4.廃墟の街と魚人間


 放課後。帰りのホームルームが終わると僕は荷物を手早くまとめ、教室を後にする。他文芸部員に鉢合わせないよう、ルートに気を付けながら、我が愛しくもないが憎くもない公立高校の校舎から脱出する。他の帰宅部員たちを追い抜かしながら、僕は街のターミナル駅方面へ足を運んだ。

 人口32万人弱の僕の住む地方都市は、街の東側は太平洋という立地で、ターミナル駅付近を除いては住宅街と、古き良き日本の田園風景が広がっている。逆に駅付近は異常に栄えている。駅からは多数のビルや商業施設に直結するペデストリアンデッキが伸びていて、アーケード商店街、今は勢いを無くした飲み屋街が、それらのビルの足元から広がるように存在している。極端だが日本のどこにでも見られそうな地方都市のひとつだった。


 僕は人通りが増え始めた街を、歩きながら観察する。


「――氏は公助を訴えましたが、本人は不倫! そんな人に政治を任せられますか?!」


 駅のバスターミナルの近くでは、市議会選挙を控えた女性議員が陣営スタッフを引き連れ、街頭演説を行っている。


「今からの時代は自助です! 自助努力! 努力さえすればどんなことでも乗り越えられます!」


 対抗馬の議員が数年前に不倫騒動で辞職してから、この女性議員は過激な発言を強めるようになった。彼女の言葉を支えようと陣営スタッフは懸命に通行人にビラを押し付けようと歩道を行ったり来たりするが、高校生の僕には目もくれない。僕は透明人間になった気分でその場を通り過ぎる。だが街はまだ僕を喧騒からは開放してくれない。


「……世界はもはや取り返しのつかないところまで来ています」


 女性議員から少し離れた交差点で、今度は異様の姿の活動家たちが3人ほど僕の目の前に現れた。そいつらは全員、目が異様なほど突き出ており、中には口から水が沸き立つような呻き声を上げる者すらいる。確固たる信念や心情が人を大きく変えて見せるのか知らないが、僕はその集団に異様な気配を感じ取った。


「闇の結社が世界を滅ぼそうとしてます! 皆様の生活苦もそうです! 今なおみなさんの生活を脅かそうと――」


 しわがれた声で集団のひとりが通行人に叫ぶ。他の二人も、同じ言葉が書かれたプラカードを掲げ、その陰謀論を復唱する。誰もがちらりと彼らを見て、すぐにその場から離れようとした。だが僕は歩調をあえて変えたりしない。集団の前を変わらぬスピードで歩き、そして通り過ぎた。彼らに呼び止められはしない。ここでも僕は透明人間だった。



 僕が目指していたのは、駅の近くにある街の図書館だ。

 僕の自宅には今、誰もいない。両親は数年前に離婚していた。母親に親権があったが、母は僕がいることで再婚できないないことに嫌気がさしたのと、僕の中に父の面影があることに嫌悪感を覚え、僕を置いて失踪した。

 母方の祖母が僕の保護者になってくれたが、その祖母も1年前から認知症が悪化し、今は特別養護老人ホームにいる。僅かな祖母の老齢年金、祖父の遺族年金、そして貯蓄で何とかやっているのが現状だ。

 祖父の蔵書を除けば最低限の生活用品しかなく、誰もいない自宅にいても楽しくはない。かといって部活にも顔を出したくない。時間を潰すのに金はかけたくない。そうなると僕の行きつくところは自然と決まっていた。

 僕は海外文芸の棚に足を運ぶと、丁寧に街の共有財産を本棚から取り出す。


 スティーブン・キングの『呪われた街』


 琉衣からうろんな噂話を聞いた後で読むにはぴったりの一作だ。手近なソファに腰下ろしてページをめくり始める。退屈な日常シーンの描写に疲れがたまった頃合いで、本を閉じ目を休めるべく立ち上がる。

 街の図書館は建物がガラス張りになっていて、光の具合で夕暮れ時の街に自分の姿が映し出されていた。

 凡庸で特徴のない顔つき、かろうじて全国の平均身長よりも数センチ上の身長。日々の食事を抜きがちなせいで痩せた体。窓に映るみすぼらしい自分の姿が嫌になってくる。

 親もいない、身寄りもほぼ頼れない。放課後に暇を共に潰すための金もない。からっぽな透明人間。それが僕だった。琉衣という友人はいるものの、彼女は他にたくさんの友人がいるし、進学なり就学なりでそう遠くない未来にこの街から離れるだろう。いや、それよりも早く、彼女のじめっとして肉感のある、3ページごとに内臓がはじける小説の描写を許容できる、僕よりも背の高くて、金もあって、顔の良いパートナーができたら、琉衣は僕をからかうことを止め、風のように僕の前からは消えるだろう。

 結局のところ、琉衣が言っていたことは正しい。こんなからっぽで虚無そのものな僕が、クラスでも1位、2位を争う美貌を持つ女子と付き合うなど無理なのだ。

 政治家からも、陰謀論者からも見捨てられる、孤独な人間のサンプル例。食品サンプルのように街の図書館のガラスの奥に鎮座し朽ちていく。せめてもの慰めに他人の書く物語でなんとか正気を保ち、時間が過ぎるのを待つ。

 悲しくならないと言えば嘘になる。でも近頃は受け入れることができる自分が構築されつつあった。僕は再び自分をこの世界かろうじてとどめ続けるべく、また座って本を読み進める。


 ◆


 図書館は20時で閉まる。

 閉館時間いっぱいまでいた僕は、図書館近くのスーパーマーケットで値引きのシールが張られた総菜パンを買い、今度こそ家を目指し街を横断する。


 歩きがてら、葉が聞いていた曲をスマホで調べてみる。

 ボブ・ディラン。1960年代に活躍し、今も根強い人気のあるロックスター。彼女が聞いていたのは1965年にリリースされたアルバムの中の一曲で、日本では『廃墟の街』という曲名で知られているようだ。検索結果に思わず鼻で笑ってしまった。この窮屈で、街頭演説と陰謀論がはびこるこの街で聞くにはぴったりの曲名に思える。彼女もそれを思ってこの僕らの祖母祖父世代のアーテイストの歌声を聞いていたのだろうか。そんな他愛のない考えが頭の中であふれる。


 歩きスマホという社会的不道徳を行いながらも、僕は街の中心地と住宅街の狭間まで来ていた。二級河川が駅を中心をした街の栄えた部分とそうでない部分を隔てており、そこにかかる『大橋』を渡ると僕の家、というより祖母の家がある。何気ないいつもの夜の帰り道――僕は橋を渡り始めて少ししてから、異様な唸り声が耳につき、スマホから顔を上げた。


 その唸り声の持ち主は僕が目指す方向、住宅街の方向からぴょこぴょこ跳ねるように僕の方へ近づいてきた。『大橋』に設置された街灯がその姿を映し出した時、僕は先ほどまで読んでいたキングの小説の世界に入り込んだのだと錯覚する。

 そいつは服を纏っていたが、その皮膚は青白く、ところどころ鱗に覆われていた。足や腕にはヒレのようなものが生えており、川の上を流れる風で不気味に揺らいだ。なにより恐ろしかったのはその顔だ。それは人の形を成しておらず、一目で魚類のそれだと分かった。大きく突き出た黒い眼玉。ギザギザで短い歯、首元で大きく開く鰓。


(この街にはね、魚人間が潜んでるんだって)


 昼休みに聞いた琉衣の言葉が頭でリフレインする。自分の目が信じられず、常識という僕の中のソフトウェアがエラーを吐き出し続け、僕の体をフリーズさせた。元凶たる魚人間は、硬直した僕へゆっくりと、不格好な歩みで近寄る。琉衣の話では女の子を攫うという話だが、男の場合はどうなるのか。多くのホラー映画であるように、無様に食い殺されるのか。死の恐怖が体全体を支配する。それを察したのか、魚人間は甲高い吠え声をあげ、距離を詰めた僕へ鋭いかぎ爪が生えた手を振り下ろす。僕の体はなけなしのアドレナリンを放出させ体を動かそうと努力したが、できたのは腕を交差して頭の前で掲げるという、なんとも頼りない防御反応だった。


 こんな死に方ありなのか


 自分の知りえない超常的な存在に殺される。全く予期していない死に方だった。こんなとき、普通の人ならこれまでの人生が走馬灯のように見えるのだろうが、僕にはそんなことは起こりえない。最期まで孤独な人生になってしまった。僕は迫りくる死から目を背けることもできず、ただ終わりを迎えようとする。


「Gyuiii!」


 だが僕の終わりは先延ばしされたようだ。目の前の魚人間の右肩に、何かが突き刺さっている。それは槍のようで、その先を辿ると僕の隣に目線が行きついた。

 その槍の持ち主は走ってきたのか息を切らしていて、僕の隣で両手で槍を握り込み、目の前の魚人間に突き刺していた。槍の持ち主は僕よりも少し背が低く、オリーヴドラブのミリタリージャケットを羽織っている。その下に着込んだジーンズとラフなシャツは、この人物が戦いなれている、という印象を僕に与えた。僕は自分の窮地を救ってくれた恩人の顔を見ようと、その顔に視線を合わせる、が合わせられない。槍の持ち主は顔を銀色の覆面で覆っており、覆面に空いた視界を確保する二つの穴から覗く目だけが、顔のパーツとして認識できた。槍の持ち主は僕と同年代と思しき幼さの残る少女の声で僕に警告を発した。


「なんでもいい! 頭を覆って!」

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