「春」の段 5 優しい人

「~~~ぷはっ」


 しばらく、ぶくぶくと空気をもらしながら頭を浸けていた彼だったが、酸素量の限界が来たようで顔を上げる。

 ポタ、ポタと水滴を垂らし、肩で息をする彼に、私は謝罪をしなければならない事を思い出した。


「ごめんなさ「大丈夫でした!?」


 しかし、その謝罪の声は私が髪を燃やしてしまった彼に遮られる。

 髪から水滴が垂れるまま、服が濡れてしまった事をも全く気に留めていない真剣な眼差しに、私は思わず身を竦めてしまった。

 続いて私は水に浸けたままだった手を取られ、まじまじと見られる。

 私と違って柔い掌は熱く、しかし火傷にはなっていないようで安心した。

 

「あの、私は大丈夫ですから、貴方の方が……!」

「さっき思いっきり燃えてるとこ触ろうとしたじゃないですか! 火傷とか……って、あれ?」


 自分の事は棚に上げ、彼は私の手を一生懸命に観察している。

 しかし掌も手の甲も、いくらこねくり回してもらっても、火傷の跡などあるわけがない。

 ……私が火を吐いた本人で、竜人だから。

 不思議な事に、彼は疵一つない鱗を見て、何故か目を輝かせている。


「私は本当に大丈夫ですから! ……あの、貴方の髪、燃やしてしまってごめんなさい」


 私がそう言ってようやく、彼は自分の髪の状況を確認し始めた。

 幸いにして彼は髪の量が多い癖っ毛なようで、現在まで痛がっている様子はない。 

 しかし、今は濡れているせいで分かり辛いが、先程は明らかに頭髪が燃えていたのだ、無事なはずはない。

 恐らく彼が屈み、私がぶつかった後、熱が放出されたタイミングで立ち上がってしまったのだろう。

 ペタペタと髪を確認する彼に対して、私はどう謝れば良いか、どう賠償すれば良いかばかりを考えていた。

 かける言葉が見つからず、黙ってしまう私に彼は笑って見せた。


「おれは大丈夫です。丁度暖かくなってきて、髪切ろうかな~とか、思ってたとこですし」

「そんな! しかもけっこう燃えてましたよね!?」

「ま~確かに燃えちゃったっぽいですけど、長さは残ってるし火傷もしてないみたいですから」


 髪は燃えてボサボサになってしまったのに、消火の為に噴水に顔を突っ込んで服まで濡れてしまっているのに、それでも彼は笑っている。


「それに、最初ぶつかったのは多分、おれがいきなり屈んだからですよね? すみません~靴ひもほどけちゃって」

「それでも……美容室代払います!」

「そんないいですよ~」


 彼は朗らかに言う。

 しかし、事態はそれで終わらせて良いものでない事は確かだ。

 私は何とか引き下がろうとするが、その前に彼がキラキラとした目で問いかけてきた。


「それより! 初めてこんな近くで竜人のブレスを見れて感動しました~! それに本当に炎を触っても熱くないんですか?」

「ええ……?」


 まるで誕生日プレゼントを目の前にした子供のような、先程とは真逆とも言える雰囲気を纏った彼に私は目を見張った。

 少し間延びした話し方も子供っぽさに拍車をかけているだろう。


「あっ、おれ大学院で津雲辻における種族の多様性と文化について研究してて~。特に……へくちっ」

「! いけない、タオルを……」


 ここ最近は気温の寒暖差が激しかった事もある、体調を崩すきっかけになってしまうのを危惧して、私は携帯していたタオルを鞄から取り出す。

 そしてタオルを広げると、わざわざ手渡す手間も惜しくて、私はそのまま彼の頭に被せた。

 「わぷ」という間の抜けた声が聞こえるが構わず、髪を傷つけないためにポンポンと少し叩くようにして水気を取る。


「寒く、ないですか?」

「はわわ」

「……はわわ?」

 

 何故か意味の分からない言葉を返されたが、嫌がっている様子ではない。

 私はしばらく彼の頭にタオルを当てていたが……周囲がザワザワと騒がしく、自分たちが人々の注目を集めている事に気が付いた。

 昼間の往来、火を吹いた竜人と頭が燃えていた男性が座り込んで何かしていれば必然の事と言えよう。


「あの、やはり何かお詫びがしたいですし、どこかに移動しませんか?」

「あ、ああ! そうですね~……」


 彼も事態に気が付いたのか、少し顔を赤らめながら立ち上がった。

 続いて私も立とうとして、先程変な力をかけてしまった右足のヒールが悲鳴を上げる。

 

「危ないっ!」


 再び後ろに転びそうになった私を、彼が咄嗟に背に手を回し、支えてくれた。

 見事な瞬発力に感嘆した周囲から拍手と歓声が上がる。

 

 しかし彼が被ったままだったタオルに、私たちと周囲は遮られて。

 二人は至近距離で見つめ合っていた。


 多分、私は半分くらい何が起こったか理解できていなくて、彼もそれは同じだろう。

 鱗のない背に回った手が熱かった。

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