第34話 それでも愛してくれる?
ベッドから起き上がった雪奈が、おもむろに胸倉をつかんできた。
額を鳩尾に押し付け、涙ながらに訴えかけてくる。
「せっかく……兄さんは綾ちゃんと二人になれたのに……どうして……」
「綾音だけじゃダメなんだ。雪奈も一緒にいてくれないと俺は――」
「そうやって兄さんの優柔不断さに付き合って、苦しむのは私や綾ちゃんの方なんですよッ!」
「ッ……」
雪奈は胸倉を掴む手にさらに力を込めてきた。
彼女の握力のせいか、その言葉に気圧されたせいか……息苦しさを感じ、何も反論の言葉すら浮かんでこなかった。
二人を幸せにしたいと願っていても、俺のワガママで振り回されるのは二人の方だ。
分かっている。
桃華にだって引っ叩かれたくらいだ。
だけど……。
「それでも、俺は二人を幸せにしたい」
「…………どうして、ですか」
雪奈の手が僅かに緩む。
その手に自身の手を添わせ、軽く握った。
「俺は、二人からそれぞれ力を貰ってたんだ。綾音がいたからこそ、両親が居なくても挫けずに雪奈を支えられ続けた。雪奈がいたからこそ、そんな綾音がいなくなっても生きてこられた。俺にとっては、二人ともかけがえのない大事な存在なんだよ」
「それが、こうして私を苦しめているのに……ですか?」
「これがエゴだってことくらい分かってる。だけど、俺には二人とも後悔してほしくないし、俺自身も後悔したくない」
沙織が言っていたことを思い出す。
後悔しないように、今やりたいことをするんだと。
沙織はおそらく俺たちよりも短い時しか生きられない。
そう伝えられて、その短い期間をどう全力で生きるかを模索していた。
俺や雪奈は違う。
いつ死ぬか分からないし、たぶんだけど沙織よりは長く生きられるはずだ。
だが、だからといって後悔する生き方を選びたくない。
死は突然にやってくる。
未来や希望がこの先の人生にあったとしても、そんなことおかまいなしに。
唐突に死んでしまった綾音。
彼女のように後悔したくない。
だから、後悔しないように生きるんだ。
やりたいことを今、全力でやるんだ。
俺が今やりたいのは、大切な存在である二人を幸せにすることだ。
「エゴだっていい。人に理解されないワガママでも、浮気だって引っ叩かれてたっていい。それでも俺は、俺を今まで支えてくれた二人を幸せにしたいんだ」
「私以外に誰かを選んで、幸せになれるわけないじゃないですか……」
雪奈は腕を下ろし、今度は布団を握りしめた。
俯き、その双眸から涙を溢す。
「私は、兄さんだけに愛されたいんです……他の誰かなんて必要ない。私だけを見ていて欲しいんですよ」
「どうしてそこまで……」
「兄さんなら分かるでしょ?」
小さく震えながら、雪奈は俺を見上げた。
「私たちには両親なんて居ていないようなものです。でも、兄さんだけがいてくれたから、私は寂しさなんて感じずに今日まで生きてこられたんです。その兄さんが、他の誰かに取られちゃうって考えると、苦しくなるのは当たり前じゃないですか……ッ!」
両親は、俺たちに無関心だ。
海外で仕事をすると言って出て行ったまま、全く帰ってこない。
生活費は毎月口座に入れられるものの、それ以外のことは一切関与していない。
この間の入院費用だって、両親にとってはどうでもいいことのはずだ。
俺たちのことを『金さえあれば勝手に育つ動物』だと思っているのだろう。
でも、雪奈は昔から違った。
両親がいないことを寂しがり、泣いて、たまに眠れないと駄々をこねていた。
雪奈には両親が必要だったんだ。
だというのに、親が必要な時期に雪奈は愛されなかった。
そうして、他人に無関心になってしまった。
だから、学校でも孤立している。
桃華以外とは話をせず、俺の前でだけありのままの姿を見せている。
「私が私でいられるのは、兄さんだからこそなんですよ……」
雪奈の言葉が胸に刺さる。
両親がいないも同然な俺たちは、もはや共依存と呼んでもいいような関係だった。
どちらかが欠けても成り立たない存在。
心のどこかを欠陥している二人が、失った部分を補って生きている兄妹。
俺たちは、そういう歯車みたいな兄妹だった。
「綾ちゃんと兄さんが付き合い始めたって聞いたとき、私、死のうかと思ったんですよ」
「え……」
突然の告白に、頭が真っ白になる。
雪奈は布団の中で膝を抱えた。
「兄さんが私以外の誰かと時間を共にするなんて、絶対に嫌だったから。でも、結局死にませんでした。私が死ぬよりも前に、綾ちゃんが死んじゃったから……」
綾音は、俺と付き合ってたった二週間で死んでしまった。
もし、彼女が生きていたなら雪奈の方が死んでいたのかもしれない。
思わず脳裏に浮かんでしまった光景に、ゾッと肌が粟立った。
俺の反応に気づかないまま、雪奈は俯いて言葉を続けた。
「あの時、私は幼馴染みが死んじゃって悲しいというよりも、兄さんが奪われなくてよかった……なんて思ったんですよ」
「っ……」
「そんな私でも、兄さんは好きでいてくれるんですか?」
雪奈が顔を上げた。
頬を伝う涙は泣く、その瞳にあるのはただただ真っ黒な虚ろな感情だった。
「他人の死を喜ぶ私を、愛してくれるんですか?」
二人きりの保健室に沈黙が下りた。
俺は答えられず、固まってしまう。
やがて、雪奈は小さく息を吐いた。
「……私、やっぱり兄さんの目の前にいるわけにはいかないんですよ。兄さんだって、私よりも綾音ちゃんの方が大事なんですよね」
「そんなことは……ッ」
「だったら、私が骨になっても愛してくれますか?」
雪奈の机の上に置いてあったノートに書いていた台詞。
それを思い出し、俺は――。
「……俺は、骨になったらもう愛せない」
雪奈はぴくりと肩を震わせた。
諦めたように、小さく「そうですか……」と溢す。
「だったら、やっぱり――」
「だけど、それは雪奈よりも綾音のことが好きだって意味じゃない」
「え……?」
驚く雪奈。
その肩を掴み、俺は続けた。
「俺は、もう過去に囚われるのをやめようって決めたんだ。綾音とデートしたあの日、俺は綾音の骨をアイツの家に置いてきた。前を向くために」
「前を向く……?」
「綾音の骨を持っている間、俺はずっと過去に縛られていたんだと思う。綾音のことをいつまでも好きで居なきゃいけない、って思ってた。だけど、それじゃあ綾音自身が悲しむんだよ」
死んでいった者たちは、遺してしまった人たちに前を向いて欲しいと願っているのかもしれない。
少なくとも、綾音はそうだった。
だから。
「もし、雪奈が死んだとき、俺がいつまでも雪奈に縛られたまま前を向けなかったら、お前も悲しいだろ」
「そんなことは……」
「俺は、もし先に俺が死んで雪奈が前を向けなかったら悲しい。俺のことを忘れてほしいとは言わない。だけど、前を向いて欲しいとは思うはずだ」
「……」
「雪奈が骨になっても、その骨は愛さない。今ここにいる雪奈を死ぬまで愛するから。お互いに、いつ死んでもいいって思えるくらいに」
生きている間に、後悔がないくらいに大切な人を愛する。
そうすれば、いざその日が来たとしても後悔は残らないはずだ。
「誰かを好きになるあまり、他の誰かを憎んでしまうこともあるだろ。だから……うん。綾音が死んで喜んだのだとしても、俺は雪奈のこと許すよ」
「ッ……」
「それでさ、俺はもう誰にも後悔してほしくないんだ。二人がいつ死んでも後悔しないってくらいに愛してあげたい。たとえ、それがどれだけ身勝手なエゴだったとしても、雪奈が俺を大事だって言うなら俺は雪奈を大事にする。綾音も同じくらいに大事にする! 二人とも、人生で二度と後悔しないくらいに愛してやる!」
だから……と、俺は雪奈に目を合わせたまま言った。
「俺と、この先も恋人でいてほしい。どこかにいなくならないでほしいんだ」
「…………兄さんは、バカですよ」
雪奈は俺の手を払い、膝を抱えて蹲った。
「私、こんなにバカなのに……兄さんの大事な人に『死ねばいいのに』なんて思ったこともたくさんあるのに……それでも、こんな私のことを好きでいてくれるなんて……」
「俺はそれだけ、雪奈に支えられてきたんだ。今さら、多少性格に難があるからって何だって言うんだよ」
雪奈の頭を撫で、俺は笑いかけた。
「今すぐ認められなくてもいい。いつか、俺のやりたいことを認めてくれたらそれでいいんだ」
人間はいつ死ぬか分からない。
だけど、いつ来るか分からない死に怯えてばかりの日々を過ごす必要なんてない。
人生の最後で後悔しなければいい。
沙織の言葉を思い出し、俺は言う。
「二人を幸せにするって言葉は、これからちゃんと証明していく。だから、これからも傍にいてくれないか?」
「……そんなの、当たり前じゃないですか……っ」
雪奈は顔を上げると、おもむろに俺へと抱き着いてきた。
「私、やっぱり死にたくない! 消えたくなんてないんですよッ‼」
「……ああ」
「兄さんにたくさん愛してほしい……綾ちゃんとは比べ物にならないくらいに、たくさん大好きって言ってほしいんです……」
「これから何度でも言う。雪奈が満足するまで」
「じゃあ、満足なんてしてあげませんから。死ぬまで、ずっと好きって言ってもらいますから……」
「いいよ。雪奈の幸せのためなら、何でもしてあげるから」
「……バカですか。そんなこと、できるはずないのに」
「雪奈が望むならやる。そう決めたんだ」
もう、二度と大事な人を後悔させない。
死ぬまでに、幸せにしてやるんだ。
「雪奈、大好きだ」
耳元で囁いた。
雪奈はビクッと身体を跳ねさせ「はい……」と涙で声を震わせた。
「私も、好き……大好きです、兄さん……うっ……うぅ……ッ」
しがみ付くように抱き着きながら、雪奈は涙を溢す。
安堵したように、甘える子供のように。
「ごめ、んな……さい……兄さん……ッ! 勝手に、死のうとしちゃって……ごめんなさい……ッ!」
「……本当だ。心配したんだからな……ッ!」
俺たちは抱きしめ合い、涙を流した。
胸中に燻る不安を消すように。
生きている今を噛みしめるように。
そうして、溢れる涙に視界を滲ませながら誓うのだ。
「今度こそ、二人とも幸せにするからな」
「……うんっ」
雪奈が身体を離し、笑顔で言った。
「私も、同じくらい兄さんを幸せにするね?」
その笑顔を向けられると、何があっても頑張れるような気がしてくるのだった。
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