第10話.可愛いの嵐

 


「――――――はっ!」



 セシリーは覚醒した。

 あまりの衝撃に、一瞬、気を失っていたのだ。


 目の前には、不思議そうな顔をしたジークが待ち受けている。

 セシリーは身体を震わせながら、おずおずとジークに問う。


「あの。い、今、何か言いました?」


 そうだ。自分はただ、都合の良い聞き間違いをしたのかもしれない。

 そう思ったのだが、ジークはあっさりとその言葉を繰り返した。


「だから、可愛いって言ったんだよ」

「!!!」

「お前があんまり可愛いから」

「!!!」


 連打である。

 2コンボで脳天を撃ち抜かれたセシリーは、しかし気を緩めない。


「お、お前って、だ、だだ、誰……でしょう?」


 まだだ。まだ、確信は持てない。惚れ薬の効果をキチンと確かめねばならない。

 するとジークは首を捻って。


「セシリーだよ。他に誰が居るんだ?」


(へぁっ)


 ――再び、セシリーは気を失った。

 しかしすぐに意識を取り戻すと、もう一度、恐る恐る訊ねる。


「も、も、もういっかい、言ってください」

「セシリー?」

「名前と一緒に、言って!」


 セシリーの必死さがおかしかったのだろうか。ジークが、ふっと笑みを漏らす。

 褐色の瞳を愛おしげに細めた笑顔に、セシリーの胸がどきりと高鳴った。


「いいよ。何回だって言ってやる」


 ジークの大きな手が、セシリーの両手をまるごと包み込んでしまう。

 追い詰められたセシリーの頭が、とすん……と甘く、背後の壁に押しつけられる。この時点で逃げ場はない。あったとして、頬を染めるセシリーが逃げることはなかっただろうが。


 そうして彼は。

 我が儘な恋人に応じるように、少しだけ悪戯っぽく……セシリーの耳元に、掠れた囁きを落としたのだ。






「セシリー、可愛い」






 ――それは、セシリー・ランプス誕生以来、初めてのことであった。


 父親であるスウェル以外の男性に、呼び捨てされること。

 父親であるスウェル以外の男性に、可愛いと言われること。

 ちなみに、耳元で色っぽく囁かれるのは有史以来、マジの初体験であった。


 その瞬間、セシリーに残っていた疑いや不安は、跡形もなく彼方へと消し飛んだ。

 そんなことは何もかもどうでも良くなった。目先の甘美な欲望を前にして、セシリーはすべてをかなぐり捨てていた。


「わ、私って……可愛いの?」

「可愛いよ」

「ど、どれく、どれくらい可愛い?」

「可愛すぎて、食べたくなるくらいだな」

「えっ。じゃあもう、食べて♡」


 そして生まれて初めて遭遇する未知の状況を前にして、セシリーの理性はぐずぐずに溶けていた。

 壁に寄りかかって自ら身体を倒すセシリーに、ジークが覆い被さってくる。彼の吐息が、セシリーの前髪を撫でる。なんて清涼な風だろうか。


(あっ、私、本当にこの人のものに、なっちゃう……)


 自分、食べられるのだ。今からこのワイルドな男に、食べられちゃうのだ。

 セシリーは荒らげそうになる息を必死に押さえて、ぎゅっと目を閉じるが。


「――悪い子だ、セシリー。嫁入り前の娘が、男を誘惑するな」

「はわっ」


 額を柔らかくデコピンされてしまう。

 びっくりして目を開けると、ジークは笑いを堪えるような顔をしている。その表情にも、隠しきれないセシリーへの愛情がにじんでいる。

 ぷぷう、とセシリーは頬を膨らませた。


「もう、ジーク様ったらひどい!」

「ジーク様?」


 ジークがとたんに顔を顰める。


 何か、彼の機嫌を損なうようなことを言ってしまっただろうか?

 どうしよう、どうしようとおろおろするセシリーは、もはやジークなしでは生きられない身体となっている。ジークに「嫌い」とでも言われたら、その場で命を絶ちかねない。


 しかしジークはすぐに目元を和ませると。


「ジーク、って呼ぶ約束だろ?」

「うん、そうだった……っ!」


 なかった約束すら、二人ならばゼロから生み出していける。


「ジーク。ねぇ、ジーク。も、もっかい言ってくれる?」

「可愛い」

「もっと!」

「可愛い。可愛い。可愛いよ、俺だけのセシリー」

「もっと言って! 可愛いって!」

「可愛い、可愛い、可愛い……やべぇ、食べたくなる」

「えっ。食べて♡」

「こらこら」

「はううううう」



 可愛いの嵐は、その後、使用人たちが気がつくまで吹き荒れ続けたという。








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読んでいただきありがとうございます。


可愛いの嵐に吹っ飛ばされた方、ぜひ★を押していただけたら嬉しいです。

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