「駘」の段 1 噴水公園で、再び

◇四月七日


「ふんふふーんふーんふふふんふんふーん」


 火曜日。

 他の大多数の企業であれば通常営業中だったろうが、ご機嫌な鼻歌を披露する彼女の休日は今日、そして明日である。

 それすなわちIRKの定休日であった。

 IRKはメインの客層である社会人の休みに合わせて動く為、土日が最も忙しい。

 その代わりに火曜日、水曜日の通常営業は停止している。

 少し遅れた入社後初の休日を前にし、彼女はここぞとばかりに昼まで寝て、午後一時の現在ようやく外出の準備をし始めたのだった。

 先日の訪問の際、スーツケースを持って長い階段を上らなければならなかったのを、次は繰り返さないため、ショッピングセンターへ繰り出す予定だ。

 机にメイク道具を広げた彼女は、ここ数日は抑えめにしていたメイクを目一杯楽しもうと決めていた。


「ふんふーん……よし、おわり!」


 お気に入りのアイシャドウが瞼で煌めく様に満足したモモは、卓上の鏡を伏せて立ち上がる。

 一週間ぶりに手に取ったショルダーバックへ財布やパスケースを移し替えようとして、彼女はビジネスバッグの中で存在を主張する赤いファイルに目を止めた。

 

「……後で復習もしなきゃ」


 パラパラとめくると、今までの努力の跡が見て取れる。


(一週間色々あったなあ……)


 IRKに入社してから一週間、目まぐるしく過ぎていった日々がモモの脳裏をよぎる。

 解雇されたと思ったら拾われ、机に積まれた塔との闘い、アリシアとの出会い、ドラグラノスとムギの元を訪れた事、そして昨日のテストでは初めて小井野に褒められた事……そのどれも、鮮明に思い出せる。

 業種は同じとはいえ、予想とは全く違う道のりを辿ったモモには、今でもこれらの出来事が夢のように感じられた。


「結局、小井野所長って何者なんだろうな……」


 モモはきっと、小井野が悪いスライムではない事は疑っていない。

 否、彼女は疑いたくなかったし、彼の事を信じたかった。

 自分を拾ってもらった恩があるからだ。

 しかし津雲辻ではどんな不思議な事があってもおかしくはなかったが、モモにとってこれほどまで不思議な人物は彼以外にいなかった。

 優しくて賢く、しかし何を考えているのか全く読み取れない。

 モモは時々、小井野の黒い瞳に恐ろしさを感じる事があった。

 まだ出会って一週間だし、分からない事があるのは仕方ない……そう思い込んで、モモはファイルを戻す。


「いってきまーす」


 モモは誰もいないアパートに向けて声を掛けると、鍵を閉めた。

 春の日差しが暖かく、お出かけ日和とはまさに今日の事だろう。

 春らしいスカート、メイク、天気に心を浮きだたせたモモの頭は、今から買いに行く鞄の事でいっぱいになった。


―――――――――


(いい買い物した!)


 彼女の右手にはショッピングバッグ、左手にもショッピングバッグ。

 戦果にご満悦なモモは、今にもスキップをしてしまいそうな心地だった。

 大分薄くなってしまった財布の事は見てみぬ振りだ。

 後は帰るだけのはずだったが、駅前の公園に停車していたキッチンカーがモモの目に入ってしまう。

 可愛らしくラッピングされたパステルの車体は、どうやらクレープを販売しているようだった。

 周囲に漂う甘い香りにつられ、数人が列をなしている。

 緑豊かで噴水もある暖かな公園で、ベンチに座りながらクレープを食べるのも乙なモノだろう。

 モモの理性が傾く。


「待って私、お昼をたくさん食べたばかりよ!」


 唐突に声を上げたモモに、近くにいた風船を持つ少年が肩を揺らす。

 彼女は先程、ショッピングセンターに入っていた定食屋でカツ重を食べた後だった。

 しかし蜜に群がる虫のように、その足は止められない。

 少し看板を覗いてみると、クリームと果物がふんだんに使われたクレープの写真が何枚か貼り付けられており、モモはあれで胃を満たしたいという欲を抑えられなくなった。


(……たまにはいいよね)


 ショッピングバッグを片手に持ち直して財布を取り出し、モモもその列に並ぼうとした時__何かにぶつかった。


「いえへっ……!?」

「うわっ!」


 それは「人」だった。

 ただ、彼が屈んだために、モモがよそ見をしていたがために、彼女は彼の存在に気付かずにぶつかってしまったのだ。


「あいてっ」


 バランスを崩したモモはそのまま前に転んでしまい、慌てて地面に手を着く。

 ショッピングバッグがバサバサと広がったが、彼女にとってはそれよりも、自分の口から突いて出た変な声の方が恥ずかしかった。


「すみません! 大丈夫ですか?」

「あ、だ、大丈夫です……」


 モモは厄介な口を手で塞いで、躓いてしまった彼に向き直る。

 二年前成人したばかりのモモよりは少し年上だろうか、ジーンズにパーカーを着た男性で、黒縁の眼鏡をかけている。


「なんだか、前にもこんな事があったような」


 そう呟く彼は、柔らかそうな茶髪が爽やかで……モモにも見覚えがある人物だった。


「桜庭マジメさん?」

「え、なんでおれの名前……」


 相変わらずのうっかりに、モモは手で塞いだままの口をへの字に曲げた。

 モモはIRKの名簿から彼の事を知っていたが、彼にとってはただの他人にも満たない。

 首を傾げる桜庭の反応も当然だ。


「……クレープ食べませんか?」


 次に彼女の口から出たのは、自分のクレープを食べたいという欲望と、このまま去るのも不自然だろうという気まずさとの折衷案だった。


―――――――――――


「あのアプリにそんな落とし穴が⁉」

「あはは、あの時は焦りました~……。ダメ元で小井野さんに電話したら、大急ぎでチャット機能を改修してくれて。何とか見られずに済んだんですよ~」


 結局、しばらく時間はあるという桜庭とモモは共に、クレープを食べるひと時を共有していた。

 モモは苺と生クリームのクレープ、桜庭はツナサラダのクレープを購入し、話の合間にかぶりつく。

 モモは桜庭に対してIRKの社員である事と、アリシアとのお見合いに同席する予定である事を明かすが、桜庭の方には同席者について既に小井野からメールがあったようだった。

 流れでベンチに隣り合った二人だが、その事以外に話題もなく、話は自然と「アリシアと桜庭の進展について」に行きついた。


「小井野所長がいつ休んでるのか、またわからなくなりました……」

「通常営業は火曜と水曜だけお休みらしいですけど、電話とか急ぎのメッセージの対応は年中無休って書いてあるの見た時、おれもびっくりしましたよ~」

「そうなんですよ! 私の労働時間はブラックじゃなくてよか……ゲフンゲフン」


 昨日の退勤時、モモは単純な興味で定休日は何をするのか小井野に尋ねていたが、返ってきた答えは「仕事ですよ」の一言で、それが彼女に僅かな心残りを生じさせていた。

 とはいえ彼女は入社して間もなくの出張から月曜日の通常出勤で疲れも貯まっていたため、遠慮なく休んでいたのだが。

 そんな労働マシーンのような小井野であったが、一般的な就業時間の知識は持ち合わせているようで、モモに同じ時間働く事を強要しない。

 多少のイレギュラーはあれど、IRKはモモにとってはホワイトな会社と言えよう。


「って、すみません。なんかクレープ食べるの付き合わせてしまって……」

「いえいえ~。それより荷物は大丈夫でした?」

「割れ物とかはないので、大丈夫です!」


 クレープも残り半分に差し掛かったところで、モモは事態の異常さに気が付いた。

 しかし桜庭は多少なりとも自分の予定を崩されただろうに、非常に大らかだった。

 知り合いと言えるのか、絶妙なラインに立つ二人は昼間の公園によく溶け込んでいる。


「なんだか不思議な縁を感じますね~この公園には」

「あ、そういえばここでアリシアさんとお出会いになった……んですよね」


 桜庭はふと噴水の方を見ると、少し口元を綻ばせる。

 モモは思わず彼の頭を見てしまったが、そこに焦げたような跡は全くなく、既に整えられている。


「何だか今でも、夢みたいです……自分があんな人と関わりを持てるなんて」


 黒縁眼鏡の奥の瞳は、あの日を回想しているようだった。

 彼にとっても初めての恋なのだろう。

 モモには、彼が数日前のアリシアと同じ目をしているように見えた。


「……でも」


 桜庭は食べ終わったクレープの包み紙を丸めると、少し目を伏せる。


「おれ、ちょっと不安なんです。今まで人を好きになった事も全然なかったし……。お見合いの時も上手くお話できるか不安で」

「え……」

「すみません、いきなり変な事言いだして。ただ……女性とのやり取りとか、初めてで分からない事も多くて」


 アリシアの話からは伺えなかった、桜庭の弱った姿にモモは惑った。

 彼もお見合いに対して不安を抱えている事は、モモにも予見できた。

 しかしそれを彼女は今まで放念してしまっていた……アリシアの炎を気に掛けるあまり。


(小井野所長だったら……なんて返すんだろう)


 モモが咄嗟に思い浮かべたのは彼女の上司の顔だった。

 思い浮かべるが、頭の中の小井野は微笑むばかりで言葉を発しない。

 モモの彼に対するイメージがそれしかないからだった。


(どうしよう。こんなところで会うなんて予想してなかったし。今、私に所長並みの助言なんて到底出来ない……!)


 カウンセラーとしての知識など、今のモモにはない。

 例の赤い㊙ファイルでは第6章で取り扱われる項目だ。

 桜庭にとってすれば、小井野の「手練れ感」に無自覚の信頼を寄せていたから、同じくIRKの社員であるモモに自分の悩みを吐き出しただけに過ぎない。

 それに過ぎないとしても、モモの責任は重大だ。

 あまり下手な事を言ってIRKに不信感を抱かせても、自分の未発達な経験と知識を披露して桜庭に不利益があっても困る。


(所長に電話……は怪しまれるし不自然すぎか。当たり障りのない事を言って話題を変えるべき……?)


 予想外の時間外労働にモモは頭を悩ませる。

 クレープを咀嚼している振りをして長考するが、いい案は出そうもない。

 沈黙が長い事を不審に思った桜庭が少し首を傾げた時、それは唐突に空から飛来した。


「おやおやおや! こんな所に渡会モモがいるではないか!」

「⁉」


 モモたちの頭上に影が覆いかぶさる。

 一瞬モモはドラグラノスとの出会いを思い出したが、それはかの竜とは反対の、漆黒の翼を羽ばたかせていた。

 ヒトと同程度の大きさの人物はふわりと地面に降り立つと、白い烏の面の下で笑みを深める。


「美味そうなクレープだ。一口くれないか?」


 面にシルクハットと、見るからに怪しい人物に自身の購入したクレープを指さされて、思わずモモはそれを手で覆い隠した。

 半分ほど食べ進めたクレープなんて友人でも分け与えるのを躊躇するものだ。

 勿論モモに念願のクレープを譲る気は毛頭ない。


「……いや、誰ですか」

「なんと! 自分で呼び寄せておいて忘れるとは社会人の風上にも置けない奴め」


 地味に言われたくない事を突かれたモモは、思わずイラつきを顔に出してしまうが、その一言でこの人物が誰なのかすぐに思い当たった。

 しかし同時に、「なんで今?」という疑問をそのまま口に出しそうになって、頬の内側を噛んで耐える。


「わ、渡会さんこの方は……」


 突然の状況に置いてけぼりの桜庭がモモに尋ねると、待ってましたと言わんばかりに、飛来した人物は口上を述べる。


「お初にお目にかかる。ボクはMr.プレゼント……驚きを愛する流浪の旅人にして、『天狗』の長さ」

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異類婚ならおまかせ! 古池ねこ @huruikeneko

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