に、僕は待ち伏せしていた電柱の陰から躍り出る。青年は気だるげに歩きながら見ていたスマホから一瞬顔を上げて僕を見ると、再び視線を画面に戻し、僕を避けて歩こうとする。僕はすかさず彼の行く手を阻むように可能な限りてを広げてブロックする。


「……何なのお前」


 眉間にしわを寄せながら、青年は再び顔を上げる。双眼鏡では見えなかったが、彼の耳と唇にはごつめのピアスが装着されており、裏路地の少ない光源を反射し鈍く輝いていた。


 やっぱり怖い!


 魚人間インスマスと対峙した時は、どこか現実離れした様が恐怖心を緩和していた。しかし目の前にいる青年の鋭い視線は、現実の延長線上にある恐怖そのもので、陰キャもいいところの僕には耐えがたいものだった。


「邪魔、ぶっ殺すよ」

「死ぬのはあなたの方なのだけれど」


 青年の背後から凛とした死刑宣告が響く。青年は思わず振り返った。人間は振り返った瞬間が一番無防備になるものらしい。振り返った先にいたのが、アルミホイルの覆面を付けた少女という珍妙な人物であれば、思考が止まり無防備になる時間もより長くなるのだろう。青年は少女が構えて吹きかけたスプレーを全く防ぐことができずに顔に浴びた。


「――っ! あああっ!」


 キャッチの青年両手で顔を覆いながら、その場で激しく痙攣し始める。


「あ、アルミ?! 何をかけたの?!」

「塩水。海水くらいの濃さの」


 悶え苦しむ青年の向こう側からスプレーボトルを持った葉が答える。


「普通の人間なら目が染みるくらいで済む。でも擬態したインスマスに吹きかけると……」


 目の前の顔を覆う手に次第に青白い鱗が現れ、指と指の間の皮がたるみ、まるで魚のヒレのような膜を形成する。四肢の各所が泡立つような音と共に膨張し始め、衣服が破れる音がする。青年の耳は徐々に小さくなり、耳たぶについていたピアスがはじけ飛んで地面に高い音を立てながら転がった。


「正体を現す」

「Giiiii!!!」


 咆哮するそれは、既に青年の顔ではなくなっていた。仄暗い海の底から現れた忌まわしい混血種、魚面の怪物インスマスに変貌していた。インスマスは濁った眼で交互に僕と葉を見比べる。

 葉は自分のVALを腰のベルトから取り出すと、インスマスの頭部目掛け振り下ろす。しかしインスマスは僅かに体をずらして致命的な一撃を回避すると、呆気にとられる僕を突き飛ばし逃走した。


「立って、追うわ」


 情けなく地面に転がった僕は、葉の差し伸べられた手を掴んで起き上がると、間髪入れずに走り出した葉に追従し、夜の街を駆け始める。インスマスは跳ねるような足取りで暗い路地を逃走する。一部の通行人が異形の怪物とそれを追う僕らを目撃するが、誰も止めることはしない。それもそうだろう。傍から見たらコスプレをした若者たちが、動画投稿か何かのために奇妙な恰好をして、走り回っているようにしか見えないだろうから。


「やっぱり、駅の方へ向かってる」


 そう呟いた葉はかなりの速度で走ってるにも関わらず息一つ切れていない。対する僕はついていくだけで精一杯で、血の味がしてきた口で必死に酸素を取り込もうとしていた。


「ぜぇっ……なんで人の……ぜぇ……多いところに」


 いくら突飛すぎて現実感がない容姿をしているとはいえ、人目につけば注目を集め逃げづらくなるはずだ。なのにインスマスが向かう方向は、葉の言う通り人通りが多いターミナル駅の方角に相違なかった。


「簡単よ。レプト、あなたが半径3メートルの人間を殺せる爆弾を持ったテロリストだったとする」


 葉はアルミホイルの覆面から覗いた目で前方を疾走するインスマスを捉え続けている。爆弾というのはDWの比喩だろうということを、チカチカと光がちらつく頭で理解する。


「そんなあなたは特殊部隊に追われていて、捕まれば殺される。世界を滅茶苦茶にしたいテロリストのあなたはどうする?」

「……自爆テロ!」

「そういうこと。より多くの人間を巻き込める人口密集地で、あいつは自殺するつもりよ」


 ニュース番組でしか見聞きしない悲惨なテロ行為が今、目の前で起きようとしている。更に僕には先ほどまでの琉衣の言葉を思い出し戦慄した。


『駅前のサイゼ行こっかって話になってるの』


 精神を壊す爆弾を抱えたインスマスが、変わり者だが唯一の友人を殺してしまうかもしれない。その焦燥が脳内麻薬を分泌させ、足を速めた。追従していた葉に並ぶ。


「なんとか駅につく前に止めないと!」

「ええ。でもこのままだと奴に逃げられる」


 インスマスは迷いなく逃走し続けている。このまま追っても距離を縮めることはできないだろう。


「だから挟み撃ちにする。私が追い立てる間に、レプトは近道をして待ち伏せをして」


 彼女は待ち伏せの場所を指定する。駅前にある商業ビルが並んだエリア。図書館に向かう途中でよく通る場所だ。その場所なら分かる。二手に分かれるべき道が近づいてくる。インスマスを見続けていた葉の視線がちらりと僕に向いた。


「倒せなくてもいいわ。私が到着するまで、その場に引き留めておくだけでいい」


 僕は素直に頷く。昨日僕がインスマスを倒せたのは不意打ちによるまぐれだ。今回は正面からの戦いになる。訓練どころか喧嘩もしない僕が、楽に勝てる戦いでないことは自分でもよく分かっていた。


「やってみせる」

「頼んだわ」


 僕らは別々の道へ足を向け、走り続けた。


 ◆


 葉に指定された路地に僕は立ち、息を整える。僕の前方には街灯のない暗い路地の闇が。背後には人が行きかう街の光がある。僕の立つ光と闇の狭間が、最終防衛線だ。

 僕は背負っていたリュックサックからマスクとVALを取り出す。トカゲマスクの塗料で彩られた瞳が僕を見つめる。マスクが意志を持ち語り掛けてくるような気がした。


 できるのか?


 何も持ちえないお前が


 親に捨てられたお前が


 価値のないお前が


 怪物と戦うだなんて


 僕は咆哮する


「ああ! やってやるさ!」


 僕は勢いよくマスクを被る。確かに僕には何もないかもしれない。孤独な生活を送っているかもしれない。街の生活支援課から邪険に扱われるだけの存在かもしれない。でも守りたいものは確かにあった。何もない自分に、物語と笑顔を向けてくれる友人だ。例えいつか無くなる関係だとしても、今日怪物のせいで失うのはお断りだ。守りたいものがあると自覚した僕の体は、まるで魔法が宿ったかのように熱くなる。走っていた時の胸の痛みも、心に燻ぶる恐怖心も消え去り、ただ街の暗部をマスク越しに見据えた。

 僕がVALを構えると、闇の中から高音で不快な鳴き声を放ちながらインスマスが飛び出してきた。

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