「春」の段 4 噴水広場

◆三月二十一日 アリシア・ドラゴニア


 私の名はアリシア・ドラゴニア。

 28歳で、現在の仕事は出版関係。 

 竜の角、尾、鱗を持つ竜人だ。

 しかし私は竜人の中でもヒトに近い方なので、体のつくりがやや違う程度で普段は街中で暮らすことに不便はない。

 生まれは海の向こうにある竜人の街だけれど、両親の仕事の都合で、私が14歳の頃に津雲辻に引っ越してきた。

 最初は戸惑いもあったけれど、津雲辻では周囲の人々に恵まれ、私は何不自由なく育てられてきたと思う。

 ただ、学生時代は勉強と趣味のカメラに没頭し、就職してからも仕事一辺倒だったから、恋愛経験は……ない。


 しかし結婚願望が全くないわけでもなくて、両親に孫の顔を見せてあげたいし、一度くらいまともな恋愛をしてみたい……というのはこの期に及んで我儘だろうか。

 先週、28歳の誕生日を迎えた私は、友人に勧められてようやく重い腰を上げたのだった。

 最近仕事の関係で知り合った人の中に、小井野さんという結婚相談所を経営している方がいたのも、きっかけになっただろう。

 彼が経営するIRKエージェントに入会し初回の面談を済ませた私は、それだけで期待に胸を膨らませていた。

 

(今日はこの後13時から津雲辻大学の梔子くちなし教授と打ち合わせ……終わり次第帰社して編集作業)


 駅前のカフェで腹ごしらえを済ませ、念のため印刷しておいた地図を手にして歩き始める。

 少し情けないけれど、方向音痴は私の昔からの弱点だった。

 目的地の大学は最寄りの南辻駅から徒歩五分程度らしいが、油断はできない。


(噴水のある広場で右の道に入れば、後はまっすぐ進むだけね)


 駅前は比較的若者が多く、ランチタイムという事もあって賑わっていた。

 近くに大型のショッピングセンターがあるからか、ショッピングバックを持つ人を良く見かける。


(ヒールは控えた方が良かったかも……迂闊だったわ)


 南辻駅周辺は商業施設の開発が進んでいるものの、歩道はヒールでは歩きにくい凸凹のあるタイルである箇所が多かった。

 それでも慣れてはいるので転びはしないけれど、次回以降はもう少しヒールのないパンプスにしておく事を記憶の片隅に留めておく。


 広場に入って辺りを見回すと、噴水付近は平らなタイルになっていた為、最短距離ではないもののそちらを通っていくことにする。

 ふと周りを見渡すと、ベンチに腰掛けて互いを見つめ合うカップル、噴水を背景に写真を撮るカップル、お揃いの洋服を着て腕を組むカップル……平日昼間だというのに、やたらとカップルが目に入ってくる。

 以前はそんな事はなかったのに、恋愛・結婚について真剣に考えねばと思うほど、他の幸せそうなカップルが羨ましく見えてしまう。

 

(いいえ、他の人の事を気にする場合じゃないわ、アリシア。少し動き出すのが遅かったかもしれないけど、私も幸せを掴むの!)


 そんな密かな決意を固めている間に、噴水の前まで到着する。

 念のためもう一度地図を確認してから進もうとした時__何かにぶつかった。


「きゃっ……!?」

「うわっ!」


 それは「人」だった。

 ただ、彼が屈んだために、私が地図を取り出したがために、私は彼の存在に気付かずにぶつかってしまったのだ。

 唐突な衝撃で、喉がカッと熱くなる。


(っだめ!!)


 バランスを崩しかけている私だが、この人の背に手を付くわけにはいかない。

 私の爪で傷つけてしまう可能性がある。

 横にたたらを踏むのも駄目だ、前方に人がいた。


(踏ん張って後ろに尻もちをつかないと……!)


 喉の熱を呑み込もうとするけれど、これを出しそうになったのが随分久しぶりで、上手くいかない。

 ヒールが嫌な音を立てたが、重心を後ろに持っていく事には成功する。


 最後の意地で顔を上げて、私はブレスを吐き出した。


 一瞬の内に視界が光に奪われ、肌で熱を感じる。

 なんとか人がいない空に向けて放つ事が出来たけれど、久しぶりな事もあって相当な威力だったようだ。

 ランチタイムの緩やかな時間を過ごす場所であったはずの広場が騒然としている。


「ケホッ、ケホッ……」


 せき込むと、ボボッ、と音を立てて小さな熱の残滓が出てくる。

 まさか28歳にして意図しないブレスを漏らしてしまうなんて、と羞恥心がこみ上げてきた。


「大丈夫ですか?」


 座り込んだ私に声をかけてくれたのは、服装からして私がぶつかってしまった人だった。

 私より少し若いだろうか、ジーンズにパーカーを着た男性で、黒縁の眼鏡をかけている。

 眼鏡の奥の瞳は栗色で、瞳と同じか少し暗い色の、しかし光に透かされて輝いて見える髪は……輝くを通り越して燃えていた。


「か、髪ッ! 髪が!!」

「え、髪? …………アツっ!?」


 男性は私に言われてそっと手をやり、ようやく気が付いた様子だった。


「消火しなきゃ……!」


 気が動転した私は、手で火を払って消す以外の方法を思いつかなかったらしい。

 しかし手で払おうと火の勢いは弱まらず、手に持っていた地図を使ってパタパタと風を送ってみるも、新たな燃料に延焼する結果に終わった。


「き、消えない……!?」

「ッあの、失礼します!」


 男性が何か言ったか、と思った時には彼は私の手を掴み、噴水に浸けさせる。

 次いで、彼は自身の頭ごと噴水に突っ込んだ。

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